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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第八章 思い交わす時
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2 求婚

 殿下とソラン、それに護衛を六人連れただけで、一行は王都を出た。進路を北東に取る。ソランの領地へ続く道だ。こちらなら、領地へ帰る『ソラン』を見送りに行ったと言い訳がたつ。ただし街道は避け、平行して通る獣道のような細い道を辿った。


 一帯は小麦の刈り入れも遅生りの林檎の採り入れも終わり、一面冬枯れの様相だった。もうすぐ霜が降りるだろう。そうすれば、そこかしこに色を添えている最後の花々も色を失う。

 ウィシュタリアはハレイ山脈の南となるので、それほど雪は深く降らない。それより北の国々は、人の背の何倍も積もる地もあるが、北方の辺境地であるソランの領地でさえ、雪は降っても積もるものではなかった。

 雪はハレイ山脈の上に降り積もり、冬の間中蓄えられ、春の雪解けとともに山脈の豊かな栄養を含んで流れ下って、広大な平野を潤す。冥界の門があるという山脈は、ウィシュタリアに豊穣をもたらす象徴でもあった。


 ソランは開放感に、胸の奥に溜まった澱が溶けてなくなっていくのを感じていた。見渡すかぎり、人もいなければ建物もない。あるのは、はるか彼方まで見晴るかせるなだらかな起伏に沿って開墾された畑と、残された林や森、それに丘。

 冷たい風が頬を撫で、ソランの頬を赤く染めたが、少しも気にならなかった。むしろ清涼な冷たさが気持ちよかった。

 北に目をやればハレイ山脈が偉容を示し、世界を見守っていた。ソランは、この風景の中に溶け込んでしまいたかった。馬から降り、地面に寝転べば、そうできそうな気さえした。


 うっすらと汗をかいた頃、小さな湖に辿り着いた。湖は澄み、空と葉を落とした木々を映していた。少し奥まった林の中に可愛らしい小屋が建っていて、ソランと殿下はその前で馬を降りた。


「幼い頃、夏になると、ここに来て泳ぎを習ったのだ」


 小屋の検分が終わると、護衛のうち四人が湖周辺の探索に馬に乗ったまま出て行った。二人が護衛のために残る。

 ソランと殿下は馬を連れたまま、湖の端まで歩いて行った。そこは浅くなっていて、風の描く漣が始終打ち寄せていた。


「少し行くと急に深くなっているのだ。知らないで入っていくと、びっくりして溺れる」

「溺れられたのですね?」


 ソランはからかうように尋ねた。


「溺れた。死ぬかと思った」


 真剣に答えるのがおかしくて、声を上げて笑う。


「もうだめかと水中から見上げた太陽が、やけに綺麗だったのを鮮明に覚えている」


 殿下は湖からソランへと顔を向けた。


「暑くなったら、ここへまた、おまえと来たい。王都はうだるような暑さになるからな。ここは気持ちいいぞ」

「はい」


 それから黙って二人で並んで、刻々と姿を変える湖面を見ていた。心が和いで、からっぽになっていく。それはまた満たされた状態でもあるようで、ソランはその心地よさに浸ったのだった。




 護衛たちが異常がないのを確認して戻ってきた。


「まわりを一歩きしないか」


 腕をさし出されながら誘われ、頷いて自然と殿下と腕を絡める。ふと我に返って隣を見上げると、当然のことながらとんでもなく近いところに横顔があって、心臓が一つ強く打った。こちらを見下ろそうとする気配に、湖へと視線を向ける。


