1 男の方って、時々、すごく自分勝手なんですわ。
王都の門を出たのは、朝日が昇ってまだ間もない時間だった。冬季のことで日が短いので、とにかく明るい間に移動できるように、早朝の出発となったのだ。
ソランも他の兵と同じにマントの下に鎧を着けていた。鞍の後ろには、もしもの時のために二日分の携帯食料と、弓矢と剣を二本積んでいる。もちろん医療鞄も持ってきた。必要最小限の荷物で済むように、それ以外は先にキエラに別便で送ってあった。
そして、ソランは図らずも王都の排水システムを見ることになった。いいや、正しくは、はじめて認識できたということになるのだろうか。それまで何度か出入りの際に目にしていたのだが、気付かなかったのだ。
「あの灌漑施設は、勝手に修理も補修もしてはいけないことになっている。畑の区画もだ。王都を包囲された時、水路も柵も畝も果樹も、すべてが敵の足を阻む障害となるのだ。よく見ていくといい」
出発前に殿下が教えてくれたそれを、ソランは左右に首をめぐらせては確かめた。
王都のまわりは、王家直轄の広大な農園になっていた。水路から流れだす豊富な水を使って灌漑設備が張り巡らされ、また、集められた屎尿やゴミで作られた肥料が使われているのだ。ここから収穫されたものは、そのほとんどが王宮と軍とに卸される。
このシステムが作られたのが千六百年以上前だというのだから、ソランは驚かずにはいられなかった。当時より人口が増え、王城の主さえ何度も変わり、幾多の戦を経ているはずなのに、未だにその機能を失わない。
その先見の明には、ただただ畏敬の念を抱く。十年や二十年先の話ではなく、それこそ千年を越える未来を見据えた視点。
国の中枢に関わるというのならば、それを己も持たなければならない。朝の冷気のせいばかりでなく、ソランは身の引き締まる思いに身を震わせた。
日に夜を接ぐとまではいかなかったが、移動中は毎日、日が昇る頃に宿営地を出、日が沈む直前に次の地に入る強行軍だった。
宿営地は大人数のことなので館などには入らず、周囲を見渡せる広い場所にいくつもテントが張ってあった。そこに炊き出しの用意がしてあるのだ。
まったく戦時と同じ具合であったから、特に凝ったもてなしもなかった。挨拶も領主と次期が訪れ、殿下やソランと共に、兵と同じ食事をする程度であった。
道中の近隣に、先の暗殺騒ぎで処断された領地があった場合は、そこに駐留している部下が待機しており、領内の様子などが詳しく報告された。
そういったあらゆる報告の場にも、彼女は必ず同席を求められた。それによって、殿下に次ぐ地位の扱いが徹底されるようになった。
四日目には馬すら取り替えて、日程は予定通りに進められ、何事もなく七日目の夕方に、キエラに到着したのだった。
「お疲れ様でございました。ご無事のご到着、なによりでございます」
殿下のキエラでの居城であるという岬の突端の城で、妻を伴い出迎えてくれたのはイドリックだった。
それに、領主代行の任についているハリー・ファングも、妻と息子夫妻を連れて控えていた。息子ウォルターの妻は、イドリックの妹であるという。
殿下がハリーやイドリックと話しはじめるのと同時に、ファング夫人のアロナが女性二人を呼び寄せて、改めてソランに挨拶した。
「滞在中はこの者たちがお世話をさせていただきます。どうぞなんなりとお申し付けくださいませ」
イドリックの妻はファティエラといい、黒髪と見紛う濃い色の豊かな髪をした、切れ長な目の細面の美人だった。
一方、妹はスーシャといい、やはり同じ色の髪に丸顔の柔らかい印象を持つ可憐な人だった。
イドリックもそうだが、西大陸のエランサ出身のせいか、三人ともどことなく顔つきが異国めいている。
ここでは高位の立場である彼女たち自らの申し出に、ソランは心中で恐縮した。
だが、道中、殿下にさんざん、低姿勢になるなと説教され続けていたので、ソランはミルフェ姫下を思い浮かべながら、婉然と微笑んでみせた。居丈高にならないように、でも、威厳を失わないように。
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」
