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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第八章 思い交わす時
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4 交わす思い

 ソランから殿下に会おうとするのは難しかった。いや、恐らく誰に頼んでも、すぐに手配してくれるに違いなかった。ただし、内密にというわけにはいかない。それどころか、下手をすると、王宮と軍部の人間全員の知るところとなりそうだった。


 それほどソランは注目の的の人物だった。毎日、王妃の許に第二王子自らが連れてくる女性。しかも、殿下の館の妃の間の住人である。

 そこに弟の悲劇も加わっていた。また本人の噂としては、監獄に行ったことがどこからか漏れ、帯剣していることもあり、中傷するような恐ろしげなものもあるらしかった。

 ただし、王妃の庇護は絶対であり、煩わしい噂も、悪意のある者も決して近づけられることはなかった。

 そうでなければ、今頃は暗殺されていたか、悪意の罠に嵌められていたか。王女派の強硬派は壊滅したが、王宮は富と権力の虜になった者たちの巣窟であった。


 現王の御世となって十数年。まだたったそれだけでしかない。当時王太子であった王は、叔父と王位を争った。二人は歳が近く、兄弟のように育ったという。穏やかな王太子と武芸に秀でさっぱりとした気性の叔父。先の王が崩御するまで、次の御世の安泰を疑う者はいなかった。

 だが、蓋を開けてみれば、叔父の突然の離反、蜂起。現王は王都を追われ、ジェナシス領に逃げ込んだ。その時、王に味方した者たちは少数でしかなかった。それが大勢を覆し、王位を手に入れたのだ。

 故に、叔父に味方した者すべてを、粛清するわけにはいかなかった。そんなことをすれば、五割にのぼる領主貴族たちを一族郎党葬ることになっただろう。それほどの大虐殺を王は望まなかった。

 そもそもが、叔父が一晩にして都を占拠したために、日和見的に叔父側についただけの者が多かった。王太子が盛り返すにつれ、叔父の陣営を裏切り、王太子への帰属を願い出る者が増えていった。

 そうして内乱は一年を少し超えたところで収束したのだった。叔父は王都の北西にあるエニュー砦に立てこもり、大勢の味方とともに討ち死にして果てた。


 現王の即位とともに、初めから味方した者たちは大きな権力を与えられた。味方はしなかったが敵対もしなかった者たちには、元からの権利を保障した。

 そして、敵対した者たちには、寝返りの成果によってそれなりの権利が与えられた。彼らの中には大領主になった者もいた。それまでの権力があまりに強大で、削りきれなかったのだ。

 火種は残された。それが折に触れ、燻る。現王の政権が安定しているが故、余計に陰にこもりながら。


 しかし、そうやってウィシュタリアは常に澱みを打ち払ってきたのだった。

 愚王は領主たちに葬られてきた。また、領主の中に傑出した人物が出れば、王族の姫を娶り王位につくこともあった。誰にも絶対的な権力はなく、故にいくらでも新しい風を入れることができた。その代わりに、常に争いがつきまとう。

 もし、不死人がいなかったら、この国はもっと早くに荒廃していただろう。彼らがその経験を活かし、様々な分野の中枢に潜り込み、王家の血を絶やさないという一つのルールを守ろうとしなければ、恐ろしい下克上の世が現出しただろう。


 アティス殿下は、それらに見切りをつけた。世界は新しい局面を迎えようとしている。最早国内で上限の決まった富を争っている場合ではない。敵は内からではなく、外からやってくるのだ。それも、十数年で隣の大陸を侵食し、崩壊させた、強大な敵が。