「溺れられて、どうやって助かったのですか?」

「大人の背ではたいしたことはない場所だったから、傍で見ていた者が引きあげてくれた」


 見ていたとは、それはまた暢気な大人もいたものである。


「それはどなたですか? 私の知っている方ですか?」

「リリア・コランティアだ」


 ソランは草の根につまずいた。ろくでもない話題に母が出てきたのと、殿下に体を支えられたので、ありえないくらい鼓動が速くなる。


「大丈夫か」

「あ、すみません。ありがとうございます」


 こんなに近くで視線が合うのに堪えられない。ソランは意識を逸らすために、とっさに尋ねていた。


「リリア殿とは、よくこちらにいらしたのですか?」

「ん? ああ、そうだ。彼女に子供ができるまでしばらくの間、そうだな、一年くらいか、当時私は遊び相手と認識していたのだが、もしかしたら護衛だったのかもしれん」


 殿下は遠い目をした。


「どんな遊びをされたのですか?」

「ここでは、泳いだり、釣りもしたな。兄上より大きいのが捕れて嬉しくて、取っておこうと持って帰ったら、道中に腐って酷い目にあったことがある」

「エルファリア殿下も?」


 意外で聞き返す。


「ああ。それからすぐだったのだ、体を壊されたのは」


 一瞬、物憂げな顔をした。が、一呼吸で気持ちを入れ替え、穏やかに続きを語ってくれる。


「王宮では剣や乗馬にも付き合ってくれたが、一番のめりこんだのは、かくれんぼだな。ほぼ毎日朝から晩までやったような記憶がある」


 両親の話では手を焼く悪戯坊主という感じだったが、殿下が語ると、一心に遊ぶ子供という感じだ。それが真実なのだろう。その微笑ましさに、ソランは笑んだ。殿下も目が合い、笑い返してくる。


「これにはオチがあって、私は夢中になるあまり、剣の稽古も勉強もすべてすっぽかしてしまったのだ。

大人たちは業を煮やしたのだろうな。獣捕獲用の罠を仕掛けられて、捕まえられたのだ。こう、ばさーっと網が目の前に立ち上がって、次の瞬間には空中に吊り上げられていた」


 殿下は空いた片手で、網の様子と吊り上げられる様子を示した。


「その後、縄で縛りあげられて、外の木に吊るされた。その下でティエンがわざと眠くなる講義をして、うとうとするたびに、リリアに鼻を摘まれて起こされたのだ。

まあ、それくらいならどうということはなかったのだが、兄上に酷く叱られてな。それ以来、勉強も稽古もきちんとすることにした」


 殿下の中では、捕獲されて吊るされた思い出も、楽しいものの一つに分類されているようだ。ソランは密かに胸を撫で下ろした。


「おまえはどんな遊びをしたのだ?」


 幼い頃を思い返す。


「そうですね、今にして思えば、あれは武術の訓練だったのでしょうね。私はてっきり遊びだと思っていたのですが。ナイフを投げたり、剣を振り回したり、取っ組み合いをしたりしました。

あとは川で沢蟹を捕ったり、銛で魚を突いたり、ウサギも追いかけて捕まえて食べましたし、投げ石って知ってらっしゃいますか?」

「知らんな」

「ロープの両端に石を縛り付けただけの物なのですが、これが的に当たると、ロープが巻きつくんです。それで鳥を捕ったり」

「捕る話ばかりだな」

「そうですね。おかしいですね」


 ソランは首を捻った。


「投げ縄をして馬の首に掛けて、引きずられて死ぬところだったこともありますね。牛でもやって、踏み潰されるところでした」


 殿下は噴き出した。


「小さい頃からおまえはおまえだな。今とそれほど変わらない」

「そんなことはないでしょう」

「いいや。幼いおまえが容易に想像できる。まわりの大人たちは、ずいぶん手を焼いたのではないか?」

「その言葉はそのままお返しいたします。それに私はそういったことで叱られた覚えはないです」


 自分のことは棚に上げて、なにを言うのかと、ソランはむきになって反論した。


「ああ、そんな感じだな。アーサーが言っていた。部下は皆、おまえに甘いと」


 それはそのとおりなので、言い返せなかった。


「おまえは伸び伸びと育ったのだな」


 見たこともないほど優しく微笑む。それに心臓が不規則に跳ねる。ソランは息が止まるかと思った。


「よかったな」


 ソランの幸いを殿下も己の幸いとして喜んでくれているのがわかった。

 幸福だと思った。痛いくらいに、泣きたいくらいに。


「ありがとうございます」


 鼻の奥がツンとして、それを隠すためにソランは微笑んでみせてから、そっと俯いた。




 ひとまわり歩いてくると、小屋の暖炉で持ってきたハムやパンを炙り、皆で食べた。ソランは視察の時のように和気藹々とできるかと、断ろうとした護衛たちを引き止めたのだが、妙な感じで気を遣われ、腫れ物に触るような応対をされた。

