1 ソランの涙
キエラへの移動に備えて、準備が大急ぎで行われていた。
殿下は相変わらず忙しく、ソランはほとんど朝しか顔を見なかった。局内は護衛業務に十数人が残り、他は全員出払っている。その代わり、館の入り口で赤い制服の近衛が見張りとして立つようになった。
しかし、ソラン自身はゆったりと過ごしていた。朝、食事を済ますと殿下に王妃の許まで送ってもらい、夕方までそちらで淑女修業をして過ごす。
最近はそれに、旅行の用意が追加された。それもソランは何もしない。ソランと王妃の侍女たちと、王妃と、ゲルダ衣裳店のチェイニー婦人が、ソランを着せ替え人形のようにして、あれもこれもと荷物を増やしていく。
その合間に、ソランは隅に追いやられた使い込んだ乗馬用手袋とか、剣の手入れ道具とか、縛りやすい組紐を、愛用の医療鞄に押し込んだ。この鞄の中だけは、他の誰も詮索しないからだった。
美しく贅沢な中に身を置いて、それでもソランは鬱屈していた。皆が楽しそうにしているのに合わせ微笑んでいたが、極端に口数は少なくなっていた。なぜなら、言う言葉が見つからないからだった。ドレスの色が赤でも青でもいい、袖が膨らんでいようがしぼんでいようがかまわない。ソランにはそれらの差異の区別がつかなかった。
夕方は祖父と食事を取り、様々な情報を受け取っていたが、今のところ国内は安定していた。
国の隅から隅まで行こうとすれば、馬で三十日はかかる。近隣の情報ならすぐに入るが、遠くのものはそれだけで何日もかかるのだ。予測された進展以外、特に情報はなかった。
イアルも経過は順調で、キエラには同行できそうだと聞いていた。
夜、寝室で一人になり、一心に素振りをする時間が、最も心落ち着くひとときだった。また、二時間ほどそうやって体を使わないと、頭だけが冴えて眠れなくなっていた。
自分で自分の状態が良くないことはわかっていた。だが、それもキエラに出発するまでである。もう少しの辛抱だ。人手が足りないのは知っている。とても自由にしたいとは言えなかった。
そして毎晩、広々とした領地と雄大なハレイ山脈を思い浮かべて眠りについた。
「今日はこれから、少し外に出る。キエラに行く前に、ソランを領地に送り出す態を装う。あの宿屋に行って、しばらく過ごすぞ」
「はい」
ソランは大人しく頷いた。単純に嬉しかった。久しぶりに王宮から出られる。
それでもどうにも食欲がわかず、七割ほど食べてナイフとフォークを置いた。マリーは物言いたそうにしたが、ソランは小さく首を横に振り、もういらないと示した。
食事を残したソランを見て、殿下は眉間に一本皺を寄せた。ここ数日、どうしても全部食べきれなくなっていた。体を動かさないのだ。当然である。
礼儀作法やダンスの練習で数時間立ちっ放しでも、ソランにとっては物の数ではない。ずっと、もっと激しい運動をしてきたのだ。次期領主として、戦に出ることを前提に体を鍛えてきた。余った体力が少しずつ衰えていく焦りも感じていた。
「この頃、顔色が冴えぬな。何かあったか」
「いいえ」
殿下に伝えるほどのことではなかった。
「だが、健啖家のおまえが残すのは余程のことであろう」
ソランは殿下に微笑んでみせた。
「淑女に相応しい量をいただいております。ご心配なさらず」
殿下はもう一本眉間に皺を刻んだが、それ以上は何も言わなかった。その代わり、先程の話題に戻った。
「このまま行くが、よいか?」
「はい」
「マリー、外出の用意を。今日は少し冷えている」
畏まりましたと踵を返す彼女に、ソランも一声かける。
「医療鞄も忘れないでね」
他の侍女たちが食器類を片付けはじめた。ソランは終始穏やかな表情を保ってそれを見ていた。
ソランは殿下の腕に手を添えて歩いた。後ろには鞄を持ったマリーが付き従い、三人の前後を護衛が囲んでいる。
一旦王宮の敷地に入り、庭園を抜けた。葉の落ちた樹木の下を歩く。枝の間から見える空が懐かしく、ソランは殿下に導かれるまま、ぼんやりと上ばかり見ていた。
正門ではなく、広場に最も近い通用門から出た。用水路に掛けられた瀟洒な橋を渡り、建物と用水路の間の小道を歩く。
足元から冷気があがってくる感じがした。王宮と軍の敷地の行き帰りでは感じられなくなっていた季節の進み具合が、わかった気がした。
建物が途切れ、急に開けた場所が目の前に現れた。朝早くだからだろう。まだ露店を準備している者ばかりで、客足はなかった。ずっと向こうまで石畳の敷かれた広場が見渡せる。
ソランは足を止めた。何かが心を揺さぶっていた。目の前の光景は、広いけれど、狭かった。すべてが人工物に囲まれていた。
違う、と思う。本当に見たいのは、もっと、もっと…。
「どうした!?」
殿下のひどく焦った声がした。ソランは緩慢に殿下に視線を向けた。視界が歪む。自分は泣いているのだと気付く。
「なんでもありません」
ソランは涙を手袋の指先で押さえるようにそっと拭った。ああ、違った。ハンカチを出さなければいけなかったのに。
ポケットを探ってハンカチを取り出そうとするソランの肩を、殿下は、ぐっと握って顔を覗きこんだ。
「おかしいと思っていたのだ。今日だけではない。ここ何日も、ずっと顔色が冴えなかった。何があった?」
「なにもありません」
なにもないのだ。
