5 女性の武器
数日は何事もなく過ぎていった。殿下は忙しそうで、ソランは朝の診察がてら起こしにいき、その後、朝食を共にするくらいしか顔を見ることはなかった。
だが、暇を持て余したかというとそうでもなく、その間に、将軍から娘のミアーハ嬢を紹介され、エルファリア殿下に目通りを果たした。殿下の婚約者候補『イリス』の『人脈』を演出するためだ。
今日もこれから、王妃のお茶会に招かれている。王妃から、重要人物とばかりに、ミアーハ嬢と聖騎士である母リリアが迎えに寄こされていた。
もちろんそれ以外に、常に殿下によって護衛が三人も付けられている。まるで厳戒態勢だ。ソランは少々、げんなりしていた。
『二度目の対面』になるミアーハは、仲の良い乙女同士がするように、ソランの腕に自分の腕を絡め、楽しげに話しかけてきた。
「大事にされていらっしゃること」
否定も出来ず、ただ笑ってみせる。すると、絡められた腕をぐいっと引かれ、『初対面』となる母リリアに向き合わされた。
「ご紹介いたします。聖騎士のリリア・コランティア殿です。王宮内では、彼女か私のどちらかが護衛につくことになりました。王妃様の御計らいです」
「ありがとうございます。お二方の手を煩わせますこと、誠に心苦しく思います」
堅苦しく挨拶をしたソランに、二人とも噴き出したいのを堪えた顔をする。リリアは誤魔化すように咳払いをした。
「どうぞお気になさいますな」
と言って、満面の笑顔で声を出さずに肩で笑っている。それっきり言葉も出せず、肩を震わせ続けるリリアを見かねて、ミアーハはリリアにも腕を絡め、引っ張った。
「近いうちに私たち姉妹になるのですもの。遠慮はいりませんわ。それに、リリア殿はとても頼りになる方ですのよ。どうか、私たちを頼りになさって」
「ありがとうございます。知らないことばかりで、大変心細く思っておりました。とても嬉しゅうございます」
三人が寄り添い談笑する姿は、欠片の違和感もなかった。まわりに居合わせた男たちは、微笑ましさに心を和ませた。
「では、参りましょうか」
やっと笑いを収めたリリアが、年長者らしく促した。ソランは引き攣りそうになる笑顔を美しく保つのに苦心しつつ、彼女たちに従った。
王妃の居間だというそこは、光にあふれた部屋だった。たくさんの緑系のガラス窓が設けられ、二階であるのに張り出したバルコニーの向こうは背の高い木の梢が見えていた。今は葉が落ちてしまっていたが、春から秋にかけてはさぞ爽やかな光景になるだろうと思われた。壁紙や意匠も植物を模してあり、庭園を散策するような楽しさがあった。
ソランは部屋に招き入れられると、まず低く腰を落とし、頭を下げて礼の姿勢をとった。声が掛かるのを待つ。
「イリス殿、堅苦しいのはなしにしましょう。今日は私的なお茶会です。さあ、こちらにいらっしゃい」
「本日はお招きくださり、誠にありがとうございます」
そう申し上げてから顔を上げ、姿勢を正した。王妃は目を見開き、まあ、と呟いた。そして、つかつかと近付いてきてソランのまわりを一周回って観察すると、感嘆の叫び声を上げた。
「まああああっ。想像以上ですわ。ああ、悔しいこと! 私が王国一の美女にしてさし上げると言ったのに、どうして他の者に任せたのです?」
「お褒めにあずかり光栄です」
他にどう答えたらよいのかわからず、ソランは少しちぐはぐな言葉を返した。
「約束なさいな。婚約発表の折には、私にすべて任せると。あ、その前に舞踏会や宴があるかもしれないわね。全部私が采配します」
前で揃えた手を、両手でがっしりと掴まれる。
「よろしいわね?」
ソランは背筋に悪寒がはしった。なぜか、急斜面を下るウサギを思い出していた。ウサギは上りには強いが、その分下りに弱い。子供の時分には、皆で協力して丘の上から下に向かって追い散らし、ウサギ狩りをしたものだった。ウサギの肉で作られたスープはひじょうに美味しい。その味を思い出し、ごくりと唾を嚥下した。