 ソランも覚悟を決めていた。己の力の及ぶかぎり、殿下の大望を支える。

 どこにいようと、どんな立場になろうとも。

 もう、心は不安に揺らがなかった。ソランの最もしたいことは、端から決まっていた。それを思い出した。


 ソランは、領主任命書を小さく折りたたみ、よく使っている組紐で縛った。そして、鍵を使って殿下の寝室に入りこみ、枕カバーの下に入れた。

 任命書をさし出すことは、己の身分も権限もすべて相手にあずけることに相違ない。殿下ならその意味を、きっとわかってくれるだろう。

 そうして、ソランはここ最近なかったほどすっきりとした気分で、眠りについたのだった。




 人の気配で目が覚めた。闇の中、眠りから覚めたばかりで妙に開放された感覚が、それは殿下であると告げていた。


「どうなさいました?」


 ソランは起き上がって、眠そうに尋ねた。


「おまえこそ、どうして寝ているんだ」


 押し殺した殿下の声には憤慨の響きが含まれていた。ソランは即座に謝罪を口にしながらも、弁解を試みた。


「申し訳ございません。ですが、あれを見つけられるのは夜遅くになると思ったのです。ですから、お返事は明日以降になるかと」

「あんな思わせぶりに返事をもらって、寝られるか!」


 思わせぶり? ただ、人の手に渡ると厄介な代物だから、殿下以外には見つけられそうにない場所に置いただけなのだが。何を思わせるというのだろう。

 ソランの体がふるっと震えた。今夜は冷えている。殿下は怒っているし、誤解を解かないことには帰らないだろう。


「暖炉の火を熾します。こちらに入って少しお待ちください」


 布団から這い出て入りやすいようにめくり、自身は殿下の隣へと降り立った。ランプは入り口の方に一つ点けて置いてあるきりだ。それでも、暗闇に慣れた目には、夜着一枚なのが見て取れた。


「風邪を召されると大変です。暖かくなさってください」

「お、ま、え、は」


 殿下は妙な発音をした。その剣呑な雰囲気に、ソランは一歩後退った。が、両の二の腕を鷲掴みにされ、逃げられないように捕まえられる。


「馬鹿か! 男を自分のベッドに誘うな! そんな薄着で男の前に出てくるな! しかもその気もないのに不用意に近付くな! それから、自分だけ暖まって、女に火を熾させるような男は、おまえの前に立つ資格もない! 覚えておけ!」


 小声で叱責され、それが終わると同時に、力技でベッドの上に放り上げられた。

 ソランはあまりにびっくりして、手荒く布団がかけられるまま大人しくしていた。殿下を相手に恐怖を感じている自分にも驚いていた。命の遣り取りをしているわけではなかったが、己より強く大きな個体を前にして、緊張していた。腕を掴まれても振りほどけなかったのだ。大抵の男となら互角に渡り合えるソランにとっては、滅多にないことだった。


 やがて、火が大きくなり、あたりが明るくなった。ソランは怖々布団から顔を出し、殿下の方を窺った。

 そろそろ行った方がいいのだろうか。というより、行かねばなるまい。あれでは背中が寒いだろう。何か羽織る物を持っていかないと。

 ソランはまず、ベッドサイドに用意してある自分のガウンを着込み、足音を忍ばせて降りた。それから衣裳部屋に旅行用のマントを取りに行った。あれなら、多少体が大きくても問題ないだろう。ゲルダ衣裳店のチェイニー婦人が、北方の寒い国に生息するなんとかというヤギの毛で織ったもので、水を弾く上に軽くて柔らかくて暖かいのだと説明していた一級品だ。それを持って殿下の許へ行った。


「どうぞこれを羽織ってください」


 声を掛ける。殿下は振り向いて腕を伸ばした。渡すと、襟元に毛皮の付いた女物のマントをしばらく眺めていたが、借りるぞ、と言って羽織った。

 ソランは人一人分ほどの間を空けて、その隣に座った。カタリと剣が床にぶつかって立てた音で、自分が無意識に剣を持って歩いていたことに苦笑する。殿下も剣を見ていて、気まずい思いでそれを遠ざけ、クッションの下に仕舞いこんだ。


