9 婚約
その日は一日、王都に来てから三回目の挨拶回りとなった。
祖父や両親を送り出していると、エニシダが訪れ、王と王妃の面会が取り付けられたことを殿下に告げた。
すぐさま赴き、殿下は婚約の許可を願い出た。両陛下とも大変な喜び様で、ソランの両の頬に、熱烈な歓迎の口付けをくれようとした。王妃はまだしも、王もしようとしたので、殿下は途中でソランを手元へ囲い込み、それを見た王妃の高笑いが止まらなくなるというアクシデントがあった。
その後、エルファリア殿下の許へ顔を出し、宰相に引き合わされ、将軍にも話を通した。そうやって歩いている間にも、声をかけられれば誰彼かまわず、殿下は婚約したことを告げた。
ソランにとっては、やはりどうしても恥ずかしく、その度に頬を染めながら微笑むだけで精一杯であった。本人の思惑とは別に、その姿は非常に可憐で、二人の噂は凄まじい勢いで王宮と軍部を駆け巡ることとなった。
館の執務室に戻って外界から遮断されると、ソランはとても疲れていたことに気がついた。顔が笑みの形に引き攣っている気がする。彼女は自分の頬に両手を添え、揉みほぐすようにした。
局内については、ディーが通達してくれることになったのはありがたかった。どんな顔をして皆の前に出ればよいのか想像もつかなかったのだ。
役目を引き受けてくれた彼は、全然まったく驚いた様子を見せなかった。
「やっとですね。長かったです。あまりにやきもきしすぎて、悶え死ぬところでした。
実は、わかってないのはお互いだけという、すごく恥ずかしい構図だったんですが、そう言っても、やっぱりピンとこないみたいですね。その鈍さは、羨ましいかぎりです」
殿下とソランは揃って不得要領な顔で、一人立っているディーを見上げた。
「まあ、なんにしても、お相手が女性でよろしゅうございました。みんな覚悟していましたからねえ。伴侶が男という、前代未聞の王にお仕えすることになるのかもと」
「すみません」
ソランは俯いて謝った。本意ではなかったが、皆を騙していたことになる。合わせる顔がなかった。
「誰もあなたを責めませんよ。むしろ同情されてましたから」
ディーは思わせぶりに言った。案の定、首を傾げたソランに、面白がっている瞳で、沈痛な面持ちを装い、教えてくれる。
「局内では、どう見ても本命はソラン殿で、イリス殿は当て馬だろうと噂されていたんです。
かわいそうに長続きはしない上に、近い将来は弟と争うという、とんでもない修羅場になるだろうと。
ちなみに、ソラン殿も同情されてましたよ。あれだけ仲のいい恋人がいるのに、殿下からは逃げられないだろうと」
「黙れ。さも親切そうに、ソランにいらんことを吹き込むな。からかいたいなら、私だけにしろ」
ディーは破顔一笑した。
「あはは。変われば変わるもんですね。殿下が女性を庇うとは。
いやいや、怒らないでください。本当に、後ろめたく思うことはないと伝えたかったんです。
きっと皆、喜びますよ」
そう言って、おもむろに彼はソランの前に跪くと、右手を取って額に押し戴いた。
「皆を代表して感謝申し上げます。
あなたは殿下を救ってくださった。この国の未来も。
誠心誠意お守りし、お仕えすることを誓います」
「ディー殿。私は、とてもそんな者では」
慌ててしどろもどろになったソランに、殿下は穏やかに諭した。
「受けておけ。それの誓いは信頼に足る」
ディーはそれに驚いた顔をし、すぐに表情を引き締め、ソランの手をそっと膝の上に戻すと、右手を心臓に、左拳を床についた。
「必ずや、身命を惜しまずお仕えいたします」
「よし。しかと受けた。こき使ってやるからな、喜べ」
「はい。いくらでも働かせていただきます」
珍しく嬉しそうに請合う。殿下は眉間に皺を刻んだ。
「なんだ、気味が悪いな」
「なんでそこで不機嫌になるんですか。天邪鬼ですねえ」
ディーはとぼけてみせた。それからも会話は横道に逸れ続け、ぽんぽんとどうでもいい言い合いを重ねていく。
どうやら二人とも照れているらしい。微笑ましいその光景を、ソランは黙って見守った。