体の強張りが王妃にも伝わってしまったのだろう、笑みが深められた。
「もちろん、断ったりなさらないわよね?」
「……殿下がお許しくだされば」
ソランは逃げ口上を口にしたが、おほほほほと、王妃は勝ち誇った笑い声をたてた。
「あの朴念仁が采配をふるえるわけがありませんわ。私に泣きつくしかありませんもの。ああ、楽しみですわ!」
この時、どうも女性に弱いのは部下だけでなく、一番の上司である殿下以下局全体だったのかと、ようやく悟ったのだった。
「ロディ様、座りませんか」
リリアが王妃を呼んだ。
「そうでしたね。こちらへどうぞ」
王妃はそのまま自らソランの手を引き、席についた。
侍女がお茶を淹れてくれる間、三対の視線がソランに遠慮なく向けられているのを感じて、俯いたまま顔を上げることができなかった。
侍女が部屋から下がると同時に、王妃が待ちかねたように尋ねた。
「それで、プロポーズの言葉はなんでしたの?」
目を輝かせて答えを待ち望んでいるのがよくわかったが、ソランは意外な言葉に顔を引き攣らせた。
「いいえ、まさか」
王妃は顔を曇らせた。
「まさかって、それこそまさかですよ。プロポーズすらできないのですか、あの子は!」
「なにを仰ってるんですか。私の身の安全と、お妃問題で騒ぎが起きないようにとの配慮で、婚約者のふりをするだけでございます。それに、まだ男だと信じていらっしゃいますし」
「ええ!?」
王妃とミアーハが同時に驚きの声を上げた。リリアははしたなく噴きだし、慌てて両手で口を押さえた。それでも抑えきれずテーブルに突っ伏し、体を震わせている。王妃とミアーハは呆然とした目をそんな母に向け、やがてつられたように大笑いをはじめた。
「おほほほほ。これほどおかしいことが今まであったでしょうか! それで、あんな念を押していたのですね!」
「妙だとは思ったのです。だから報酬なのですね」
「まさか、ここまで鈍いとは!」
王妃、ミアーハ、リリアの順に感想を漏らし、頷きあってさらに笑う。淑女にあるまじき大口であった。
「どういたしましょう、王妃様。殿下に真実を教えてさし上げた方がよいのでしょうか」
「まさか! これほどの見ものに水を差すなんて、許しませんよ」
「では、夫たちには黙っていないと」
そう言って果てることのない笑い声を上げるご婦人方に、ソランは懇願した。
「どうか殿下には仰らないでください。でないと、律儀に本当に結婚すると言いだされるに決まっています」
「あら、なにがいけないんですの?」
ミアーハが尋ねてくる。
「殿下は情の深い方でいらっしゃいます。身内に引き入れた者を見捨てることはありませんでしょう。宝剣の主には制約が付くので、私も安易には結婚できないようですし、だったら自分が責任を取ろうと仰るにちがいありません」
「けっこうではありませんか。ロマンティックではありませんけどね」
王妃も口を挿む。
「殿下は義務で己を雁字搦めになさいます。よりによってその相手が私では、あまりに申し訳ないです」
「馬鹿なことを仰い。さっきからどうも気になっていたのですが、あなたは自己評価が低すぎます」
王妃はソランをぴしゃりと遣りこめた。
「顔をお上げなさい。もっとです。高慢に見えるように。そう。それでいいのです」
王妃の言葉通りにしたソランに微笑みかける。ソランは、祖父にもよくこうやって表情や姿勢を正されたと思い出す。
「淑女とは言ってみれば『ハッタリ』です。それらしく振舞えば、それらしく扱われるのです。
あなたはこれから、たくさんの人の目にさらされるのですよ。見渡す限りの人波の前に立つこともあります。そのすべてが、あなたの一挙手一投足を追うのです。あなたの粗を探し、付け入ろうとする者もいましょう。
