5 一夜が明けて
抱き寄せられる感覚に目が覚めた。まだ暗い。侍女が起こしに来るにはだいぶ時間がありそうだった。
ソランは一度目を開けたが、また閉じた。ぬくぬくとして心地よい。もう少し寝ていたい。でも、寝心地のいい体勢になるのに、腕が邪魔だった。寝惚けながら押し退けようとするが、逆にますます引き寄せられる。
「やだ、イアル、邪魔」
ソランは舌足らずに抗議した。
「イアル?」
低い声とともに体が強引にぐるりと仰向けにされ、上から囲われるようにのしかかられる。ソランは驚いて声も出せず、相手を見つめ返した。
「あいつと、寝たのか」
殿下が、聞くだけで身が竦む恐ろしい声で問いかけた。ソランはどうしてこんなことになっているのか混乱しながらも、答えた。
「子供の頃、眠れなかった時に」
無言で見下ろされる。
「一緒に育ったんです。兄同然です」
「いくつの時だ」
「えーと」
エレイアに行っていた頃だから、一番最後は
「十四くらいの時でしょうか」
「それでも許せん」
腹立たしげに呟くと、噛みつくように口付けた。ひとしきり散々ソランを翻弄した後、ソランの頭の横に顔を埋めて、
「いったい何の拷問だ、自分で自分の首を絞めているようだ」
と呻いた。重たげに身を起こし、ソランの傍らに寝転がる。ソランは殿下を刺激したくなくて、動かないようにじっとしていた。
しばらく大人しくしていると、急に声を掛けられた。
「おまえの両親はどこにいる?」
「今は王都におります」
「名はなんという?」
ソランはとっさに答えられなかった。今さら隠すことはないと思うのだが、どうにも言いにくい。
「どうした?」
殿下が頭だけ動かして、ソランを見る。ソランは無意識に天井を、というより、殿下の反対側に目をやった。
「父の名は、ティエン・コランティアです」
ベッドが波打った。殿下が急に起き上がったのだ。
「まさか。リリア・コランティアの第一子は」
「生きています。私です」
ソランは恐る恐る殿下へと視線を向けた。呆然としている。あまりの申し訳なさに、思わず謝った。
「申し訳ありません」
「いや、おまえがあやまることではないのだが」
そう言いはしたものの、殿下は布団に突っ伏した。
「あの腹黒親爺め。あああ、くそ。こうなったら、毒を食らわば皿までだ。受けて立つしかない」
毒?
「何を受けて立つのですか?」
「昔、ティエンに、将来妻になる女のために、武術の稽古も勉強もしなければいけないと、しつこく言われて、おまえの娘など、頼まれたって欲しくないから安心しろ、と言い返してやったのだ。
息子しかいないと思っていたからな。あいつは爽やかな似非笑顔で、それは楽しみですね、と意味の通らない返事をしていたのだが」
悔しそうにソランを見る。そして、急に焦った声を出した。
「ちょっと待て、ティエンとリリアに、ルティンもか。アーサーは当然として、陛下と王妃陛下もご存知だったのだな?」
「はい」
「他は?」
「ミアーハ嬢とエルファリア殿下も。それにリングリッド将軍もです」
殿下の顔は、最早引き攣っていた。
「あいつら、全員、グルで私をかついでいたのか!」
ばたり、と仰向けに倒れ、顔の上に腕を二つとも載せた。
「やってられるか!」
殿下は吼えた。ソランは慌てて殿下の口を手で覆った。隣室には侍女が待機している。聞こえれば、様子を見にやってくるだろう。
大抵のことには疎いソランでも、この状況を見られるのは避けたほうがよいことはわかっていた。
案の定、部屋の外からノックの音がした。ソランは起き上がって、なんでもないと返事をしようとした。
殿下は口に当てられたソランの手を外して布団の中に押し込むと、自分の唇の前に指を一本立て、しっ、と封じる仕草をした。そして、ベッドから降りる。そのまま自分の部屋に戻るのかと淋しいような思いで見送っていたら、なぜかノックのあった扉へと向かった。
「殿下!?」
ソランは小声で呼んだ。振り向き、ニッと笑う。その表情が見えるのに、随分あたりが明るくなっていたことに気がついた。
「殿下、駄目です!」
ソランもベッドから這い出ようとした。が、殿下が取っ手に手を掛け、扉を開けるほうが早かった。
ソランの場所からでは、誰が寝ずの番をしていたのか見えなかった。相手の返事も聞こえなかった。ただ、殿下の声だけが聞き取れた。
「私がいるから、大事無い。もう少し寝かしておきたい。静かにしておいてやってくれ」
扉は再び何事もなかったかのように閉められ、殿下も当然のような顔で帰ってくる。
「なぜ、あんなことを」
「こそこそするのは性に合わん。これからこうやって過ごす度に、私に隠れろというのか?」
ソランは真っ赤になった。
これから? 過ごす度に?