エメット婦人が来客を告げた。ミルフェ姫が来ており、とりあえず下の客間に通したという。
殿下はソランを見遣った。ソランは緊張に顔を強張らせていた。
「いつまでも避けているわけにはいかんだろう。戦に行く前に会っておけ」
「はい」
うなだれるソランに、呆れたように言う。
「私を忘れるなと言っただろう」
「はい。あ、いえ、これは私が解決すべき問題なので」
かすかに眉を顰めた殿下に、ソランは困りながら思いを伝える。
「あまり甘やかさないでください。何もできなくなってしまいそうで怖いのです。私は、少しでもあなたを守る力をつけていきたいのです」
「そうだったな」
殿下は溜息をついた。
「私はおまえのそういうところに惚れたのだった」
ソランは一瞬にして真っ赤になり、殿下を避けるように立ち上がった。
「なぜ距離を置く」
むっとし、殿下も追うように立ち上がったところで、ソランと目の合ったディーが、気の毒そうに口を挿んでくれた。
「それは、人目を憚らないからかと」
「人目? その節穴のことか」
「うわ、酷い。酷すぎませんか、それは!」
「たしかに、真実は時に人を傷つけるな」
「反省する気はないんですね!?」
「何を反省するんだ。反省するべきは邪魔なおまえだ」
「あああ、嫌だ嫌だ、どうして俺はこんな横暴上司に仕えているんですかね、何かが間違っています」
ディーは頭を掻き毟らんばかりに嘆いた。
その隙に部屋の扉近くへと移動したソランは、エメット婦人の横に立ち、殿下へと向きなおって宣言した。
「一人で行ってまいります。心配はご無用にございます」
とにかく、殿下に来てほしくはない。これから謝ろうというのに、ミルフェ姫の前でまでこの調子でやられたら、収まる話も収まらない。
「わかった。五分たったら迎えに行く」
ソランは呆れて一瞬言葉を失った。どうしてこう、この人はこうも自分勝手なのだろう。
「来ていただかなくて結構です」
ソランは強く言い重ねた。
殿下は答えずに、余裕綽々でソランを見た。人の言うことには耳を貸さないつもりらしい。ムッとして、睨みつける。
「来ても、部屋には入れませんからね」
それを聞いて、殿下はなぜかニヤリとした。
「片時も離れたくないのは私だけなのだな」
言うに事欠いて、そんな言葉でからかうのは卑怯である。からかわれているとわかっていても反射的に赤くなってしまう自分にも腹を立てつつ、ソランは低く唸った。
「来たら、嫌いになりますからね」
慌てたような殿下の表情に少しだけ溜飲を下げて、捕まる前に部屋を飛び出したのだった。
「殿下はお小さい頃に戻られたようですわ」
怒っているソランと一緒に並んで階段を降りながら、エメット婦人は笑った。
「それはひどい利かん坊でいらっしゃいました。一日一回は誰かを激怒させていましたもの。
私もお茶用に取っておいたお菓子を籠ごと持っていかれて、ねずみを捕まえるエサに使われた時は、思わず地団駄踏んで怒ってしまいました」
「それで、反省はなさらないんですよね?」
「反省どころか子ねずみを持ってきて、分けてくれるとおっしゃいましたよ」
目に浮かぶようだった。殿下は悪びれるということがない。あんなであるが、ある意味、天真爛漫と言えなくもないのだ。
「よく見たらとても可愛かったのですが、ねずみはどんな病気を持ってるかわかりませんもの。ご説明して取り上げようとしたら、逃げ出されて、それから半日行方不明になってしまわれて」
婦人は懐かしそうに遠い目をした。
「夕方にディー殿が見つけて連れて帰った時には、泥だらけの草だらけでいらっしゃいました。どうやったのか監視の目を潜り抜けて王都を徒歩で抜け出し、ねずみを逃がしていらっしゃったそうです」
ふふっと笑う。
「こっぴどく両陛下に叱られていらっしゃいましたよ。ちっとも堪えていらっしゃいませんでしたけどね」
それはそうだろう。自分が捕まえたばかりに殺されそうになったねずみを逃がしてきたのだ。幼いなりに筋を通した。それを後悔するような人ではない。
でも、まわりの迷惑は顧みない。
ソランは溜息をついた。
