6 たとえこの国を壊すことになっても
「今日も王妃陛下のところか?」
朝食の最中に殿下が聞いた。ソランの私室の居間にあるこじんまりとしたテーブルに、二人は向かいあって座っていた。
「はい」
あれから王妃には毎日呼ばれて、ドレスの採寸から宝飾品の発注までしてもらっていた。それが済んでからは、有耶無耶のうちになんとかしていた、立ち居振る舞いの本格的なレッスンが始まった。
殿下がおかしそうに唇を歪めた。
「元気がないが?」
「気のせいでございましょう」
つん、として食事を続ける。その拗ね方すら指導を受けているので、なんとも色っぽく可愛らしいものだった。
実は気のせいどころではなかった。幼い頃から徹底的に仕込まれてきた動きを変えようというのである。運動神経には自信のあったソランも、今回ばかりは打ちひしがれる日々が続いていた。
同じ単純動作を何百回とやらされるのである。精神的な苦痛は計り知れないものがある。馬に乗って王都を飛び出し、ハレイ山脈に向かって、指導教官の名前を罵倒つきで叫びたかった。
「確実に成果は出ているぞ」
殿下は複雑そうな表情となって言った。
「おまえがそれをできるようになるということは、世の男はどれほど女性に騙されているのか、そら恐ろしいものがあるな」
「男性とて同じでしょう。あの手この手で女性の気を引こうとするのですから。問題は真心があるかないかです」
「まあ、たしかにな」
先に食事を終えた殿下は、背もたれに寄りかかり、行儀悪く肘掛に頬杖をついた。
「それももう少しの辛抱だ。こちらが一段落ついたら、私の領地へ行くぞ」
「キエラですか?」
「ああ。南西部の海岸沿いだから、ここよりだいぶ暖かい。海は見たことがあるか?」
「いいえ」
「塩田や真珠の養殖場も興味があろう?」
「はい。ぜひ見てみたいです」
「それに、酢に真珠を溶かすのだったか。実地調査もできよう」
ソランは好奇心いっぱいに瞳を輝かせた。
「では、楽しみにしていろ」
そう言った殿下も楽しげだった。
「ですが、王妃陛下が進められている件で、国内がきな臭くなっております。こちらを離れて大丈夫なのですか?」
王妃から進行状況は逐一聞かされていたし、祖父も時間が取れるかぎり来ては報告してくれる。ソランは狭い範囲で生活しながらも、世間から隔絶されてはいなかった。
「それのフォローを兼ねている。詳しくは時間が取れしだい、まとめて話す」
「はい。私にも、もっとお手伝いできることがあればよいのですが」
殿下は毎日夜遅くまで仕事をしている。さほど疲れた様子は見えないが、心配だった。
「おまえに表立って動いてもらうわけにもゆくまい。おとなしく花嫁修業をしていろ。それとも、逃げ出したいか?」
逃げ出したいに決まっている。剣の稽古の方がどれくらい楽しいことか。
ソランは殿下を一睨みして食事に戻った。小口で上品に食べる上に、ゆっくりと時間をかけるように訓練している最中である。戦場でも間に合うようにと早食いに慣れていたソランにとっては、食事すら拷問に等しくなっていた。
扉がノックされた。マリーが応対に出る。ディーが、急ぎ殿下にお出でいただきたいと呼びに来ていた。
「食事の最中なのにすまんな」
殿下は席を立った。ソランもフォークを置き、立ち上がった。殿下が歩み寄って来る。そして少し屈んで耳元で囁いた。
「今宵は時間ができるかもしれん。行ってもよいか?」
しっ、と、ご自分の口元に一本指を当てたので、ソランはただ頷いてみせた。寝室を行き来するのは、他の者には内緒にしておきたいのだろう。確かに、ディーあたりが耳にしたら、からかいそうだ。そしてマリーに知れたら、侍女の夜番を寝室内に置くと言いだすにちがいない。
殿下は笑みを浮かべた。