抱きしめてもらっているうちに、いつの間にか眠ってしまっただけだったが、急に恥ずかしくてたまらなくなった。
殿下は楽しげに笑ってベッドに入ってくると、自然な動作でソランを抱き寄せた。
「まだ早いだろう。もう少し寝るぞ」
眠れるわけがなかった。殿下もそうなのだろう。時折頭の上に口付けが降ってくるのを感じながら、ソランはまんじりともせず、起床時間を待った。
朝食の時間は気まずい雰囲気に包まれていた。
殿下は例の扉から帰って行ったのだが、ソランはいつまでも寝室に篭っているわけにもいかず、いつもの扉から顔を出した。その途端に、わらわらと侍女たちに囲まれ、祝福の言葉をかけられたのだった。
それから、いつもなら乗馬服なのに、裾の長いドレスを引っ張り出してきて着せつけられ、髪もただ括るのではなく、なんだか複雑に結い上げられて、丹念に化粧が施された。
その全部を取り仕切っていたのは侍女頭のマリーだったが、彼女ときたら一人だけ少し離れた場所から、おはようの挨拶もせずに、じとりとした涙目でソランを意味ありげに見つめ続けているのだった。
言葉を交わそうと彼女に近付こうとすると、今日はそっとしておいてあげてくださいませ、と、他の侍女たちに邪魔される。そうこうしているうちに殿下が来て、マリー以外の侍女たちの興奮はピークに達した。
「おはよう、ソラン。今日は特別綺麗だな」
本名を呼びながら歯の浮くような台詞を口にし、腰に手をまわして、額に口付けを落とす。
侍女たちは口々に小さな可愛らしい悲鳴をあげながらも、淑女らしく見て見ぬ振りをしようとした。実際は好奇心に負けて、爛々とした目で見ていたのだが。
ソランにだけ、からかっているとわかる笑みを浮かべてみせる殿下を一睨みし、そっと押し退け、視界に入ったマリーの様子に、ぎょっとした。いまや彼女はハラハラと両目から涙を零していたのだった。慌てて駆け寄ろうとしたソランを、殿下は抱き寄せて引き止めた。
「離してください」
抗議するが、他に適任者がいる、と言って、部屋の外へと大声で呼ばわった。
「イアル、入って来い」
ソランが驚きに目を瞠った先に、扉を開けて本当にイアルが現れた。
「イアル!!」
ソランは我を忘れて駆け寄ろうとした。が、しっかりと後ろから抱えられ、阻まれる。
イアルはソランに、わかっている、とでもいうように頷くと、壁際で滂沱の涙を流しているマリーを見て、辛そうに眉を顰めた。真っ直ぐに歩み寄って、声を掛ける。
「マリー」
彼女は瞳だけ動かしてイアルを見た。イアルが、ぽんぽんと頭に手を載せると、くしゃっと顔を歪めてしゃくりあげた。イアルは、よしよしという感じに彼女の頭を抱え込む。彼の腕の中でくぐもった泣き声があがった。
「もう一日休みをやろう。出仕は明日からで良い」
「ありがとうございます、殿下。では、お言葉に甘えて」
彼は少し屈んだかと思うと、マリーの膝裏に片腕を当て、彼女を軽々と抱き上げた。これにも侍女たちは黄色い悲鳴をあげたが、彼はそれに一切かまわず、軽く会釈をして部屋を出て行った。
女性陣皆で、そのスマートな所作に、思わずほうっと溜息をついたとたん、うわあん、と廊下から泣き声が聞こえた。
「悔しい! あのケダモノ王子! 私のソランにっ」
その先も罵り言葉が続いているようだったが、口をふさがれたのか急いで遠ざかっているのかで、急によく聞き取れなくなった。
「殿下、あの、今のは」
ソランは焦って殿下の袖を掴み、懇願の目で見上げた。不敬どころの話ではない。手打ちにされても文句の言えない暴言だった。
「心配するな。私は何も聞いていない」
知らん顔でソランを食卓へと導く。ソランには表情を消したその奥で、随分と面白がっているのが感じられたが、侍女たちにそれがわかろうはずもない。
室内は急転直下緊張に包まれ、気まずい朝食となったのだった。