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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第八章 思い交わす時
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7 女神と世界の祝福は

 殿下は腕を組み、背もたれに寄りかかって、むっつりとそっぽを向いていた。祖父は好きなだけ笑って涙を拭くと、申し訳ありません、と謝った。


「男として同じ状況には陥りたくありませんが、尊敬申し上げます」


 それに、機嫌悪く横目をくれ、次いで身を起こし、父に話しかけた。


「それで、許可はもらえるのか?」

「私の娘は頼まれたっていらないと言っていたのにねぇ。そこまで我慢できるほど愛したわけだ」


 父は目線を合わせず、他人事のように嘯いた。ソランは一人赤くなって殿下を見た。殿下は無表情に父に視線を向けていた。


「あなたは実に小憎らしい子供でした。ええ、そうですとも、絶対に頭を下げさせてやると、あれからどのくらい今日という日を待ち望んできたか」


 強硬な言葉とは反対に、やるせなく溜息をつく。


「なのに、やらせる前に先に簡単に頭を下げるなんて、まったくつまらないったらありませんね。

あなたは小さな時からそうだ。従うときはもちろん、逆らう時はよけいに、憎たらしいほど文句のつけようのない優秀な弟子でしたよ」

「私は貴方の眼鏡に適ったか?」

「忌々しいことに。しかも、つまらない上に喰えもしない。こんな可愛くない婿など願い下げですね」


 殿下はふっと表情をゆるめた。


「貴方の薫陶のおかげだ」

「もちろん私のおかげですとも。この私が直々にシゴキあげたんですから。途中で音を上げてくれれば放り出せたものを。そりゃあもう、いつでも期待していたんですが、残念なことに、しぶとかった」


 さらりと軽く、酷いことを言う。そうして殿下を見据え、凄みのある笑みを湛える。


「娘の夫に相応しくないと判断したら、娘は返してもらいますよ。利子をたっぷりつけてね」


 神殿とファレノとリリアの人脈。それらを失ったら、彼の御世は確実に傾くだろう。そして、なによりもティエン自身が大きな財産だった。

 先の大乱で数々の敵を討ち取り、名を上げた者はリリアを筆頭に何人もいる。だが、その影で戦略を立て、戦術を指揮したのはティエンであった。表立ちはしなかったが、共に戦った者たちは彼の実力を知っている。故に豊かな南部の抑えとして彼が封ぜられたのだ。

 その力量は、数少ない彼の弟子たる者にも身に沁みてわかっていた。


「わかった。肝に銘ずる」


 殿下は真剣に答えた。

 父はそこで初めて満足したように笑った。そして頭を下げる。


「娘を頼みます」

「ああ。大事にする」


 ソランは涙がこみあげてくるのを我慢した。身近な人々の思いが幾重にもソランを抱きしめて、感謝と喜びと愛情で、息をするのも辛かった。




「アーサーとリリアは親子だったのだな。そう言われてみると、髪と目の色が同じだ」


 殿下が二人をたっぷりと見比べ、脈絡もなく言った。


「リリアは妻に似ましたからな」

「二人が親子であることを知っている者は少ないのであろう? それとも、今回のように私だけが知らなかったのか?」

「いいえ。陛下に王妃陛下、将軍、宰相、エルファリア様、そのくらいでしょうか」

「なぜ、それほどまでして隠した? それは、ソランの前世に関係があるのか?」


 祖父は母に目を遣った。


「何をお知りになりたいのですか?」


 母が尋ねる。


「貴方たちが知っていることをすべて。いや、違うな」


 ソランを振り返り、手を取る。急にはじまった核心に近付く話に、固く握り締めたそれを、ほぐすように一回り大きい手で包み込む。


「語れぬことは語らなくていい。聞かぬ方が良いこともあろう。ただ、ソランの助けとなることを。頼む」


 母は一度目を瞑り、己の剣の柄に触れた。一呼吸。再び目を開いた時、その瞳には巫女の神秘を宿していた。そこに、ハレイ山脈の威容が重なって見え、確かにマイラの神威が彼女の上に降りていることを確信する。