「おまえは、いったいどういう育ち方をしたんだ。どう見ても、女装より男装の方が板についているとしか思えんのだが」


 ソランは情けない思いに駆られながら、質問に答えた。


「私の一族は、婚約するまで男女逆に育てられるのです」

「アーサーの差し金ではなく?」

「はい。祖母も母もそうでした。あ」


 でも、弟は違う、と思いつく。もしかして初めてではないか。あの領地内で生まれず、育てられもしなかったジェナスの後裔は。


「なんだ」

「いえ、たいしたことでは」

「いいから言え」


 殿下は不機嫌だった。ソランは仕方なく説明する。


「弟はちゃんと男として育てられていると気づいたので」

「弟がいるのか?」


 意外そうに聞き返される。


「はい。三つ下の」

「男児がいるのに、なぜおまえが後継者なんだ?」

「聞いた話では、一人っ子の母を嫁に出す条件が、第一子を後継者としてさし出すことだったらしいです」


 殿下は少し考え、怪訝そうに尋ねた。


「両親は離れた場所で暮らしているのか?」

「はい。二歳を過ぎた頃から、共に暮らしたことはありません」


 眉を顰める。だが、そうか、とだけしか言わなかった。恐らく、ソランが寂しい思いをしたのではないかとか、そういうことを考えてくれたにちがいない。


「寂しくなかったといえば嘘ですが、その分、たくさんの人に愛されて育ちました」

「ああ。昨日もそんなことを言っていたな」

「それと、もう一つ殿下に申し上げておかなければいけないことを思い出しました」


 今の今まで忘れていた。ソランにとっては当たり前のことで、それ以外の自分は在りようもなかったから、それによって他の人間にどんな影響を与えるかなど、ほとんど考えたこともなかったのだ。

 自分が、誰の後継者で、どの神に仕える神官であるのか。

 決して人には知られてはいけないと言い聞かされてきた。邪神と呼ばれる神を崇めているなどとは。

 それでも、殿下には教えなければいけないだろう。それが、殿下の御世に陰りを与えることにならないとも限らないのだから。

 ソランは緊張気味に告白した。


「私は女神マイラを祀る一族の神官なのです」


 殿下は驚いた顔をした。


「まさか、黒の神官か」


 エルファリア殿下にも同じように呼ばれたことがあった。ソランも驚きをもって問い返した。


「確かに聖衣は黒を身に着けますが、自分たちでそう名乗ったことはありません。何をご存知なのですか?」

「黒の神官はこの世に残された最後の至宝だと。国が滅びようともかの君を守れ、と。王族は誰でも五歳になると、神殿に連れて行かれて誓わされるのだ。だが、本当にいるとも、どこにいるのかとも聞かされたことはなかった。ただの神事の一つと思っていた」


 あまりに意外な内容に、ソランは反論した。


「ですが、マイラは邪神と蔑視されています」

「冥界を統べる神だというだけでな。本来は豊穣と慈悲の神でいらっしゃるのは知っている。ただし、我等はかの神を崇めることは許されていないのだそうだ。それができるのは黒の神官の民だけだと聞いている」

「許されない?」


 マイラは慈悲にあふれた神だ。求め縋る者を遠ざけたりはしない。


「ああ、少し違うのか。慎み控えよ、だったか。『我等は全て罪人の末裔。赦しを請うてはならぬ。自ら慎み、控えよ。いつの日か至宝がまったき姿を取り戻し、女神の哀しみが癒えるまで』」


 歌うように口ずさんた。


「そんな日は」


 本当に来るのだろうか。本当にそんなことが、起こると? 神話そのもののようなことが?


「なぜ、そんな顔をする。まったき姿がどんなものなのか、おまえは知っているのか」

「恐らく、『失われた神』が人として甦ることではないかと」

「『失われた神』?」


 ソランは自分の領地に伝わる神話を掻い摘んで話した。主神セルレネレスと女神マイラの諍い。世界の崩壊とそれを止めた神。神の欠片を留めた英雄の話。そして、女神の預言。

 そうして話しながら、ソランは次々と符号が合っていくのに恐れを抱いた。

 主以外には抜けぬ宝剣。鍛冶の神ラエティアが鍛えたというそれ。それが真実なら、宝剣の初めの主は神だったということになる。なぜなら、ラエティアは神の佩剣しか鍛えなかったのだから。

