3 ソランの決断
ぽかりと目が覚めた。窓がうっすらと明るくなっている。小鳥の声もする。もうすぐ夜明けなのだろう。
ソランは布団の上に起き上がった。乱れた髪を手櫛でかきあげる。マリーたちに毎日手入れしてもらっているそれは絹のようにすべらかで、かきあげた先から落ちてきて、すぐに顔を覆ってしまう。ソランは溜息をついた。
昨夜は、皆に悪いことをした。きっと、夕食もお湯の用意もしてくれていただろうに。我儘なことをした。あとで、謝らないと。調理室にも顔を出そう。
そう考え、もう一度溜息を零す。
気持ちは落ち着いていた。
返事をするまで、朝は起こしに来なくていいと殿下に言われている。だから、食事も別だ。ありがたかった。昨日の今日で、とてもではないが殿下の前で平静でなどいられない。
小屋の中であったできごとが心の中に甦る。まなざしと声と感触と。なんて得難く、幸せな夢だろう。恐らく、一生、ソランの心を苛むにちがいない。
ソランは、やはり、女だと打ち明けられないと結論付けていた。殿下が『男のソラン』を求めているというのなら、尚更。だがそれは、殿下の思いを受け入れられないと告げることでもある。
それでも、傍に置いてもらえるだろうか、度量の広い方だから、きっと遠ざけたりはなさらない。とソランは自分に言い聞かせるように思いめぐらせる。
ただ、今までみたいに親しく傍近くにはいられない気はした。ソランもそこまで厚顔無恥ではない。『適度』な距離を置くことになるだろう。そしていずれは、女だとばれる前に、領地に引き込まなければならない。
そうなったとしても、女だと知られて義務で結婚されるよりはマシだと思った。殿下も好きだと告白したからには、女が受け入れがたくても、ソランを受け入れようとするにちがいない。
でもきっと、ソランがマリーをどんなに愛していても、抱きしめる以上のことができないように、無理をすれば、いずれお互いに堪え難くなるのではなかろうか。
ソランは彼と不幸にだけはなりたくなかった。一人ならともかく、二人で共になんて、お互いのせいでそうなるなんて、堪えられなかった。
掛け布団を握り締める。いっそ泣きたかったが、涙は出てこなかった。胸の中に熱く重いものが溜まり、苦しくなるばかりだった。
泣くわけにはいかないと、思い返す。これから相手を振ろうという人間が、何を泣く理由があるだろう。
普通にしていないと。
それを心の中で繰り返す。そうしていないと、何度でも、殿下と触れ合った記憶が甦り、ソランの頭も体も支配してしまう。
ソランはマリーが起こしにくるまで、身動ぎもせず、ベッドの上に座っていた。
殿下に送ってもらわなくても代わりの護衛が来るだろうと、いつもの時間に用意して待っていると、祖父がやってきた。そして、王に正式な呼び出しを受けたと召喚状を渡された。
初めて次期領主として出向いた先は、王の執務室だった。
人払いされたそこで、王は祖父と簡単な挨拶を交わし、その後ろに控えていたソランにも、気安く椅子を勧めた。
彼らの間には立場としての最低限の礼儀はあったが、それ以上に長年の緊密な信頼関係が見受けられた。ソランはそれに少々驚いた。もっとビジネスライクな関係かと思っていたのだ。
「今日、呼び出したのは他でもない、アティスが立太子の意志を固めてくれたことに感謝したくてな」
王はにこやかに言った。
「すべてそなたのおかげだ。礼を言う」
ソランは黙って頭を下げた。ソランのおかげかどうかは怪しいところだったが、そう思っているのなら、わざわざこちらから否定することはない。
「初めの約束どおり、褒美を取らせたいと思う。何がよい? 何なりと申せ」
それについては祖父を相手に検討を重ねてきた。
金が一番良いのだが、金額で指定するのであろうから、もしも小麦の値が上がった時には不安である。買える量が目減りしてしまうからである。
だったらいっそ、欠くことのできない小麦自体を願い出てみたらどうかということになった。それも、将来の人口増加を見越して多目にである。余るなら売って金にすればよいだけだ。加工してから売るのも手かもしれない。
などと夢は大きく膨らんだが、祖父は何を言っても、それでよいのではないか、と笑っていて、実はあまり相手にならなかった。でも、少なくともいけないとは言わなかった。妥当かどうかはともかく、許されるラインは守っていると見ていいのだろう。
そこで、ソランははっきりと申し出た。
「はい。では、小麦の援助をお願いいたします」
王は目を瞬いた。
