11 片腕の心がけ
翌日から、ソランは軍務に復帰することになった。
王妃が陰謀を企んだ者たちを処分し終わり、ペイヴァーが王女派を掌握して、王宮内の危険度が下がったためだったが、一番大きかったのは、殿下が珍しく深く反省したからだった。
それまで、殿下はなんとか彼女を婚約者の座に追いこもうと、彼女の意思は考えず、強引に外堀を埋めようとしていたのだ。彼女の警護を厳重にし、『イリス』への寵愛を示す一方、逃す不安から、極端にその行動を制限していた。
それが、ソランの見せた涙に、さすがの殿下も己の非を悟らざるを得なかったのだ。もちろん、婚約が成って安心したというのもある。
二度と同じ轍は踏まないとソランに誓い、これからどうしたい、と彼女に尋ねた。
ソランは、これまでと同じに、と望んだ。彼の盾であり、剣でありたいと。
「ご婚約お喜び申し上げます。ソラン様は軍へ復帰なさるのですね。奇遇でございます。ちょうど、このようなものをご提案したいと思って、持って参ったのです。こちらはいかがでしょうか」
その日、朝早く、ゲルダ衣裳店のチェイニー婦人が、出来上がったドレスとともに、局の軍服と同じ意匠で女性らしいカッティングを施したものを持ってきた。
侍女たちに急かされて、さっそくそれを身につける。と、部屋中に黄色い悲鳴が響き渡った。
「いやーっ。ソラン様、すてきーっ」
そのあまりの騒ぎに、扉の外に控えていた護衛が、何事かと慌てて踏み込んできた。
抜刀して扉を突き破らんばかりにして現れたイアルに、先程とは違う悲鳴が上がる。マリーが彼女たちの前に出て、彼を怒鳴りつけた。
「断りもなく女性の寝室に踏み込むとは、失礼な!」
彼は、ソランの許へ一直線に向かおうとしていた。その間にいる侍女たちも、邪魔だと認識すれば、斬り殺しただろう。明らかな不審者がいなければ、誰が敵かわからないからだ。疑わしきは斬り捨て、ソランの安全を確保する。それが彼の仕事だ。マリーがいなければ、確実にそうなったはずだった。
「すまない。ふざけすぎた」
ソランが両手を開いて肩をすくめ、何でもないのだと身振りで示した。彼はそれでようやく警戒を解き、剣を納めた。
「ソラン様が謝ることはありません。そこの慮外者がいけないのです」
イアルは己の職務をまっとうしただけだ。マリーがことさらきつく当たるのはどうしてだろうと、ソランは首を傾げた。彼女に歩み寄り、首元に手をやって熱を診る。
「熱はないみたいだけど、どこか具合悪いの?」
「そ、そんなことないわ。ど、どうしてそんな風に思うのかしら?」
マリーは畏まった口調を忘れて、素の言葉遣いで、その上、なぜかどもる。ああ、何かあったのだなと思ってイアルに視線を送ると、心配そうに彼女を見ていた。
「具合が悪いなら、もう一日休んでも」
「まさか! 平気です!」
語気荒く言い張る。
「そう? そこまで言うなら好きにしていいけど、無理はしないでね」
「ええ。ありがとうございます」
マリーはそそくさと皆に向き直ると、さあ、仕事を始めましょう! と手を叩いた。一斉に動き出した女性たちの間をぬって、ソランはイアルに近付いた。
「なにかあった?」
「べつに」
何でもなさそうに答える。つまり、ソランは首を突っ込むなということらしい。
ちぇ、と思う。幼馴染同士がくっつくと、つまらないものだ。急に二人の間に秘密ができて、ソランの居場所がなくなったりするのだから。
ソランはイアルについてくるように指で指示して、先に立って居間へと向かった。
「ここは出入り口が一つしかないから、守るにはいいが、万が一の場合は、間に合わないかも知れんな。さっきは、かなり焦った」