「では、頑張れよ」
すっとソランの頬を一撫でし、踵を返した。
鼓動が速い。殿下に微笑みかけられるだけで心が弾むのに、近くで囁きかけられ、触れられれば、眩暈がするほどだ。しかし、全て隠してソランは頭を下げた。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
殿下は一度振り返り、微笑んで頷くと、部屋を出て行った。
本日のレッスンの予定はすべて流れた。ミアーハとリリアの両名に用事ができたということで、護衛業務ができないからだった。
かと言って外出することもできなかった。最近少なくなった局内の人間では護衛を賄いきれず、ソランは部屋に閉じ込められることになった。
恐らく、ジェームズ・ヒルデブラントが見つかったか、毒殺事件の主謀者の領地が謀反を起こしたか、そのあたりだろうと思われた。どちらにしても事態は大きく動くだろう。
しかし、何の力も持たない『小娘』にすぎないソランには、さしあたってすることがない。
仕方ないので、マリー以下侍女四名を一番家具の少ない寝室に呼び、もっぱら武術の鍛錬をして一日を過ごした。
そして夜。ソランは早めに寝室に引き上げた。隣室では侍女が寝ずの番をしているだろうが、大きな音さえ立てなければ大丈夫だ。祖父がこっそりとさし入れてくれた酒を用意して、暖炉に小さな火を熾し、部屋を暖めた。この頃は夜が更けると冷えてくるようになっていた。
ソランがこの部屋で過ごすようになってから増やした幾つものクッションに寄りかかり、火が揺れるのを見る。待ちくたびれてぼんやりとしているうちに、昼間の心地よい疲労が襲ってきて、彼女はうつらうつらと眠ってしまった。
人の気配に目が覚めた。一気に覚醒して、抱えて寝ていた剣を確認しながら、気配に神経を注ぐ。薄っすらと瞼を開け、目に入った酒瓶と暖炉の火に、自分がうたた寝してしてしまったことを知った。
ソランは警戒を解き、起き上がった。声を掛ける。
「殿下?」
「遅くなった」
火の明かりで浮かび上がった殿下は、まるで闇を従えているかのようだった。
「お疲れ様でございます」
「ああ。長い一日だった」
ソランの隣に座り、深い息をつく。風呂を浴びてきたばかりなのだろう。濡れた髪が重たく光っていた。
ソランは二つの杯に酒を注いだ。片方を手渡す。殿下はそれを一息に半分ほど飲んだ。ソランも口を付けた。祖父が寝酒には最高だと言ってくれたそれは、爽やかな飲み口だが、少々度がきついものだった。もう一度杯を呷って殿下が空にしたそれに、ソランは酒を継ぎ足した。殿下はずっと踊る火を見ていた。
「ジェームズ・ヒルデブラントが見つかった。逃れられぬと知って、自ら命を絶った」
「そうでしたか」
「奴の部下たちも皆死んだ。これを期に、別の動きがないかウィシュクレア内で内部調査させているが、取り敢えずは、終わりだ」
「はい」
「ケインにも、会ってきた」
続けて同じ調子で語られた内容に、ソランは思考が凍りついて、とっさに言葉が出てこなかった。
「よかったら、部屋にあるあれの研究道具は、おまえに貰って欲しいと言っていた」
「……はい」
その言葉の意味することは、すぐにわかった。
「明日にでも、整理してくれ」
「畏まりました」
そう承りながら、ソランは後悔していた。自分があんなことを言い出さなければ、少なくとも殿下は自分でケインに毒を届けになど行かなかっただろう。ウィシュミシアに運ばれ、そこで死ぬまで生かされるはずだったのだから。
間違っていたとは思わない。それでも、胸が痛まないわけがない。
表には決して出そうとしない殿下の横顔を、ソランは凝視した。その視線が気になったのか、殿下はようやく、ソランへと視線を向けた。
「なんて顔をしている」