「そんな心配は、もう必要なくなるであろう。なにしろそなたは、いずれ王妃となるのだから。アティスも王妃領の困窮を放っておくことはあるまい」
優しく言い聞かせてくれる。それに胸が痛んで顔が強張りそうになった。が、顔色を変えぬように努める。
「そのようなことにはなりません。殿下には、立太子による妃争いが起きぬためと、私の身の安全のためとお聞きしております。今回のことは、仕事の一環でございます」
「仕事!?」
王は顔色を変えた。驚いたようだ。
「まさか。プロポーズを受けてくれたのではないのか?」
「いいえ。その様な事実はございません」
平然と嘘をついた。その事実をなかったことにしておいた方が、誰にとっても良い気がした。
「なんと」
王は呆然とし、それから、苦りきった顔をした。
「そうか。そうだな。言うまでもない。あれはいつも眉間に皺を寄せて気難しい顔しかしておらんし、口は始終への字で、開いたと思えば人を煙に巻くことしか吐かん。愛想などないも等しいしな。
だが、それもすべて国を思ってのこと。あれの頭の中は仕事でいっぱいなのだ。そなたならわかってくれると思っておったのだが」
「はい。わかっております」
「では、何が気に入らないと申すのだ」
ソランは微笑んだ。陛下の挙げた殿下の姿でさえ、愛しいものでしかない。
「殿下は素晴らしい方でいらっしゃいます。不満など少しもございません。そうではなくて、私のことは男だと信じていらっしゃいますので」
「は? だが」
途中で口を噤み、祖父へ視線を送った。祖父は肩を竦めた。
「いや、しかし、ダレルノは女を」
と言って、またソランを見て、急に黙った。ダレルノとはリングリッド将軍のことだ。閣下がなんだというのだろうか。
王は、ちょっと失礼する、と作り笑いで柔らかに断ると、祖父の腕を掴んで部屋の隅へと移動した。
ソランは、小麦の件は特に問題なさそうだと判断していた。王太子ができることを、王ができないわけがない。望みの褒美を取らすと言ったのだから、約束通り履行してもらう。夢物語を追うより、取れるところから取るのがソランの信条だった。
問題は期間である。塵も積もれば山となる。ソランの一生涯は当然として、国庫が破綻するまで、つまり国が滅びるまででは駄目だろうか。
その話をいかに切り出すかで、ソランは意識的に頭の中をいっぱいにしていた。他の事は考えたくなかった。
「待たせたね」
王は優しく微笑んだ。女装をしてから一番変わったのが、これである。誰もが非常に優しく丁寧に扱ってくれるのだ。それがなんだかむず痒く、時々申し訳なくすらなってくる。もう、たくさんだった。
「いいえ」
それでもソランは感じよく微笑んで見せた。祖父は、この頃のおまえの笑顔は、さらに磨きが掛かったと褒めてくれている。やはり、あの情け容赦のない指導教官のおかげであろう。殿下などは、女の技術とは恐ろしいものだな、と唖然としていたが。
殿下のことが頭をよぎり、振り払いたくて口を開いた。
「あの」
「ああ、もちろん、そなたの望みどおりの品を取らせよう。神殿への寄進という形で、そなたの血縁者が治めるかぎり、毎年千袋でどうだ」
ソランが試算していた倍近くの量を提示された。
「ありがとうございます」
ソランは満面の笑みを浮かべた。よかった。これで冬の蓄えについてだけは、心配しなくてすむようになる。たった一つであっても、自分の代で領地のためになることができて、肩の荷が一つ下りた気持ちだった。
しかも、思っていたよりかなり多く、余剰分は元手がタダで金に換えることができるのだ。領地まで運ばせず、王都で小麦を使った菓子やパンを売っても良いかもしれない。それにはまず市場調査である。
瞬きほどの時間であったが、ソランは意識が完全に持っていかれていた。それほど嬉しかったのだ。
「それと、これにサインを」
王は書類を出してきた。契約書にしては早すぎる。詳細も何も全然詰めていない。ソランは書面を確認して驚いた。祖父を振り返る。
「まだ、早すぎます」
領主の任命書だった。祖父は笑って横に首を振った。
「早すぎるものか。殿下はおまえを必要となさっておられる。そのおまえに力がなくてどうする」
「私にはまだ学ぶべきことがたくさんあります」
「ああ、そうだ。肩書きがなくなっても、私はおまえの傍におるよ。だが、これからは、おまえが殿下をお守りするのだ。そう誓ったのではなかったか?」
「でも」
「おまえは、なぜ、殿下に己が女だと告げていないのだ?」
突然変わった話題に、ソランはとっさに答えが出てこなかった。
「殿下を信頼しておらんのか」
「いいえ。信頼しております」