「うん。それは私も気になっていた。だけど、入り口は一つではないよ。寝室の奥の衣裳部屋に、殿下の寝室とつながる扉がある。鍵がないと開けられないけれど」
「その鍵は持っているんだろうな?」
「いただいた。万が一の時は使えと」
「使えよ」
使うことはないと思っていたのを見透かされ、釘を刺される。殿下が確実にいないとわかっていれば使うかもしれないが、そうでないなら、彼を危険にはさらせない。その時は排水口に捨ててしまえれば良し、それすらできなければ、鍵は飲み込んでしまうつもりだった。
ソランは答えずに、別の可能性も指摘した。
「一番気掛かりなのは、食事のワゴンや風呂の湯を運び上げるエレベータだ。私やイアルでは無理だけど、マリー程度の小柄な女性なら乗ることができる」
そして、マリーほどの腕なら、自分の命を顧みなければ、もしかしたら暗殺に成功するかもしれない。
「まあ、一度に一人しか入り込めないし、あそこには常時見張りを置いてはいるけどね。それと、煙突、トイレ、風呂の排水口。一度図面を見て、実地でチェックするべきかもしれない。手配してくれる?」
「いいけど、殿下に許可を貰ってくれ。それから、今後の俺の身分はどうなっている? 殿下には、挨拶はいいから、おまえの護衛に行けと追い返されたんだが」
「そうだった。イアルは私の副官扱いになる」
「軍医の副官?」
イアルが苦笑する。
「今はね。いずれは王太子妃、の副官になるんだよ」
ソランは自分で言ったことが未だ飲み込めず、軽く溜息を吐いた。
「嫌ならいつでも破談にしてやるが」
それに声をあげて笑う。
「我が片腕として、いい心がけだ。でも、頼みようがないな。それは私が死ぬ時だもの」
イアルは、やれやれという顔で肩を竦めた。
騒ぎが持ちあがり、中に護衛が踏み入ったと連絡が行ってしまったばかりに、殿下が駆けつけてきた。
「ソラン!」
無事を確かめようと、頭からはじまって、いろんなところを触られる。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。侍女とふざけが過ぎて、大騒ぎしてしまいました。護衛の皆様も、ご迷惑をおかけしました」
頭を下げる。
「生きた心地がしなかった。いっそ閉じ込められれば、その方がどれほど気が楽か」
殿下はソランの頬に両手を添えながら、苦痛を堪えた表情をした。
「籠の鳥にはなれません」
「わかっている。だが、思った以上にきついな。本当は片時も離したくない」
「大袈裟な。着替えに戻っただけではないですか」
「それだけでこれではないか。先が思いやられる」
ソランはニッコリと作り笑いを浮かべて護衛たちに会釈すると、殿下の腕を引っ張り、部屋の奥まった場所に連れて行った。声を潜めて諫言する。
「人前でそのような言動はお控えくださいませ。私ごときにかまけて、あざ笑われます」
「聞けんな。するつもりもない。だから、おまえが納得させるだけの女になれ」
「そういう問題では」
「そういう問題だ。嘲笑う奴は叩き伏せろ。知性でも美貌でも剣の腕でもいい。なんなら実家の権勢も笠に着てやれ。ああ、そうだ、女たらしの腕でもよかろう」
特に最後の一言に眉を顰めた彼女を見て、ニヤリとする。
「嘲笑うような阿呆は、一人残らず足元に這いつくばらせろ。わかったな」
無茶苦茶である。ソランは目を怒らせて彼を見据えた。何か言う前に、指で唇を封じられる。
「私ができないのだから、おまえにやってもらうしかないではないか。補い合ってこその夫婦だろう。頼りにしているぞ、我が妃よ」
「まだ婚約者です」
ぱしんと手と言葉ではねのける。
「うん、そうだった。愛しの婚約者殿」