ふっと笑われた。
「いや、当たり前か。おまえはずいぶんと懐いていたからな」
ケインのことに心を痛めてはいたが、本当に辛く思うのは、殿下が感じているだろう痛みだ。しかし、それを伝えるのは憚られた。たぶん、今、思い遣られるのは、鬱陶しく感じるに違いない。
それでもソランは、ひたすら殿下の心に寄り添いたかった。黙って心の中に溜めこんでしまうそれを分かち合って、少しでも軽くしてあげたかった。
心を澄まして己の中を殿下の気配で満たす。収穫祭で世界を取り入れ、歌を歌う時のように。すると、浮かぶ言葉があった。
「殿下にとっても、信頼に足る、良い部下であったでしょう?」
言ってから、なんて無神経な言葉だろうと思った。わざと傷を抉る言葉だと。だが、真実を語っている。
殿下はゆっくりと杯を呷り、床に置いた。そこに刻まれた模様を指でなぞりながら答える。
「ああ。そうだな。いつも信頼以上の働きをしてくれた」
ケインは寝食を忘れるほど仕事に打ち込んだ。力の限り、殿下に仕えていた。時には命すら懸けて。
「まったく」
殿下は杯を上から握りこむようにした。その拳に力が入り、腕が震える。
「馬鹿者がっ」
そうして長い間、暖炉に踊る火を睨みつけていた。やがて、天井を振り仰ぎ、息をついた。続けて小さな声が零される。
「知っていたのにな。救ってやれなかった」
殿下は、向けられる憎しみがどこからきているのか、勘付いていたのだ。
そしてもう一度深い息をつき、杯を床に置き去ったまま、ソランに向き直った。ソランも杯から手を離し、耳をそばだてる。
「私たちに呪いを解く力は、本当にあるのだろうか」
「わかりません。ないのかもしれません」
ケインもエルファリア殿下も、何度も宝剣の主を王位に就け、その願いを叶えようとしてきたと言った。それでも、未だ呪いは解けない。
「ですが、きっとそれは、二の次の事なのだと思います」
「二の次?」
問い返され、わかりにくかったかと、他の言葉を探す。
「ついで、と言いますか、おまけ、と言いますか」
殿下は呆れた顔になって何か言おうとし、途中で止めると、溜息とともに苦笑した。
「それで?」
「それで、良いかと」
ソランはうまく表現できず、尻切れ蜻蛉に口を噤んだ。
「呪いは解けずともよいと?」
「それはよくはないでしょうが、どうすればよいのか見当もつきませんし、知っている者がいれば、とっくに試してみているでしょう。つまり、そんなことで悩むだけ無駄ではないかと。したいことをしろと言うのですから、まずは何事もやってみればよいかと思いますが」
「この国を壊すことになってもか?」
軽い口調であったにも関わらず、それを言った殿下は、エニュー砦で、守らねばと口にした時と同じく冒しがたい威厳をまとい、為政者の目でソランを見返していた。
「必要とあらば」
ソランは心が浮き立ち、心のままに微笑んだ。殿下は驚いた顔をし、それが過ぎると、楽しげな笑みを浮かべた。手を伸ばしてくる。それに応えてソランも伸ばすと、指を絡め、手を繋いだ。
掌から全身に熱がまわる。居たたまれない心持ちがするのに、殿下から目を逸らせなかった。
「おまえとなら、落ちるところまで落ちるのも、楽しかろう。いいや。そうだな、目も眩むような高みを目指すのも悪くない」
殿下の中に決意が垣間見えた。
「はい。お傍に置いてくださいませ」
ソランは思わず、全身を焦がす望みを懇願していた。すると殿下に繋いだ手を強く引かれ、バランスを崩して胸元に寄りかかる形になった。繋いでいないもう片方の腕がソランの背にまわされ、引き寄せられる。耳元に殿下の息がかかり、体が震えた。
「ああ。離すものか」
殿下の腕にいっそう力が入り、ソランは痛いくらいに抱きしめられた。