そんな自信のないことでは、これからやってゆけませんよ」
物腰は柔らかかったが、内容は容赦のないものだった。ソランは血の気が引く思いだった。
「だから、私があなたに武器をさし上げます」
王妃は立ち上がり、ソランの手を取り、隣室へと導いた。開かれた扉の向こうは衣裳室だった。ミアーハとリリアもやってきた。大きな姿見の前に立たされる。歪みのない素晴らしい鏡だった。どれほど高価なものなのだろうか。
「よくごらんなさい。あなたは、本当に美しいのよ」
その中で、四人の美しい女性がこちらを見返していた。年上の三人は微笑み、中心に立たされた一際背の高い黒髪の娘だけが、不安げに目を瞠っていた。その不安げな様さえ儚げで美しかった。
「誰もあなたが美しいとは教えなかったの?」
「いいえ、誰もが口々に褒めてくれました。でも、マリー、あ、いえ、私の侍女たちがこれほどの腕前とは思っておりませんでした。化粧とは素晴らしいものですね」
すっかり感心している様子のソランに、三人が苦笑を漏らす。
「あなたは男装の時も美しかったですよ。何をしていなくても、そこにいるだけであたりを薙ぎ払う美しさがありました。今もそうです。そうしているだけで人目を惹き、魅入らせます。あなたはそれほど魅力的なのですよ」
ソランは小首を傾げ、鏡の中で王妃と目を合わせた。王妃は優しく笑みながら頷いた。
「これがあなたの武器です。それを私がさらに磨き上げてさし上げます。小うるさい淑女たちが嫉妬もできぬほどの、そして愚かな男たちがこぞって足元に平伏すような、女神にしてみせますわ」
女神という言葉に心臓が跳ねた。そう言った一瞬に、王妃の目に真っ暗い深淵を見た気がしたからだ。それの意味するものも分からないのに、突然、不吉な何かが脳裏ではっきりとした形を取ろうとする。ソランはそれに慄き、震えた。
「二度と同じことは起こさせません。これが私の謝罪ですわ。信じてくださるかしら?」
王妃の声に、不吉な予兆は形を取る前に霧散した。ソランは我に返って王妃を見つめた。鏡の中の王妃ではなく、振り向き、隣にいるその方を。
「はい。もとより疑ってなどおりません」
ソランの裏心のない返事に、王妃は言葉を失くしたようだった。表情も失くす。そこに、今度こそ気のせいではなく、暗い感情を見た。ケインの中に見たものとよく似たモノ。
ああ、この方も不死人なのだ。
けれど、それも数瞬。王妃はすぐに微笑んだ。
「その清冽さは稀有ですわね。まぶしくて目が眩みます」
ソランは目を伏せ、今の言葉を褒め言葉として受け取り、浅く膝を折り、礼をした。
「イリス、いえ、ソラン殿」
王妃は名前を呼び変えた。
「あなた自身はどう思ってらっしゃるの?」
何を指しているのかわからず、ソランは王妃を見返した。
「アティスの妃になるのはお嫌なのかしら」
「いいえ」
とっさに答え、その意味することに後から気づき、赤面する。
「まさか、もったいのうございます」
「では、あの子が他の女性を娶ってもよいと?」
息が苦しくなる。いつも、そうだ。胸が重く塞がれ、泣きたくなる。
どうしてそんな気持ちになるか、本当は知っていた。知っていて、気付きたくなかった。
そして、だからこそ、義務や同情でなど縛りつけたくなかった。それだけは嫌だった。
「殿下のお選びになる方に、否やなどあろうはずもございません」
取り澄ました様子で返された答えを、王妃は目を細めて吟味していたが、
「では、その言葉を忘れてはなりませんよ。あの子の選んだ者を、あなたも認めると誓いなさい」
是以外受け付けぬ厳しさで言った。
「承知いたしました。お誓い申し上げます」
ソランは祖父に教え込まれた笑みを浮かべ、優雅に礼をしながら、誓いを口にした。