無茶な道理を引っ込める気はないらしい。むしろ、なにがなんでもやらせるつもりだ。ソランは彼を睨みつけて承諾の返事をするしかなかった。
「……畏まりましてございます」
「うん、頼む」
彼女は初めて、いつも無茶振りされているディーの苦労を知った気がした。
それから二人は、城内の軍事演習場に出向いた。キエラに護衛として連れて行く騎兵の訓練に参加することになっていた。
その数、三百騎。殿下以下男性陣は軽装の鎧を身に着け、冑を小脇に抱えていた。ただ、訓練が決まった時、未だ『イリス』として殿下の客分でしかなかったソランは、女装で行く予定だったので、揃いの鎧が間に合わず、チェイニー婦人が用意した服を着ているだけだった。
今回は軽騎兵のみを連れて行く予定だった。護衛が主な仕事となるため、機動力を重視した結果だ。高速で移動し、宿営地は道々の領主に用意させ、食料も提供させる予定だ。
厩舎で愛馬を曳きだし、演習場に乗り入れた。
ソランはここに来るのは二度目だった。視察から戻ってしばらくした頃、演習に参加する殿下に付き従い、見学したことがあったのだ。
その時は重騎兵だったのだが、人馬の鎧が日の光にぎらりぎらりと輝き、軍笛一つで右に左に一糸乱れず方向を変え、重い馬蹄の音を轟かせる様は圧巻だった。
殿下も、当然のように同じ格好で演習をこなす。年に数度の、長期の遠征演習の指揮も自ら執るし、お忍びの視察で、各地を飛びまわりもする。彼はお飾りではなく、将軍の下で研鑽を積んでいる、次の軍の支配者だった。
騎士たちは馬を降りた状態で並んで待っていた。
だが、どう見ても予定より人数が多かった。中央で馬を連れている者たちはたしかに三百人ほどであったが、そのまわりに雑然といる兵は、とりあえず軍服を着てはいるが、有象無象という感じである。
その上、いやに目を引く者がいると思ってよくよく目を凝らせば、将軍閣下が混じっていた。後ろの方で、気楽に談笑しているのはどうしたことだろうか。
兵たちの前に行くと、殿下以外の者は馬を降りた。ソランも降りようとして、止められる。こちらへ来いと手招きされ、もっとと招かれるままぶつかってしまいそうなほど近くへと、馬を寄せた。
「皆に紹介する。我が婚約者の、ソラン・ファレノ・エレ・ジェナシスだ」
殿下は良く通る声で告げると、ソランへと振り返り、手を取った。身を乗り出して、指先に口付け、上へと掲げる。
「彼女は我が命である。
我が信頼する、王国の精鋭たる諸君等に命ずる。全身全霊でもって彼女を守り、従え」
直ちに拝命の返事が地響きのように起こった。
ピューッイッと指笛が鳴らされたかと思うと、いくつもの指笛が重なり、軍笛までが吹かれ、野次と見紛う祝福の言葉が乱れ飛ぶ。
ソランは目を丸くして、そんな彼らを見渡した。馬丁が馬の耳栓を外さないようにと念を押していたのは、このせいだったのかと頭の隅で考えながら。
やがて、キースッ、キッスッ、と、とんでもないコールが湧き起こった。殿下は機嫌良く笑うとソランの手を引き、身を乗り出させる。自分もそうすると、彼女の頬に口付けた。とたんにブーイングが起こった。
それにわかっているとでも言うように片手を挙げ、自分の馬を少し進め、皆の影になる場所に移動すると、改めてソランを引寄せて、唇を重ねた。
どおっと歓声があがる。
キスはほんの挨拶程度の軽いものだった。それでもソランはすぐに体を戻して真っ赤になって俯いて、両の拳を握り締めた。それは疑いようもなく乙女の恥らう可憐な仕草で、前列にいた騎士が、思わずといった風に叫んだ。
「本当に女性だったんですね!?」
申し訳ない思いで、こくりと頷いたはずのそれに、何度目かのどよめきが起こり、やがてそれが、殿下とソランの名を呼ぶ歓呼へと変わっていった。