 女装をしているからというだけでなく、立場が変わったからだと、この時初めて気がついた。丁寧に扱われるが、気安くはしてもらえない。

 『ソラン』の姉だというだけなら、こんな風にはならないだろう。王太子の婚約者候補だからこそ、一線を引かれる。

 思ったより重く面倒な立場だったと、今さらながらに思い知った。もっと簡単に考えていたのだ。嫉妬や陰謀の相手をしていればいいと思っていた。

 それなら話は明快だ。ソランは敵を打ち払えばよいだけである。だが実際は、敵ではない人間の方が多かった。そして、本来ソランはそういう者たちに丁重に扱われる謂れのない人間なのである。

 護衛たちは食事が終わると礼を述べ、外の見張りに残った者たちの食事を持って、小屋を出て行った。


「食休みをしたら、王都へ戻りますか?」

「ああ、すまないが、そうしようと思う」

「いいえ。すっかり気が晴れました。ありがとうございます」


 戻るのかと思うと気がふさいだが、王都を出てくる前とは雲泥の差だった。重くかかっていた暗雲が去り、目の前がぱっと開けた感じだ。きっと帰っても、今度は違う対応ができるだろう。


「いや、礼を言うな。謝らねばならんのは、私だ」


 そう言うと、顔をソランに向けた。


「おまえを閉じ込めていたのは私なのだ」


 言っている意味がわからなかった。ソランは曖昧に首を傾げた。

 殿下は視線を逸らし、明り取りの窓を見上げた。


「昨日、兄上の許へ行って、子供が生まれたら養子に欲しいと頼んだ」


 ソランはますます戸惑った。話の繋がりがぜんぜん見えない。


「そうしたら、しばらくぶりに兄上に叱られた。そういう話は、本人に話を通してからではないかと。きちんと話し合えば、そんな話にはならないのではないかと言われた。本気ならば、二人で頼みにくるのが筋だろうとも」


 殿下は苦笑した。


「一言もなかった。その通りだ。私は引き下がるしかなかった。それでもその時はまだ、準備が整ったら再び頼みにくればよいと思っていた。

今思えば、兄上はそれを見抜かれていたのだろうな。帰り際に忠告された。目的のためには手段を選んでいられないときもある。だが、そんなことばかりをしていると、本当に手に入れたいものを失くすぞと。

私には、その意味がわからなかった。だから、ただ、覚えておきますと返事した」


 上を見上げていて首が疲れたのだろうか、軽く下を向くと息を吐く。


「今朝、おまえが泣いた時に、やっとわかった。兄上が何を言おうとしてらしたのか。自分が何をしていたのか」


 顔を上げ、苦しそうな顔をソランに向けた。


「私は愚かだった。おまえを、逃げられないように追い込んで閉じ込めようとしていた。枷をつけ、檻を築き、それしか選べないようにしようとした。そんなことをすれば、おまえはおまえでなくなってしまうのに」


 ソランは言われていることが、理解できるようでできなかった。もどかしかった。殿下は本当は何を伝えようとしているのか。

 だが、すぐそこまで答えが来ている予感があった。だから、注意深く耳を傾け、瞳に浮かぶものを見落とさないように目を凝らした。


「いや、知っていたのだ。知っていて、見ようとしなかった。私は、どうしても、おまえが欲しかったのだ」


 欲しい? そんなことを言わずとも、ソランの命は殿下のものであるのに。ソランは不思議に思ったが、黙って殿下を見上げた。


「わかっておらんな」


 殿下はどこかが痛んでしかたないという感じに苦笑いした。


「では、こう言えばわかるか? 私は、おまえを妃に欲しいのだ」

「婚約者でなく?」

「そう。伴侶として」


 ソランは頭の中で殿下の言葉を反芻した。伴侶? ということは、妻?