 宝剣を収める聖堂に刻まれた言葉と、エルファリア殿下の話。それは二代目の主が『アティス』であり、彼の誓願を神が認め、守護を授け、宝剣をその証としたことを示す。

 一方、領地の神話では英雄の君は将軍であったと伝えてはいたが、それ以外は、己の命と引き換えに『失われた神』を呼び留め、その見返りにマイラに領民への祝福を願ったとしか伝えられていない。

 いや、伝えていないとしか思っていなかった、というのが正しかったと言うべきか。なぜなら、ソランは殿下に語りながら、彼の話の最後の一文の、本来の意味を悟ったからだった。

 意味が通らぬが故に、昔話として簡単に語られるときは落とされてしまうことの多い一文は、正式な締めくくりでは、こう語り終えるのだ。『こうして英雄の君は二度死んだ』と。

 それが、その通りの意味だったとしたら。だからこそ、ソランの領地では裏切りが最も重い罪なのだとしたら。


 ソランが話し終えると、二人は等しく黙ってしまった。ソランは、何か重いものが魂に絡みついているような気がした。それに囚われてしまいそうな。

 ケインが『災いの神』と呼んだ声を思い出す。まさに、そうではないのか。英雄の君は神の庇護があったにもかかわらず、死んだ。それも、二度も。

 ソランがその神の魂を継いでいるのだとしたら。そして、今生もまた、『アティス』に災いをもたらすのだとしたら。

 今度はどんな呪いをもたらすのだろう。もしかして、不死の呪いをかけたのは、『失われた神』なのではなかろうか。呪いを解く鍵を持っているのは、二人目の主の生まれ変わりではなく、一人目であるかもしれないソランなのではないのか。だとしたら、不死人に狙われるべきなのは殿下ではなく、ソランであるべきだった。

 恐ろしかった。何一つ確定したわけではなかったが、だからこそ余計に恐怖に囚われそうになる。


 殿下は身を乗り出し、暖炉に一つ薪を足した。やがて火が新しい糧を喰い、明るく大きく闇を照らした。


「私には、その男の気持ちがわかるような気がする」


 元の位置に座りなおし、殿下が口を開いた。


「己がどうなろうと、どうしても失いたくないものはある」


 殿下はソランに視線を向けた。真剣な眼差しだった。それは英雄の君の話をしているようでありながら、ソランに投げかけられた言葉としか聞こえなかった。

 思わず彼女は顔を歪めた。その思いがどうしようもなく怖かった。


「これを私にあずけたのは、おまえの返事だと思ってよいのだな?」


 夜着のポケットから、ソランの任命書を取り出す。ソランは頷けなかった。それを見て、殿下は苦笑した。


「だが、これは、もう返さぬ」


 殿下は再びポケットにしまうと、ソランを見据えた。そして、正面から彼女に言い聞かせる。


「これで、おまえは、私のものだ」


 あまりの心理的な衝撃に、ソランは眩暈がした。心臓が壊れかかっている。早鐘のようで、苦しくてたまらなかった。

 それでも、気掛かりから逃れることは出来なかった。うろたえた口調であっても、言わずにはいられなかった。


「あの、ですが、私は、古いいわくに縛られているのかも、」

「それが?」


 殿下は途中で言葉をさえぎった。


「いわくなら、私にもある。今さら一つ二つ増えたとて、どうということはない」

「でも」

「言っただろう。その男の気持ちがわかると」


 頑なな目だった。こちらからは切り崩せないと悟る。ソランは違うことを口にした。


「そ、それに、男性を好まれるんですよね?」

「私が? 冗談だろう。なぜ、……ああ、そう思ったのか」


 少々ムッとし、次に呆れ、最後に激情を宿した瞳でソランへと身を乗り出してきた。


「私は、おまえが欲しいだけだ。おまえだから、たとえ男でも受け入れられると思った。私がどのくらいおまえが女だったらと望んでいたか」


 そこで、はたと思いついた様に、微かに眉を寄せる。


「ところで、おまえ、歳はいくつだ? まさか、十三、四ということはなかろうな」

「十六です」

「ならば、なにも問題はないな」

「問題?」

「子供には手を出せん」


 ニヤリとする。

 ソランはいてもたってもいられなくなり、ずりずりとにじって後ろへ退いた。手は力を入れてないと震えるし、心臓は口から転げ落ちそうだった。体も熱かったが、顔は火がつくかと思うほど熱かった。