「そんなわけなかろう。だったら、なぜ泣く」
無性に見たかった。見渡すかぎり緑に覆われた大地を。眼前いっぱいに広がる、山頂に雪を頂いたハレイ山脈を。
思い出したら、涙が止まらなくなった。どうしたらいいのかわからないくらい、ぽろぽろと零れ落ちる。
「殿下、ここでは。宿はすぐそこです。そちらに急ぎましょう」
マリーが進言した。
「そうだな。そうしよう」
肩を抱かれ、少々強引に前へと押された。ソランは促されるまま歩を進めた。
宿屋の二階に連れて行かれ、そこのソファに腰掛けさせられた。殿下も隣に座り、近くで向き合う。護衛やマリーは廊下に出ていた。
「ソラン。なぜ泣いた」
最近耳にすることのなかった名を呼ばれ、ソランは困って殿下を見返した。本当に、なぜ泣いてしまったのか。こうして心配させるだけなのに。
「申し訳ありません。なんでもないのです」
「ソラン!」
強く名を呼ばれた。殿下は心配と焦りの浮かんだ顔をしていた。
「遠慮はいらぬ。王宮で何があった。王妃か、エニシダか、それとも別の名も知らぬ誰かか。誰でもいい。一体何を言われた」
「まさか。皆様、もったいないくらい良くしてくださいます」
「何もなくて、おまえが泣くわけがない。おまえは私が守る。必ずだ。だから」
「本当です。毎日皆様に気遣っていただいております。どうか悪く仰らないでください。それではあまりに皆様に申し訳ありません」
大事にしなければならない方々を疑い、険しい顔をするのを止めたくて、ソランは殿下をさえぎった。
「どうしても言えぬというのか。私を信頼していると言ったあれは、戯言か」
殿下は苛立たしげにした。ソランが答えに窮すると、いきなり立ち上がった。
「ならば、皆を尋問するまでだ。帰るぞ」
「殿下!」
ソランは殿下に縋りついた。
「お止めください。違うのです。皆様ではなくて」
答えに迷う。殿下の苦りきった顔が怖かった。じっと見据えられる。殿下は冗談や脅しを言っているのではなかった。本気で尋問するつもりだ。
ソランはバクバクする心臓に眩暈さえ感じながら、必死に言い募った。
「そうではなくて、私はただ、広い場所が見たくて」
殿下の顔がさらに顰められた。心が縮みあがる。人を相手にしてこんなに心細い気持ちになるのは、どのくらいぶりだろう。祖父に最後に叱られたのはいつだったか。頭の隅で、現実逃避気味にそんなことを考えた。
「広い場所?」
不機嫌に聞き返される。詳しく話せと言外に言われ、ソランはつっかえつっかえ説明する。
「我が領地のような、見渡す限り草原と林しかないような所です。遮るものはハレイ山脈しかない場所です」
「領地に帰りたいのか」
唸るような声だった。ソランは必死に否定した。
「違います。決してそうではなくて、……そうではなくて、あそこは狭くて、だから、……申し訳ありません」
ソランは謝った。そんな我儘を言っている時ではない。
「謝罪などいらん。だから、なんだ。はっきり言え。それとも私はそれほど聞く耳を持たぬと思っているのか」
どうしてこんなに怒らせてしまうのだろう。別の意味でソランは泣きたくなった。
殿下は眼光鋭く、容赦なく攻め立ててくる。まごまごしているのも気に入らないのだろう。ソランは目を瞑り、一気に言い放った。
「狭くて、息がつまるのです」
一言を言ったら、別の言葉も飛び出してくる。
「あそこでは、私はなにもすることがないのです。いったい自分は何をしているのかと、いたたまれなくなるのです」
「おまえは」
上から、ひび割れた声が降ってきた。ソランは目を瞑ったまま、次を待った。
待って、待って、目を瞑っている方がよけいに怖くなって、目を開け、唇を引き結んで殿下を見上げた。
殿下は、眉間に皺を刻み、ソランを見下ろしていた。表情は険しいままだった。視線が合うと逸らせなくなってしまった。大型の野生の獣に遭ったら、目を逸らしてはいけないのと同じだ。弱気を見せれば喰いつかれる。この場合、もっと怒りを誘ってしまいそうだった。
殿下の眉間の皺がわずかに深くなった。
「すまなかった」
そう言うと、床に膝をつき、下からソランと目線を合わせるようにした。それで気付いた。険しい表情なのは怒っているからではないと。むしろ、後悔とか心配とかそういう類のものらしいと。
「私はおまえに、我慢を強いていたのだな」
「いいえ、私が勝手に」
「いいや、私がおまえを閉じ込めていたのだ」
殿下の瞳が苦痛に彩られる。ソランはそれを不思議に思って眺めた。
「私は、おまえが」
言いかけて、不自然に口を噤む。そうして確かめるようにソランを見ていたが、やがて自嘲めいたものを浮かべ、首を横に振った。
「とにかく、すまなかった。これから埋め合わせをしたいが、よいか?」
「埋め合わせですか?」
忙しいのは知っている。本当は断らなければいけないだろう。だが、どうしても期待を持って聞き返さずにはいられなかった。
「ああ。遠乗りをしよう」
思わずソランは微笑んでしまった。馬に乗り、耳元をよぎる風の音を聞きたい。殿下も応えて表情を和らげた。
「決まりだな。よし、そうと決まれば、エメット婦人に食べ物を無心してみよう」
ソランの手を取って立ち上がる。それでやっと、ソランはここ何日も感じられなかった、生きた心地がしたのだった。