 理解した瞬間、体の奥底から熱い奔流が押し寄せていっぺんに頭の先まで侵し、波打って体の中に逆流していった。


「え?」


 信じられなくて疑問を口にしたいが、頭の中が麻痺して言葉が出てこない。


「真っ赤になったということは、少しは理解したのか」


 面白そうに、殿下は言った。


「か、からかって」

「からかってはおらん」

「でも、私は」

「その姿は幻だと知っている。おまえが好きだと気付くまで、まさか自分が男を好きになるとは思わなかった」


 殿下は、『男であるソラン』が好きだと言っているのか?

 ソランは今度は血の気が引いていった。そんな様子を見てどう思ったのか、殿下は少し眉を顰めた。


「だから、できたら、その姿のまま、私の傍にいて欲しい。そうすればまわりの混乱は最小限で済むからな」

「あ。それで、エルファリア殿下に」

「そうだ。跡継ぎをくれと頼みに行ったのだ」


 男同士では子供が生まれないから。では、殿下は本気なのだ。


「その姿であっても、二度と閉じ込めたりはしない。今、王妃陛下が自由に権限を振るわれ、陛下の片腕であられるように、将来、おまえにも我が助けとなって貰いたい」


 その言葉が、真実、ソランに与えられたものだったら、どれほど嬉しかっただろう。でも、それこそ幻だ。この世には存在しない者に捧げられた言葉なのだ。


「だが、男の姿に戻りたいというのなら、それでもいい。まあ、まわりは騒ぐだろうが、黙らせる」


 それは大騒ぎで反対されるだろう。男を伴侶とする王など、いくら色恋沙汰に関して規範のゆるいウィシュタリアでも前代未聞だ。今度は側妃争いか、後継者争いが起こるだろう。黙らせる、など簡単にできるわけがない。


「心配はいらない。それとも、私がそれくらいのこともできぬ男だとでも?」


 ソランは首を横に振った。たしかに殿下ならやりおおせるにちがいない。どうするのかは、想像もつかなかったが。


「ソラン」


 殿下が身を乗り出し、ソランと目の高さを揃えた。近くで瞳を覗きこまれて、動けなくなる。


「おまえが、好きだ」


 ソランは短く息を吸い込んだ。心臓が体の中で、壊れて跳ね回る。目を瞠り、喘いで唇を小さく開けた。

 その唇に口付けが落とされた。強引ではなかった。唇以外触れ合っていないのだ。逃げるなら、いくらでも逃げられた。でも、ソランは、唇が触れた瞬間、体が痺れて動けなくなっていた。

 甘美としか言いようのない感覚だった。ただしそれは数瞬のことで、すぐに離れていく殿下の唇を、ぼんやりと目で追っていた。


「今の口付けが嫌でなかったなら、私の言ったことを考えてみてくれないか」


 そう言われて、もう少し視線を上げると、まなざしがかちあった。そこに宿る熱さに気付き、全身に震えが走った。ソランは思わず身を竦めた。

 殿下は目を瞬き、熱を消し去ると、優しく微笑んだ。


「頼みついでに、もう一つ頼む。せめて二・三日は考えてみてくれないか。さすがに私でも、いつものように即決即断で断られたら、立ち直るのに時間がかかりそうだからな」


 ソランは声もなく頷いた。


「少し落ち着いたら外に出て来い。私は先に行っている」


 殿下は静かに出て行った。ソランはその場にへたりこんで、熱の引かない頬を両手で挟んで、泣きたい衝動を堪えていた。

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