「逃げるな。逃げれば、追う」


 逃げなくても捕まえるくせに、と思って、ソランは涙目で殿下を睨んだ。殿下の表情が変わる。笑みとともに余裕が消え、鋭く恐ろしいものに。


「それで? 他に問題はあるか?」

「あ、あります。何もはっきりしてはいないし、解決もしていません」

「ならば、二人で解決していけばいい」

「でも、私は」

「おまえを失うくらいなら、死んだ方がましだ」

「殿下!」


 ソランは泣きそうな声を上げた。

 なんてことを言うのか。


「おまえは、まったく」


 手が伸びてきて、すっと頬を手の甲で撫でられた。髪の束を取り、耳に掛けられる。そのままうなじを撫ぜられ、肌だけでなく血までざわめく。

 大きくて温かい手だった。力強いそれに触れられると、息が止まった。ただ、近くで覗きこむ殿下の瞳に捕らわれる。

 ふっとそこに微笑がのぼった。不思議な思いで見つめていると、唇に口付けられた。軽く優しく食まれ、離れていく。


「少しは、私を信じろ」


 ソランは泣きたくなった。不安と、それを押し退けてくれる存在が、拮抗していた。


「怖がらなくていい。おまえが私にとって光であるように、私の中にも光はあるのだろう?」


 たしかにある。ソランには殿下こそが光に見える。あまねくこの地を照らし、安寧をもたらす光だ。


「それは、そんなに微かな光か?」


 ソランは俯いて横に首を振った。


「だったら、大丈夫だ。おまえが私の盾となり剣となってくれるように、私もおまえの盾となり剣となろう」


 腰に腕がまわり、優しく引寄せられた。ソランはぎゅっと目をつぶった。抱え込まれ、殿下の腕に包まれて、力が抜けていく。そして、口付けを受ける。

 長く、長く、深い、前の二回とは比べようもない嵐のようなそれを。

 ほとんど必死だった。恐怖を消してくれるそれに縋りついた。ただただ、受け入れ、応える。そうして、自分がくぐもった声を上げ、弱弱しくもがいては相手を煽っていることになど、気づかなかった。

 やがて、朦朧としてくったりとしたころ、やっと唇が開放され、痛いくらいにきつく抱きしめられた。


「ああ、くそ、気が狂いそうだ」


 耳元で囁かれる。


「覚えていろよ、戦から帰ったら、思う存分、抱くからな」

「戦? 戦には私もついていきます」


 物騒な言葉に反応し、ほとんど無意識に宣言していた。

 危険な場所に、この人を一人で送り出すなんて嫌だった。絶対に傍にいる。離れたくない。


「ああ。連れて行く。だから、今日はここまでだ」


 殿下はソランの頭を抱え込んで己の胸に押し付けた。


「子でもできたら、さすがに連れていけんからな」


 その意味を理解して、いろんな意味で安堵して、今度こそ心の底から力が抜けた。身構えないで、愛しい思いだけで殿下の背に腕をまわす。思いのたけ、頬をすりよせる。


「だから、おまえは」


 呻くような、憤慨するような、弱りきったような、そんな声だった。でも、許されて受け入れられているのがよくわかった。何事にもうろたえないこの人を、困らせていることに嬉しくなる。


 ソランはこの人のものだ。そして、この人も、たぶんソランのものになってくれるのだ。

 恐れは完全に消えたわけではなかった。それは、この人を愛する限り、一生消えないのだろう。失いたくないと思えばこその、痛みなのだから。

 それでも、もう、自分の一生をこの人から切り離して考えることはできなかった。この人も同じ気持ちなのだと、口付けを通して伝えてもらった。この先に何があろうと、この人を失うより辛いことなどありはしないから。それは、同じだから。


 ソランは甘えた。抱きついて、抱きしめ返してもらう。そうするだけで、癒される。

 そうして、心が満たされるまで、ソランは静かに抱きしめてもらった。

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