6 殿下の誠意
朝食が済むと、殿下はお茶をソファの方へ用意させた。テーブルの角を挟み、お互い違う椅子に腰掛ける。お茶を飲みながら食器が下げられるのを待ち、それが終わると人払いをした。
「昨夜の話の続きだが、おまえはどうしても、前世に因縁があったかどうか知りたいのか」
ソランは答えに迷った。本音を言えば、知りたくなどなかった。前世がなんだというのだろう。ディーもそう言っていた。女神は忘却を賜る。それは、覚えている必要がないからだろう。
それでも、知らなければ迷い続ける気がした。前世にソランの魂が、殿下に二度も災いをもたらしたのかもしれないのなら、再び同じ過ちを犯すかもしれない。きっと、その恐怖に判断が下せなくなるだろう。
「必要なのです」
ソランは少し強張った声で答えた。
「そうか。では、話を聞けそうな人物に心当たりはあるか?」
「母か祖父あたりしか思いつきません。母は神官ですし、祖父はやはり神官であった祖母から話を聞いているかもしれません」
「ティエンも神官だが?」
「父は奉ずる神が違いますから。聞いてみる価値はあるかと思いますが」
殿下は頷き、ソランへと腕を伸ばし、手を取って握った。不安な気持ちが宥められる。
「その三人に使いをやって、ここに来るように呼んだ。もう間もなくやってくるだろう。彼らに、結婚の許可をもらおうと思う。……ああ、すまない」
急に何事かに気付いて、突然謝る。
「こういうことは、おまえに先に承諾を得るべきだったか?」
「そうですね。そうかもしれません。心の準備が」
紅潮気味の顔で、握られていない手を心臓のあたりに当てる。
「すまない。どうもおまえのこととなると、気が急いてしまう」
二度も謝った殿下に、ソランは笑いかけた。
「かまいません。ただ、気恥ずかしくて」
「私とのことが知れるのが恥ずかしいのか?」
どことなく不機嫌に尋ねる。
「殿下がどうというのではありません。殿下は素晴らしい方、で」
彼を褒めたあたりから真っ赤になり、目をそらす。うっかりと思いのたけを、本人相手にぶちまけるところだった。
「あまりに、その、……なんでもありません」
彼は彼女の手を、くいっと強く引いた。
「ぜんぜんわからないぞ、きちんと言え」
「言うほどのことではありません。忘れてください」
ソランは自分の手を引っ込めようとした。とにかく、逃げたかった。が、離してもらえない。
「言え」
「いやです。離してください!」
殿下の手の甲を、ぺしん、と叩く。叩いてから、はっとして見上げると、怖い笑みを浮かべて彼女を見下ろしていた。
「私も、相当イカレているな。おまえのそれが、全部、私を口説いているようにしか感じない」
「何を仰って」
「うん。私もそう思う」
そう言いながらも、ソファの肘置きを越えてのしかかってきた。
「さて、どうしてやろうか」
ソランの両側に手をつき、屈んで耳元で囁く。ソランは己の両耳を覆い、腕の間に顔を隠すように俯いて身を竦ませた。体の中心から、ずくんずくんと痛みと見紛う疼きが全身へと広がり、泣いてしまいそうだった。
殿下の気配が動く。ソランはますます屈んで体を強張らせた。と、うなじあたりに生暖かい感触が。ちくっとする。
「やっ」
力の抜けた自分の声にうろたえ、とにかく縮まる。体の中が嵐のようになり、感情が乱れて涙が滲んできた。耳を塞ぐ腕を掴まれる。引っ張り取られ、再び囁かれる。
「隙だらけだぞ」
からかう声に目を上げて、ソランはキッと睨みつけた。
「お戯れも、ほどほどになさってください!!」
怒鳴りつけるつもりが、声が震える。
「わかった。すまなかった。泣くな」
「泣いて、ません!」
そう叫んだとたんに、ぽろりと涙が零れ落ち、ソランは真っ赤な顔のまま、口をへの字に引き結んだのだった。
そんなわけで、三人がやってくる頃には、ソランは殿下から一番遠い椅子に腰掛けていた。つん、と横を向き、目を合わせない。対する殿下は、それでも楽しそうにソランを観察していて、ソランはマリーがイアルを邪険に扱う気持ちがものすごく良くわかったのだった。そうしていないと、とてもではないが、体がもたないのだ。
それでも、侍女が三人を案内してきた時は、殿下の後ろに控えて、努めてなんでもない顔をして優雅に礼をしてみせた。ありとあらゆるものを悟られたくなかった。
