2 やっぱり子供
ベッドにもぐりこめば、殿下に自然に抱き寄せられる。思いを伝えあったあの日から、夜はそうやって毎日眠っていた。静かにその日にあったことを話すこともあれば、あまりに疲れていてすぐに眠ってしまう日もある。
ただし、移動中はディーやイアルと同じテントだったこともあって、一切触れずに隣り合って寝ていた。
殿下はソランのこめかみに口付けを落とし、唇を押し当てたまま満足気な溜息をついた。久しぶりのことで、彼女はどぎまぎして体を強張らせた。
頭を撫ぜられ、その延長で背中にも上から下へと掌が何度も滑らされる。それは穏やかで心地よく、ソランの体から次第に力が抜けていった。
「疲れたか」
頭の上からも、顔が触れている場所からも、ソランの体に声が響いてくる。
「いいえ、さほどは」
心地よい疲れはあったが、疲労困憊するほどではなかった。殿下がくすりと笑った。
「見事な手綱さばきだった。馬が好きか」
「はい」
賢くて力強くて美しい生き物だ。
「そういえば、視察の道中でも、よく馬の面倒をみていたな」
「領地でも見ていました。これでも一応牧場主なんですよ」
「領地から連れてきたという馬はいい馬だった。あれもか」
「はい。種付けから立ち会いました」
殿下は小刻みに体を震わせて、くっくっくと笑いだしはじめる。
「男の腕の中で、けろりとそんなことを口にするおまえは、本当に子供だな」
何を言われているのかわからない。顔を上げて確かめようとしたソランの頭を押さえて、宥めるように背中を叩いた。
「よい。私が穿ちすぎた」
そして話題を変える。
「明日は午前中は事務処理をしなければならないから、おまえのことはアロナ婦人に頼んでおいた。午後にはあくから、海を見にいくか?」
「はい」
今も波の音が微かに聞こえる。こちらに着いて見た海は、闇の中で底知れぬほど真っ黒で、ソランはなんだか怖いと感じた。
でも、日の光の下では青くて美しいのだという。白い波が打ち寄せては引き、絶えることはないのだとも。水が塩辛いとも聞いている。それに、とてもとても広くて大きいらしい。陸が見えないほど沖に出ると、見渡す限り平坦な水しか見えなくなるのだという。
それらすべてが想像つかない。ソランは楽しみでしかたなかった。
「海を見るのは初めてです。船にも乗れますか?」
「ああ。明日は無理だが、大型船が来る予定だから、それが来たら乗せてやろう」
「楽しみです」
わくわくして、すっかり眠気が吹き飛んでしまう。横向きに屈んでいた姿勢から転がって仰向けになり、殿下へ顔だけ向けた。殿下は片腕をソランの肩の辺りに掛け、肘枕をして頭をもたげた。
「塩田や真珠の養殖場にも連れて行ってやる。港街も面白いぞ。他にも行ってみたいところ、してみたいことがあれば言え。ここでは思いきり羽を伸ばして楽しむつもりだからな」
ここを出た後に控えていることを思い出し、そんなことをしていていいのだろうかと、ソランは返事を躊躇った。それを殿下がわかっていないはずもなく、理解を示すように髪の間に指が滑り込まされ、そっとかきあげられるようにして撫でられる。
「すまんな。そのかわりここを出たら、二度と穏やかな日はやってこないかもしれない。おまえがゆっくり成長していくのを見守ってやりたかったが、そうも言っていられなくなってしまった」
痛みや自責の念が滲む声音に、ソランはもう一度殿下へと向き直った。わざと突っかかるように話しかける。
「私だって、もう成人しております。まるで私がすごく幼いような仰りようですけど、私たちは二つしか違わないのですよ」
「いや、三つだ。おまえは夏に十六になったばかりなのだろう? 私たちはほぼ三つ違う」
「え? 生誕祝いはありませんでしたよね?」
「死んだことにしてあるのだから、大っぴらにはできんだろう。こんな時だしな。それはバートリエから帰ってからということにした」
ソランは思わず体を起こした。
「いつ? いつだったんですか?」
「一月くらい前だな」
ソランは淑女修行で落ち込み、局員は出払い、殿下も忙しくしていた頃だ。完全にソランの手落ちだ。知らなかったなど、なんと薄情だと思われてもしかたない。
「すみませんでした。お祝いもせずに」
「かまわん。誕生日など何がめでたいのか、ちっともわからなかったからな。そのわりに舞踏会なんぞ開かれて、面倒ごとばかりこなさねばならん。公式行事で何もなければ、私の誕生日嫌いは有名だから、あえて何かしようとする者もおらん。今年は静かで良い誕生日だった」
「祝うのは、迷惑ですか?」
ソランにとっては、殿下が生まれた日は、他のどの日よりもありがたい日だ。生まれてきてくださった、奇跡のような日だ。
「いいや。おまえが祝ってくれるのなら、そんな嬉しいことはない。私も、おまえの生まれた日は祝いたいしな」
「では、その帰った時でいいですか? 遅くなってしまいますけれど、何かお祝いさせてください」
「ああ、そうだな。そうしてもらおうか」
そう言いながら、ソランの肩を引っ張り、掛け布団の中に戻してやる。
「あまり悩まなくていいぞ。私は口付けの一つでももらえれば満足だからな。なんなら今でもかまわん」
からかい気味のそれに乗じて、さっきからどんどん胸の中に溜まっていくばかりの気持ちを伝えるべく、ソランは暗闇の中、狙いをつけて、ちゅっと音を立てて軽くしてみた。
なんだかちょっと硬かったので、位置がずれていたのかもしれないが、恥ずかしくて、やり直すことなどとてもできなかった。
「かすりもしてないぞ」
おかしいのか残念がっているのか微妙なそれに、ソランは反射的に頭を下げ、コツリと額を殿下の鎖骨にぶつけた。
「すみません! 一応、遅れるお詫びのつもりだったんですが」
「やっぱり子供だ」
むっとして頭を上げたら、頭頂がゴツンと何かにぶつかった。同時に殿下も呻く。
ものすごく痛い。お互いにしばらく黙って悶絶する。そのうち、ソランが自分で押さえている場所に、殿下がそっと触れた。
「大丈夫か」
「大丈夫です。すみません」
「いや、いいんだが。……もう、寝るか」
「はい」
なんとなく高まっていた気持ちが痛みによって散らされ、どっと疲れが押しよせてきた。
ソランは再びおとなしく抱き寄せられ、一つあくびをすると、三分後には眠りに落ちていた。彼女は寝起きも良いが、寝つきもいい。本人は気づいていないが、特技といってもよいだろう。
だから五分後に零された、殿下のあきれ返った声は聞こえるはずもなかった。
「ほらみろ、やっぱり子供ではないか」
何をする間もなく、すとんと眠ってしまったソランを抱きしめ、殿下は深い深い溜息をついたのだった。