スーシャと目が合うと、彼女はランプの明かりでもそれとわかるほどポッと頬を染め、うっとりとソランを見上げた。どこか隙のないファティエラも一瞬目を見開き、ソランを凝視した。
どうやら笑顔は引き攣っていなかったらしいと、こっそり胸を撫で下ろす。
アロナがスーシャの腕に触れると、彼女ははっとしたように、慌ててもう一度頭を下げた。
「お疲れでございましょう。お湯の用意をしてございます。どうぞこちらへ」
軽く頷き、先に立って案内するスーシャの後に続いた。ソランが動くと、イアルもついてくる。ファティエラが戸惑ったように彼に声をかけた。
「どうか男性はご遠慮くださいませ」
立ち止まってしまったソラン一行に気付き、殿下が声を掛けた。
「それはイアル・ランバート。ソランの副官だ。護衛も兼ねているから、これからはそのつもりで取り計らえ。だが、イアル、今はおまえも先に身形を整えろ。イドリック、ソランの護衛につけ」
自分の居城内ですら警戒を怠ろうとしない殿下に、歳若い女性二人は驚いた様子を見せた。そして殿下からソランへと視線を走らせ、妙に納得した顔を見せる。特にスーシャは花が開くようにふんわりと微笑み、「まあ、素敵」と呟いた。
自分の呟きに気付いて、とっさに両手で口を押さえる様が可愛らしい。常々、あんな仕草が似合うようになってみたいものだと思っていたソランは、思わず笑みを浮かべた。
女四人でなんとなく目を合わせ、通じるものを感じる。年長者のアロナすら口元をゆるめ、ふふふ、と微笑みあった。
「いろいろ教えていただきたいことがあるのです。滞在中、時間をとってもらえますか?」
ソランが尋ねると、嬉しそうにスーシャが顔を輝かせ、アロナとファティエラがにっこりとした。
「もちろんです! 兄からお話を伺って、ぜひぜひお会いしたらお礼を申し上げたいと思っていたのです」
「お礼? お礼を申し上げるのは私の方です。イドリック殿には大変お世話になりました」
「まあ、本当に? 兄はお役に立ちましたか?」
「もちろんです。とても頼りになる方です」
ソランは真面目に請合った。
「まあああ! ファティ! 良かったわね、寂しい思いを我慢した甲斐があったわ!」
そう言ってファティエラに抱きついた。抱きつかれた彼女はさっと顔を赤くし、一瞬、夫であるイドリックへと視線が泳いだ。ソランが振り返ってイドリックの様子を確かめると、無表情に固まっている。少し狼狽しているようだ。
「さあ、お話は落ち着いてからにいたしましょうか。まずは、疲れを癒していただかないと」
アロナが柔らかく促した。
「あ。失礼いたしました。どうぞこちらでございます」
スーシャは背筋を伸ばし、ようやく案内を再開させたのだった。
ソランはゆったりと湯につかり、さっぱりすると、殿下が待つ部屋に案内された。ソファに座る間もなく、すぐに騎士たちの宿泊している棟へと行く。
そこで酒樽を六つ開け、彼らの労をねぎらい、振舞った。共に乾杯を三度ほど繰り返し、空きっ腹に酒でほろ酔い加減になったところで、その場を辞した。
そして先程の部屋に戻り、殿下と二人で気兼ねなく、用意されてあった食事を取った。
その後、給仕をしてくれたスーシャとファティエラに案内され、そのまま奥の部屋に入った。そこは広い衣裳部屋だった。一つ一つの扉を開け、設備を丁寧に説明してくれる。人の気配のする、位置的に隣に並んだ小部屋だろうと思われる扉だけは開けずに指し示すだけにし、こちらは殿下の衣裳部屋になります、と言われた。
ソランは首を傾げた。
「どうして殿下のお衣裳がこちらに?」
二人は顔を見合わせ、スーシャは恥ずかしげに俯いた。ファティエラが困ったように教えてくれる。
「あの、まだご婚約されただけなのは存じ上げておりますが、殿下のご指示で、寝室は同じにするようにと」
ソランは言葉も出せず、顔に血が上るのも止められなかった。何がどう恥ずかしいのか理由は分からないが、とにかく恥ずかしい。体中の血がざわめいて、いてもたってもいられなくなってくる。できるものなら、叫んでこの場を逃げ出したかった。
口元を片手で覆って目を瞑ってしまったソランに、二人が心配げに触れてくる。
「大丈夫でいらっしゃいますか?」
「ええ、はい、大丈夫です」
ソランは頬へと手を移し、目を開けて頷いた。顔が火照ってしかたなかった。
スーシャが真剣な顔で尋ねてくる。