殿下は三人に腰掛けるように勧め、自らは彼らの反対側にソランと並んで座った。お茶を用意させようとしたが三人が断ったので、ただ人払いをした。
祖父と母は優しい笑みを浮かべていた。それだけで承知しているのがわかり、ソランは心なし俯いた。父だけは、珍しくむっつりと不機嫌にしているのが気になったが、いたたまれなくて、もう、彼らの方を見ることはできなかった。
「私の気持ちは、貴方たちには伝えてあったが、昨日ようやく、ソランがそれを受け入れてくれた。まずは、貴方たちに礼を言いたい。彼女を生み育て、引き合わせてくれた。感謝申し上げる」
ソランは目を瞠り、殿下の下げられた頭を見た。心を打たれる。
なにを頑なになっていたのだろうと思った。この人を思い、思われるのは誇らしいことではないのか。
ゆっくりと起こされた顔には、穏やかな微笑があった。父が苦々しげに言う。
「親として当たり前のこと。礼を言われる筋合いはありません」
「ああ。そうも思ったのだが、言わずにはいられなかった。気分を害したのなら、すまない」
「いいえ、そう仰ってくださって、どのくらいソランを大事に思ってくださっているのかわかりました。ありがとうございます」
母は父の膝をやんわりと叩いて言った。
「改めて、貴方たちにお願いしたい。どうか、ソランとの婚姻を認めて欲しい」
「ソランはどう思っているんだね?」
祖父が初めて口を開き、尋ねた。
「殿下と同じ気持ちです」
三人を見まわし、はっきりと伝える。
「ならば、以前申し上げた通り、私に異存はありません」
「私も」
母もにっこりと頷く。
「まだ十六だ。早すぎる」
父が横柄に理由にもならない理由を上げた。
「でも、そんなことを言っていると、外聞の悪いことになりかねないぞ」
そう言った母を、父が怪訝な顔で見た。
「あなたが認めないでいるうちに、孫の顔を先に見ることになるかもしれない」
「なっ、まさか、どうしてそんなことを!」
「だって、マリーがいなかった。今日出仕したはずのイアルも。あの子たちが理由もなくソランの傍を離れると思うか?」
みるみるうちに理解の色を示し、怒りを頬にのぼらせる。
「なんだと!? 私はそんなことを許した覚えはありませんぞ、殿下!!」
殿下は黙って肩を竦めた。それに、さらに怒りを募らせた様子の父に、母が呆れたように言った。
「あなただって、私の両親にそんなこと、許しを得たりしなかっただろう」
「私は、あなたに押し倒されたんだ」
「あら、そう、ふうん、そうだったんだ」
ひどく冷たい母の声に、父がはっと我に返った。
「いや、今のは言葉のアヤだ。私は君に一目惚れだった」
「そんな風には見えなかったけれど」
「それはそうだろう。一目惚れした女性にいきなり迫られたら、夢なのか、かつがれているのか、どちらかだと思うものだろう」
「そう? なのに手を出したわけだ」
軽蔑の目で見る。
「リリア! 私の気持ちを疑わないでくれ」
父は母の両手を握り締めた。
「疑うに決まってる。あんまりわからず屋なことしか言わないんだから。そういう気持ちを知らないとしか思えない」
「まさか。痛いほどよくわかる。わかるからこそ、腹が立つんだ!」
急に殿下に向き直って、睨みつけた。ソランは思わず口を挿んだ。
「殿下はそんなことなさいません」
ぎょっとした空気が流れる。なにかまずいことを言ったのだろうかと思いながら、引っ込みがつかず、言葉を続ける。
「戦の前だから、と」
殿下が沈痛な面持ちで額に手をあてた。祖父が、ぶふっと噴き出し、横を向いて肩を震わせた。父は途端に喜色満面となり、さすがは殿下、と、いきなり褒めた。
「よくわきまえていらっしゃる。素晴らしい心がけです」
「でも、マリーは?」
母が不思議そうに尋ねる。
「朝までいらっしゃったのを勘違いして」
「おや、朝まで一緒にいたの?」
祖父が激しく肩と腹を揺らし、ごまかすようにげほごほと咳き込んだ。
答えようとしたソランの顔の前に、すっと手をかざし、殿下は陰鬱に懇願した。
「頼む。それ以上何も言ってくれるな」
それがとどめだったようだ。ソランにはわからない理由で、祖父は涙を流してゲラゲラと笑いだしたのだった。




