閑話 記憶の欠片
あれは春だっただろうか。それとも初夏だっただろうか。もしかしたら秋だったのかもしれない。
ディーは思い出した光景をもっとよく思い出そうと、私室の天井を見るともなしに見上げた。
光の眩しい季節だった。草いきれがすごかった。だが、暑くてたまらないというほどではなかった。
その時ディーは、人殺しに飽き飽きして、抜けると言ったら制裁を加えようとした盗賊仲間を返り討ちにし、山を下りてきたところだった。
途中で会った商隊を襲い、逃げた者は追わなかったが、歯向かった者は全員殺した。別に殺しを楽しみたかったわけではない。そんなものにはうんざりだった。ただ、血に汚れていない新しい服と、当面の軍資金が欲しかっただけだ。
生まれてしばらくは両親に可愛がられたが、口が利けるようになると気味悪がられ、どこかの神殿にお参りにきたついでに、街で捨てられた。
繰り返す生の中で、そんなのは当たり前だった。何度もそんな目にあってきた。その時が近づくと、だいたい分かった。妙に優しくなったり、感傷的になったり。そうでなければ、無関心の度合いが酷くなった。
そうして生き延びられずに命を落としたことも何度もあった。山に捨てられれば獣に食われた。冬に捨てられれば凍死した。それでも、可愛がってくれていた人たちが彼を恐れ、忌み嫌う目を見るくらいなら、その方がましだった。そう思って自ら家を出たこともあった。
今回はまだましだった。神殿領では子供に慈悲が与えられることが多い。神殿もだが、街でも、参拝客も功徳を施そうとする。そうしてディーは生き延びた。
ある程度大きくなってしまえば、大人の中に紛れてしまうことは難しくなかった。
今生は幸いなことに、今までになく強靭な体に生まれついていた。暴力を振るえば、必要な物は簡単に手に入った。殺すことに躊躇いはなかった。どうせ、こいつらもいつか生まれ変わってくる。死ぬことにもそれほどこだわりはなかった。死は生の始まりでしかない。
世界も彼も移ろう物でしかなかった。季節が移るように彼も移る。彷徨う風のように、繰り返し打ち寄せる波のように、芽吹いては葉を落とす草花のように、体に宿り、その体もすぐに土に返り、生まれては死ぬ。
どうしようもなく飽いていた。だが、抜け出すことはできなかった。死んでも死んでも、己を殺してもすぐに新しい生が始まる。
一時でも刺激が欲しくて、ありとあらゆる命を殺して殺して殺しまくったこともある。女や男に溺れたこともあった。そういったことに興味のなくなった今でも体は反応する。束の間の快楽だ。だが、心は反応しなくなっていた。
そこは知らない土地だった。盗賊をしていた近隣ではあまりに顔が知れすぎてしまっていたから、煩わしいことを避けるために、来たことのない場所へやってきた。
水辺にある木陰で休もうと近づくと、そこには先客がいた。知っていたら避けたが、気付かなかった。おかげでうっかり踏むところだった。
ぼうぼうと茂った草の中、少年が仰向けに寝転んでいた。目を閉じている。仕立ての良い服はまだきれいだった。腰には不似合いな大きな剣を佩いていた。どうやら物取りに襲われて放置された腐乱寸前の死体ではなさそうだった。
少年がぱちりと目を開けた。しげしげと見ているが起き上がるつもりはないらしかった。静かな若葉色の瞳に魅入られる。
「こんにちは」
やがてその子は挨拶を口にした。ディーも鸚鵡返しに言った。
「こんにちは」
その子は微かに笑うと、再び目を閉じてしまった。ディーは近くの川に下り、馬に水を飲ませ、自身も顔を洗った。水は皮袋の中の物を飲んだ。湧き水を汲んだものだ。こちらの方が安全だった。
近くで馬に草を食ませ、その間に木陰で休もうと戻ってきても、その子はまだ寝ていた。体の上にも髪の間にも虫が這っていた。ズボンの上には鳥の糞が落ちていた。
ふと興味がわき、尋ねてみた。
「腹が減って動けないのか」
その子は目を開け、ディーを見た。
「いいえ、大丈夫」
きれいな言葉遣いだった。子供のうちからこんな服を着せられ、剣を佩かされるのだ。領主の息子かなんかだろう。それにしては従者の一人も、馬の一頭も近くにいない。
「追われているのか」
「いいえ」
「では、捨てられたのか」
「いいえ」
ディーは少し失望した。捨てられたのではないのか。そう感じている自分に気付いて苛つき、舌打ちをした。
すると少年はごろりと寝返りを打ち、うつ伏せになって頭だけ上げ、しっかりとディーの方へと顔を向けた。
「お気遣いありがとうございます」
柔らかそうな木肌色の髪は草屑だらけだった。それでもかまう様子はない。
「何をしているんだ」
「一つになりたくて」
そう言って頬を地面に付ける。
そのままじっとしているから、わけの分からないことを言ってはぐらかされたのかと、苦々しく思っていたら、
「おじさんは笑わないんだね」
少し顔を上げて、その子は言った。
「笑う? 怒る、だろう?」
「え? 怒ったの?」
びっくりしたように目を見開いた。
「いや、まだ怒ってないが」
「よかった。でも、怒る人も多いよ」
少年は不貞腐れた顔をした。
「くだらない、わけのわからないことを言うなって。絶対くだらなくなんかないのに」
ごろん、と体を転がし、始めと同じく仰向けとなる。両手を空に伸ばす。
「ほら見て。空の底に降りていけそうだよ」
少年の声が心を撫で上げ、ディーは無意識に上を向いた。枝の向こうは雲一つない晴れ空だった。澄んだ深い青が頭上を覆っている。
少年は手を下ろし、木漏れ日の下にさし入れた。
「葉っぱが日に透けてきれいだと思わない? 風に木も光も影も踊ってる」
指し示されるままに視線を移す。動いて別の場所に行ったわけではないのに、なぜか、見たこともない美しい世界が広がっていた。
「水の音も風の音も鳥の声も虫の声も小父さんの息遣いも」
自分が何の隔たりもなく世界の中に組み込まれていることに、心臓がぎゅっと縮んだ。痛みに顔を顰めた。
「近いのに遠くて、淋しくなる。僕の心臓の音も、混じってしまえればいいのに」
少年は黙り込んだ。ディーにはかけるべき言葉が見つからなかった。ただ、少年を目を凝らして見守った。
やがて、不自然に鼻をすすり上げているのに気づいた。
「なぜ泣く」
「淋しいから」
「混じってしまえなくてか」
「わからない。探しているものが見つからない気がして」
ディーにも淋しいという気持ちが降りてきて取り付いていた。この子の言うことがわかる気がした。
「俺でよければいてやろうか」
言ってから後悔した。何を馬鹿なことを言っているのか。俺などいらないだろうに。
なのに。
「本当?」
その子は体を起こした。
「本当にいてくれる?」
「……おまえの親が良いと言えばだが」
「言わせるよ。僕、ちょうど迷子だし。城に連れて帰ってくれればいい」
城、ねえ。とんでもないお坊ちゃんだったようだ。
「ねえ、冗談だったの?」
「いいや。本気さ」
少年は満面の笑みで笑った。ディーも笑った。それは、数百年ぶりの心からの笑顔だった。
今では交わした言葉も、少年の面影もあやふやになってしまった。遠い時の彼方の出来事。
それでも、幾万の夜を越えても彼の心に宿り続ける光。