「もし、お嫌なのでしたら、私たちでお守り申し上げます。絶対に義母も手伝ってくれます。たとえ殿下といえど、女性に無理強いするのは許せませんもの」
「え? いいえ、無理強いは、別になさらないと、……たぶん」
ソランは珍しく言い淀んで、尻すぼみに声が小さくなってしまった。スーシャの言葉を否定するということは、ソランが殿下のやりように合意していることになる。
恐らく彼女たちが想像しているものと現実の間には大きな誤解が横たわっていたが、それを解くと殿下が不機嫌になるのは、祖父や両親との話し合いのときに経験していた。
説明しようにもそれができないとなると、ソランに打てる手はなかった。ただ恥ずかしさを耐え忍ぶしかない。
悪いことをしているわけではない。でも、好きで好きでしかたない人とのことを指摘されるのは、どうしてこんなに恥ずかしいのだろうか。
ソランは、もう片方の手で無意識に、どきどきする胸を押さえた。その姿は、端からは悄然として見えた。
「私、抗議してまいります」
突然、ファティエラが断固とした調子で宣言した。
「え?」
ソランはびっくりして目を瞬いた。
「女性にとっては決心のいることですもの。愛していらっしゃるなら時が満ちるまで待つのは、男性として当然のことです。なにも言いなりになることはありません!」
「そうですわ! そうですとも! 男の方って、時々、すごく自分勝手なんですわ。急にキスしてきたり」
「まあ、ウォルター殿もそうなんですか? イドリックもそうなんですよ。抗議しようにも口をふさがれればどうしようもないんですもの」
「まああ、不肖の兄が申し訳ありません。今度、よく言って聞かせます」
「いいえ、それは夫婦のけじめですもの。私がつけなければならない落とし前です」
「それもそうですわね。頑張って、ファティ、私も頑張るわ!」
赤裸々な会話が目の前で繰り広げられる。心の中で悲鳴をあげながら聞いていると、二人の目が一斉にソランに向けられた。
「でも、ソラン様は別です。相手はあの殿下ですもの。女性には荷が勝ちすぎます。僭越ながら、私たち、お味方いたします」
スーシャが一気に言い切った。
「ええ? えーと、あの、でも、大丈夫だと思います」
ソランはもごもごと言った。自分がこんな情けない返事をする日がくるとは思わなかった。それ以上どう言ったらいいのか迷っていると、彼女にそっと手を握られた。
「初めてのときは誰でも怖いものです。無理をしても辛いだけです。男性は事に及べば聞く耳など持ちませんから、そういう状況にならないようにする必要があります。決心もつかないのに同じベッドでやすむなど、襲ってくれと言っているようなものです」
話がどんどんきわどくなってくる。既婚女性の話は、ほんのさわりでもソランには毒だった。真っ赤になって、恥ずかしさのあまりほとんど涙目になる。
留学先のエレイアで、妄想いっぱいの男同士の猥談に混ぜられているときは平気だったのに、どうして女性のいたわりのこもった言葉の方が威力があるのだろうか。
それはやはり、経験に裏付けられているからだろうと思われた。
何の前触れもなく、ノックの音が部屋に響き渡った。三人はびくりとして、音のした扉を凝視した。返事もしないのに、勝手にかちゃりと開かれる。
「まだ着替えていないのか、遅いぞ、ソラン」
殿下が不機嫌に言った。スーシャとファティエラが、ソランを庇うように前に出る。殿下は訝しげに歩み寄ってきた。
「どうした」
「お待ちください、殿下。ソラン様は、まだ」
殿下は二人にかまわず、背の低い彼女たちの頭の上から手を伸ばし、ソランの頬に触れた。
「これ以上待たせてくれるな。寸暇も惜しい。おまえと離れていたくないのだ」
「はい」
その瞳に同じ気持ちを見て、ソランは反射的に答えてしまっていた。それに殿下が優しく笑む。
「待っている」
「はい」
ソランはもう一度答えた。
殿下が静かに部屋を出て行くと、スーシャとファティエラは、ほうっと溜息をついた。
「あんなふうに求められれば」
「断るなんてこと、できませんわね」
二人はどちらからともなく呟き、ソランに目を向けた。大きな誤解がそこに見えた。
だけどソランは、ただただ、二人にぎこちなく笑ってみせるしかできなかった。