8 失われた神が為したこと
それでも、ソランは恐れと心配とが入り混じった表情を消すことはできなかった。
「ですが、セルレネレスによって、二度とも守りは破られました。唯の人である私に、殿下を守る術はあるのでしょうか」
「おまえも知ってのとおり、神々はこの地上にはいらっしゃらない」
父が言った。
「マイラ以外は神託さえ下せない。もう、何千年も」
殿下は怪訝な顔で尋ねた。
「では、神殿で貴方は何をやっているのだ」
「感謝を捧げているのです。そこにいようがいまいが、届こうが届くまいが、世界と我らを創りたもうた神々に。神々が為した偉大な行いの意味は、どこに在られようと変わりはありません。
卑小な人間にとって、神を失うことは世界を失うこと。そうすれば道を失い、我等は果て無き迷い道に彷徨いこみましょう。ならば、世界がある限り、神の存在を失うわけにはいかないのです」
まるで聴衆の前で説教するように語った彼は、これ以上はないというくらい胡散臭い微笑みを浮かべていた。
「貴方のそれには敬虔さの欠片も感じない。前から疑っていたのだ。本当に大神官なのか」
殿下は呆れて揶揄した。
「私はこの位にもう十数年おりますよ。先代の大神官にちゃんと指名を受けました。責も果たしております。もしも神々が戻って来られた時に、二度とセルレネレスの言に惑わされたり、世界を砕かれないための監視を」
ソランには、父が大神官であることが、セルレネレスに対する最大の冒涜のような気がしてきた。畏れるべきものを畏れない透徹したものが彼にはある。ソランは父のそういうところにも戸惑う。
ソランにとって神とは、己とは切っても切れないものであった。己を意識するとき、神々の恩寵を感じないことはない。世界を見るとき、神々の息吹を必ず感じるように。己や世界が存在するという奇跡を、神々に感謝せずにはいられないのだ。その神を監視したり、行いや言葉を疑ったりするなど、とてもできることではなかった。
父はソランを安心させるように笑いかけた。
「失われた神は、守られたのだよ。一度目は、魂を消滅させる矢から。二度目は、世界の崩壊を。そしてその時に、地上を天界から切り離してしまわれたようだ。再び災禍が起きないように」
『アティス』は生まれ変わり、世界は今も続いている。
「では、セルレネレスは何もできないのですね?」
「そうだよ。その兆候が現れたとしても、私がちゃんと防ぐ」
ソランは目を瞑り、震えた息を長く吐き出した。一番気掛かりだったことは解決した。あともう一つ、知っておかなければならないことがある。目を開け、三人を見る。意を決して尋ねる。
「不死の呪いは失われた神がかけたのですか?」
「それについては、推測しかできない。ジェナス殿は恐らく加護だろうと仰っていたが」
母の口から発せられた意外な言葉に、ソランは鸚鵡返しに確認を取った。
「ジェナス? 加護?」
「ああ。始祖殿も不死の呪いを受けているからな。生まれ変わる度にウィシュミシアの代表をなさっておられる」
ソランは驚きのあまり言葉を失くした。
「近い内に会いに来られると言っていたから、その時に直接お話を伺えばいい」
「なぜ始祖が不死になどなっておられるのですか」
「初代の領民たちも皆そうだ。『アティス』を知る者は皆、等しく不死となったようだ」
「女神の祝福はどうなったのですか」
英雄の君は領民への祝福を願ったはずだ。
「ある。だから、女神の元で眠ることはできる。だが、記憶は失われないのだそうだ。だから、生まれ変わらず眠りっぱなしの者もいるし、己の意思で時々生まれ変わる者もいると聞いている。
船頭組合長のラウル・クアッドもそうだ。彼は大剣の流派の始祖だ。会いたがっていた。英雄の君が死んだ時に、傍近くにいた者だ。当時の様子もよく知っている。キエラに行く前に会っていくといい」
「でも」
ソランは急に怖気づいた。マイラでさえ破れない呪いをかけたのは、失われた神ではないか。その生まれ変わりが、呪いを与えた相手にどんな顔をして会えばよいというのか。
「恐れることはない。彼は感謝していると言っていた。これは呪いではなく、加護の証なのだから、と。それも私が語るより、彼から聞いた方がいいだろう」
母も勇気づけるように笑んで頷く。
殿下が手を握り直した。ソランは隣の彼を見上げた。
「おまえの問題は私の問題でもある。私の存在を忘れるな」
ソランはその意味を噛み砕こうと、ぽかんとして殿下を見つめた。存在を忘れるなとは、頼れ、とか、傍にいる、とか、そういうことだろうか。