「ではなぜ、欺き続ける」
「そのようなつもりは」
「では、なにが理由だ」
畳み掛けられ、答えられずに口を噤んだ。祖父の質問には絶対に答えが必要なのだ。答えが出るまで、何時間でも粘られる。しかも嘘は通用しない。ソランは幼い頃から、この質問攻めがとても苦手だった。
祖父は必ず、ソランの心を暴く。避けて歩き、見て見ぬ振りをしている恐怖を白日の下に曝す。それを見よと突きつける。それを思い出し、奥歯を噛み締めた。俯く。
そう。怖い。怖いのだ。殿下を不幸にするかもしれないことが。ソランの存在が彼の災いとなることが。傷つけあうかもしれないことが。
でも、それは予測でしかない。幼い頃から、いつでも最悪の予測をせよと、教え込まれている。ただしそれは、備えて避けるためなのだ。今のソランのように、逃げるためではない。
また、恐怖から逃げてはいけないとも諭されてきた。それは逃げる限り、つきまとうからだ。だが、向き合ってその本質さえ見出せば、必ず道は開けると。
そうだ。道を切り開きたい。
ソランは目を瞑った。
ふいに、殿下が、私が悪かった、と言ったのを思い出した。おまえが、どうしても、欲しかったのだ、と。
同じだと思った。同じ過ちを犯そうとしている。ソランも、正しい情報を渡さないことで、殿下に一つのことしか選ばせないようにしようとしている。
ああ、浅はかだった。愛されたいとか、傷つけたくないとか、傍にいたいとか、それは結局、自分が傷つきたくないからだ。殿下のためでもなんでもない。隠して、偽って、自分を守りたいだけ。
「答えは出たか?」
祖父の温かみのある声に、顔を上げた。
「ああ、言わんでいい。もう小さな子供ではない」
頭に大きな手がのった。髪型が崩れないように、そっと撫ぜられる。
「あの頃は、これだけで恐れを掬い取ってやれたのにな」
祖父はいつもソランを抱き上げて、一緒に恐怖をはらってくれた。大きくて温かい彼となら、恐怖に立ち向かうことが出来た。
「もう、私の手には余る。すまんな」
ソランは目を見開き、横に激しく首を振った。
「恐怖に雁字搦めにされる前に、立ち向かわねばならんぞ」
ずっと言い聞かせられてきた教えだった。領主としての心得を、様々な解決方法を、骨身になるまで繰り返し教えてきてくれた。
「はい」
少し声が震えてしまった。息を整え、もう一度返事をする。
「はい、お祖父様」
「よし。おまえは私の自慢の孫だ」
手荒く頭を揺すられた。小さい頃はこれが好きで、ぐらぐらとして倒れる度に、笑ったものだった。思い出して、笑顔が心の底から浮かんでくる。
「そうだ。いい笑顔だ。それでいい。おまえなら、できるよ」
手が離された。自然とテーブルの上の書類に目が行く。ソランは、示されるままにサインをした。
ソラン・ファレノ・エレ・ジェナシス。口語では慣習的にそう読むが、実は文語では違う表記をしている。領主を指すエレは、女性の場合、エレッセと書き表すのだ。
そこに、王と祖父が承認のサインを入れた。一枚は王の手元に、もう一枚はソランに渡される。
「小麦の件は、アーサーと詳細を詰めるが、それでよいか?」
ソランは祖父に向いて尋ねた。
「お祖父様、お願いできますか?」
「ああ、まかせておけ」
たっぷりふんだくってやろう。そんな顔で返してくる。ソランはにっこりとした。
「はい、陛下、そのようにお願いいたします」
「では、すぐに契約書を作らせる。今日中にそなたの許に届けさせよう」
「ありがとうございます」
「うむ。それとは別に、着任祝いを私からやりたいのだが、何が良いかな?」
思わずもう一度祖父を見る。せいぜいたかってやれと、目が言っている。
「では、王都で評判になっているお菓子やパンを」
王が目を瞬いた。どうも信じられないことを耳にした時の王の癖らしいと察する。
「そんなものでよいのか?」
「はい。王都のいろんなお菓子やパンを食べ比べてみたいのです」
「ふむ。甘いものが好きなのかね?」
「はい」
実はソランはそれほど甘いものが好きではなかった。しかし、侍女たちは大好きである。
「可愛らしいことだ。わかった。毎日お茶の時間に間に合うように、菓子やパンを届けさせよう」
「ありがとうございます、陛下。気に入ったものはまた食べたいので、店の場所と名前とお菓子やパンの名前もわかるようにしてもらえますか?」
「もちろんだ。そのように手配しよう」
祖父が可笑しそうに笑っていた。彼にはソランの考えていることなど、お見通しなのだ。
こうして、たくさんの収穫を手にして、ソランは陛下の御前を辞したのだった。