 辺りを薙ぎ払う清冽さは、いつか剣を抜いた母を前にして感じた恐怖と通じていた。ソランは気付き、驚いた。女神の神威。それが、彼女の強さの秘密であったのだ。

 女神は与える神であるが、奪う神でもある。すべての命の母であり、生まれせしめ、豊穣と繁栄を与えるが、必ず例外なく生まれた命を縊る神なのだ。厳然とした秩序を守る神。

 母は、その神の負の力を一身に受けている。

 ソランは慄然とした。縊る神の凶器となるなど、人の身にはあまりに過ぎ、並みの精神では耐えられることではない。


「ソランは何を知りたい?」


 母の声ではなかった。いや、母の声であった。だが、そこにのせられた響きに瞠目する。


「女神」


 呟いたソランに、母は厳しい顔で首を横に振った。


「私に女神の言葉を伝える能力はない。それはおまえの祖母の役目だった。私にできるのは敵を屠ること」


 ソランは母に科せられた役目の痛ましさに、奥歯を噛み締めた。


「嘆かなくていい。女神の剣であることは、私の喜びだ」


 ソランは小さく頷いた。同情は彼女を、ひいては女神を貶めることでしかない。神々は人間の(ことわり)を越えたところに()る。人の、それも感情を交えた物差しで測ってよいものではない。


「私は」


 失われた神なのか? 違う。そんなことはどうでもいい。そうだったとしても、強大な不思議な力を持っているわけではないのだから。ソランはただの人間でしかない。己の努力によって身につけたものしか、持ってはいない。そうではなくて、最も知りたいのは、


「私は、災いをもたらす存在なのですか?」

「ちがう」


 一瞬の間もなかった。間髪おかず否定される。


「おまえは、祝福の娘。女神の喜び。世界も歓喜しているではないか。祭りの度におまえは世界の喜びに共感するだろう。あの歌のとおりだ。世界はおまえの欠片であり、おまえがいることでまったき姿となるのだ」

「欠片? 世界が? 私ではなく?」


 母は頷いた。


「おまえの欠片だ。世界は失われた神の欠片によって繋ぎ止められているのだから」


 ソランは眩暈を覚え、目を瞑った。無意識に、繋がれた殿下の手を強く握り締めた。


「たとえそうであっても、失われた神は、二度も宝剣の主に死を与えました」

「いいや、守ったんだ。殺したのはセルレネレス」

「なぜ」

「嫉妬だ。失われた神は、かの神の最も愛した子だった。だから、心を奪った男を殺した。それだけでは足りず、男の生まれてくるだろう世界も壊そうとした」

「そんなことで」


 胸の中で、突然、何かがひっくり返った。

 そこから嘆きの涙が零れだし、溢れ、揺れる。そのさざなみが、ソランの感情を揺さぶる。それは、ソランのものであってソランのものではない記憶だった。

 悲しかった。ただただ悲しかった。圧倒的なそれに流され、溺れそうになる。


「ソラン」


 いたわる声とともに頬を拭われ、目を開ける。殿下が心配げに顔を覗き込んでいた。


 ああ。いつか、こんな気持ちのときに、同じ声に呼ばれた。


 失ったはずの愛しいその声に、しがみつく。

 ソランは体を倒し、殿下の胸元に顔を押しつけた。胸が痛くて痛くて涙が止まらなかった。




 どのくらいそうしていたのだろう。殿下の心音に安心を与えられ、包み込まれる感覚に体がほぐれていく。それにつれて、洪水のような感情は治まり、己が返ってくる。

 ソランは長い吐息をついた。額に口付けを受け、顔を上げる。


「落ち着いたか?」

「はい」


 殿下の微笑みにつられ、ぎこちなく笑った。体を起こし、離れる。そして鼻を啜った。いつの間にか手渡されていたハンカチはびしょぬれで、最早あまり用をなしていなかった。少し恥じながら、居合わせた人たちに謝る。


「すみません、話の途中で」


 母が横に頭を振りながら言った。


「必要だったこと。女神は忘却をくださるが、魂に何も残らないわけではないんだ。それが時に、理由もわからない障害になることがある。

殿下にも心当たりがあるはずですね。あなたは矢に狙われると、恐怖に動きが鈍くなられる」

「ああ。そうだ」

「それはセルレネレスの呪いの矢を受けたからです。それによって、あなたは死の痛みをかかえて一昼夜苦しんだ。今はもう、理解できますね?」

「ああ」

「でしたら、二人とも、もう大丈夫です。恐れることは何もありません。あなたたちの上には、常に女神と世界の祝福がある」


 母は剣の柄から手を離した。

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