偉そうで傲慢で、でも干渉しすぎずに気遣った、優しい彼らしい言い方だった。ソランは思わず笑ってしまった。
「はい。忘れないよう心がけます」
「なんだそれは、心許ない返事だな」
不満そうにする。それがおかしくて、さらに笑う。それに殿下も負けたように苦笑した。そして、三人の方を向いた。
「私からももう一つ質問がある。婚約の発表の折には、ソランの後ろ盾として貴方たちのことも明かしたい。かまわないだろうか」
それには祖父が答えた。
「こうなったからには、もう隠しておく意味もありません。もともとは先の大乱の残党や不死人から隠すためだったのです。ヒルデブラントのような輩はこれからも出てきましょうが、言わずとも、殿下が自ら選ばれた伴侶が誰であるかなど、不死人ならわからない者はいないでしょう。
ですが、ソランも己の身は己で守れるようになりましたし、殿下もお守りくださる。むしろ明かした方が、それ以外の小うるさい輩からの守りとなりましょう」
「宝剣の主であることは、どう思う」
「それはまた別のカードとしてとっておけばよいかと。迂闊に広めれば、御身の障りとなるやもしれません」
その言葉に、ソランは殿下の手を引き、怒らせた目を向けた。
「やはり殿下に害が及ぶのではないですか。ないなどと嘘をついて」
「嘘ではない。早めに子を為せばよいだけだ」
「なっ」
「冗談ではないぞ。なあ、アーサー?」
「はあ、まあ、そうですな。世継ぎがいれば、殿下一人を殺したところで意味はないですからな」
「それに、世継ぎの存在はおまえを守ることにもなる。王の伴侶たるおまえを亡き者にして、その座に納まりたい者もいるのだからな。殺す対象が増えるのは、敵にとっては、その分、事を難しくさせる意味を持つ」
血なまぐさい話をしながら、なんとも色っぽい顔をする。
「もちろん、そんな理由は瑣末でしかない。私は」
ソランは嫌な予感に、とっさに殿下の口を手で塞いだ。殿下が眉間に縦皺を寄せる。が、かまっていられなかった。絶対にこちらが赤面するようなことを言うにちがいない。短い間で、ソランは学習していた。目の前には祖父と両親がいるというのに、そんなのは耐えられない。
腕を掴まれ、簡単に外され、不機嫌に見下ろされる。
「いきなりなんだ」
「いきなりなのは殿下です。少し黙っててください」
「いい度胸だな」
剣呑に目つきが鋭くなる。唇の端が不敵に引き上げられる。どうやら怒らせたらしい。ソランは内心冷や汗をかきながら、受けて立とうとした。
「いい度胸なのは殿下ですよ」
冷ややかな声がテーブルの向こうからかけられた。
「私の目の前でなにをなさるおつもりですかね?」
ふっと緊張をとき、殿下は父を見遣った。
「ああ、そうだった。忘れていた。呼び出しておいてすまなかったな」
しゃあしゃあと宣う。
「さて、我等はどうもお邪魔なようだ。帰るといたしますか」
祖父が一つ手を打ち鳴らし、立ち上がった。
「私は帰りませんよ」
父が言い張る。
「あら、ティエン、私を送ってくれると言っていたのに」
母は父の腕に手を添え、長い間、間近でじっと見つめた。父は目を逸らそうとしては失敗し、とうとう最後に目を瞑り、溜息をついた。
「そうだったね、リリア」
母は嬉しそうに父の頬に軽いキスをした。
「あなたは誰よりも私を見ててくれないと」
「ああ、もちろんだよ。私はいつでもあなたに夢中だよ」
人目も憚らず、今度は唇にキスを返す。そして母の手を取って立ち上がった。
「では、我々はこれで失礼します。ああ、そうだ。これは年長者からの忠告ですが」
そう言って、少々意地の悪い笑みを浮かべた。
「ご自分でご自分の首を絞めるような真似は、ほどほどになさるのが身のためですよ。後でいろいろ大変でしょう」
「ご忠告、痛み入る。私も舅殿を見習うとしよう」
殿下はしらっと言い返して、素早くソランの唇の端にキスすると、唖然としている彼女を促して、共に立ち上がらせた。それからいずまいを正し、真剣な表情で三人に向き合う。
「貴方たちには本当に感謝している。どうか、これからもよろしく頼む」
「もちろんでございます」
「はい」
「仕方ありませんね」
三人は三様に快諾を示した。
「ありがとう」
そう言うと、ソランに視線を向け、微笑む。
「さあ、せめて下まで見送りに行こう」
握られてからずっと離されることのなかった手を引かれた。
「はい」
ソランは、喜びに美しく艶やかに笑った。
この手は生涯離されることはないのだと。心からそう思えた。