「今と何一つ変わりませんね」
「ええ、なにも」
嬉しそうに婦人は答えた。
「困った方でいらっしゃいますよね」
「本当に」
ソランの言葉に婦人は大きく頷き、二人で目を見交わし、くすりと笑った。気持ちは同じだった。
でも、だからこそ惹かれるのだ。どうしようもなく、傍にいて何かしてさしあげたくなる。
強張っていた気持ちはすっかりほぐれていた。そうしている間に一階の客間に辿り着く。
「タイミングを見計らって、お茶のおかわりをお持ちしますね」
「ありがとうございます。お願いします」
助け舟を約束してくれた婦人に、ソランは礼を言った。そして深呼吸をする。ドレスの裾を直し、背筋を伸ばすと、客間の扉を開け中に入った。
ソランの姿を目にすると、ミルフェ姫は跳ねるようにソファから立ち上がった。目を瞠り、凝視する。
ソランはどう挨拶してよいのかわからず、作法通りにスカートの端をつまみ上げ、腰を落として頭を下げた。そのまま声がかかるのを待つ。
「ソラン、殿?」
小さな声だった。ソランはさらに深く礼をした。
「顔を、見せてください」
求めに応じて顔を上げる。
「もっと傍で」
ミルフェ姫は儚くて壊れてしまいそうだった。ソランは不用意に刺激しないように静かに歩み寄り、その足元に跪き、彼女を見上げた。
「殿下を謀っていたこと、たいへん申し訳ございませんでした。どうかお許しください」
姫の手が伸び、ソランの頬に触れた。震えを止めるように押し当てられる。
「ソラン殿なのですね?」
「はい」
姫の瞳から、つっと涙が零れ落ちた。くしゃりと顔が歪められる。
「よかった」
う、と喉の奥でくぐもった声をたてたかと思うと、次の瞬間には、ふええええ、と頼りない声を上げ、泣きだす。ソランはとっさに姫へと両手をさし出した。その腕の中に、姫は飛び込んできた。
肩を震わせ、取り縋って泣く姫を抱きしめる。いじらしくて頼りなげで小さくて可愛くて、庇護欲をかきたてられる。ソランは優しく彼女の頭や背を撫ぜ、頭に頬を寄せて、時折慰めるためにキスを落とした。
ドレスの胸元が濡れてもかまわなかった。気の済むまで胸を貸し、少しおさまってきたところでハンカチを取り出して、姫の顔を優しく拭った。
姫は上目遣いでソランを見た。潤んだ瞳がなんとも可憐だった。無意識に、ぎゅっと抱きしめてしまう。
「女性だったのですね。私、とても失礼なことを」
「いいえ、失礼申し上げたのは私でございます。本当に申し訳ございませんでした」
「いいえ、いいえ。私がしっかりしていなかったばっかりに、あなたを死なせてしまうところでした。その後も、泣くばかりで私は何一つしなかったのです。私は恥ずかしい」
姫はしゃくりあげながらもそこまで話すと、自分で体を起し、ソランの横にぺたりと座りこんだ。
「ごめんなさい。私は王族という地位に甘えていました。なにも努力してきませんでした。貴女は、兄を救ってくれたというのに。
ペイヴァーに聞きました。それほどの剣の腕は一朝一夕で成るものではないと。医術の知識もそうです。どれほどの努力を重ねていらっしゃったか。
それを、私の不徳のせいで、一瞬で失うところだったのです。申し訳なくて、いたたまれなくて」
「何を仰いますか。殿下は立派に王族としての勤めを果たされていらっしゃいます。先の医療事業の時も大変慈悲深くいらっしゃって、尊敬申し上げました。あれほどの歓呼は、殿下だからこそ起こったのでございましょう」
「私は」
まだ自分を責めようとする姫の唇に、ソランはそっと自分の指を押し当てた。
「殿下はお優しくていらっしゃる。驕ることもなさらない。それがどれほど稀有な資質であることか。
殿下がいらっしゃるだけで場が和み、癒されるのです。どうかご自分を卑下なさらないでください。
殿下が笑っていてくださらないと、寂しゅうございます」
ソランは安心させるように微笑んだ。姫はそれに、泣き笑いで応えた。泣き腫らしてはいても、それでも充分に可愛らしい笑顔だった。
そうして二人はいつしか手を取り合って、仲睦まじく寄り添い合った。