5 少し寂しい
調合室にはギルバートが言ったように、イアルがいた。
マリーに求婚して受け入れてもらった彼は、さっそく王都にいる彼女の両親の元に、結婚の申し込みに行ったのだった。……三日前に。
「早かったな」
「ん? ああ、報告に行っただけだし」
事も無げに言っているが、最短で四日かかる旅程である。
「無茶をする」
ソランはしかめ面で薬棚の前に立った。
脇の小卓に持参した籠を置き、ごちゃごちゃとのっかっている中からカップを取ると、薬棚に置いてある小壷をいくつか選んで、中身をパラパラとカップの中に入れていく。次に籠の中に手を突っ込んで、温めてきたばかりの熱いワインを注いだ。少し考えて蜂蜜も一匙入れてやる。
それを嫌そうな顔をして見ていた、イアルの手元につきつけた。
「味は改良した。飲め」
滋養強壮効果のあるそれは、ひどく苦いものだった。それをワインと蜂蜜でごまかしてある。
「改良したって言ったって、それ、あれだろ……」
胡乱な物を見るまなざしをソランに向け、それからしかたなさそうに溜息をつく。
「残念なくらい大雑把だからなあ、おまえの味覚」
「ごちゃごちゃうるさい。私の味覚はエイダ小母さんのお墨付きだ」
「はいはい」
一気にカップの中身をあおり、手の甲で口元を拭った。
「なんでワインを沸騰させるんだよ!」
「生だと酔うだろう。寝られたら馬車馬のようにこき使えないじゃないか」
「ほんっとうに、相変わらず容赦ないな、おい」
イアルは容赦対象ではない。年上の若い男で、ソランより強いのだから。
それに次期領主はソランだとしても、祖父が国王陛下から請け負っている仕事は、いずれイアルが継ぐことになるはずだと、ソランは推測していた。実際、それらの仕事について、ソランは知らされていない。むしろ現状は遠ざけられている。
年長者たちの判断に口を挿むつもりはなかったが、ただ、そう判断する材料に、自分の能力不足があるとすれば、いたたまれなかった。
ただし、そんな葛藤もソランの心の中だけに納めておくべき話。自分を卑下しても、誰かを羨ましがっても益はない。必要なのは、するべきなのは、己のできることをせいいっぱいすること。次期領主としては期待されているのだ。その期待に応えられるよう、努力すればよい。
それが分かっているから、ソランにわだかまりはなかった。
それに、ソランにとってイアルは大好きな兄である。離れて暮らす実の親や兄弟より、よほど気心が知れている。幼い頃はギルバート一家の下で育てられたこともあり、ソランが忌憚なく軽口をたたける、数少ない人間の一人だった。
ソランは、イアルの前にあるどっしりとしたテーブルに、擂り皿と擂り石を用意した。それから、吊るしてある薬草の束をいくらかずつ外しては、横に並べていった。
「これ全部頼んだ。私は調合するから」
「了解」
二人は黙々と作業を始めた。
カルテと祖母の遺した調合ノートをつきあわせて、必要日数分を計算する。それから計量し、混ぜ合わせ、小さな壷に詰めていく。気の遠くなるような細かい仕事だ。
昨夜の夜なべ仕事で作りためておいた粉末が足りなくなり、立ちあがった。該当の薬草を持ってきて、イアルがゴリゴリと薬草を擂り潰している横に、他のを避けて置いた。
「次、これ先に」
「ちょっと待った。休憩させろ」
そう言ったかと思うと椅子の背によりかかり、腕も頭も思い切り後ろへ伸ばしている。それを見て、目の奥が痛むのに気づき、ソランも眉間を揉みほぐした。首を回し、肩も動かす。
「そうだね。休憩しよう」
「おまえ、根を詰めすぎ。あっちに行ったら、がっちり管理するからな」
何を言っているのか分からず、首を傾げて聞き返す。
「何の話?」
「あれ? まだ聞いてない? 俺も助手として一緒に行くから」
「え? だって、……え? 軍医って、通い?」
「まさか。基本、住み込みだろ」
「だよね。えええ? マリーは?」
「王都の領主館に部屋を用意する」
「だって、新婚だろ!」
イアルは体重をかけて椅子を斜めにし、バランスを取りながら、頭を椅子の背からのけぞらせ、逆さまになった状態で器用に肩をすくめた。
「まあ、いいんだよ、俺たちは。結婚は急いでしまったから、あとはゆっくりやっていくつもりなんだ」
イアルがゆっくりと体を起こした。そのために、表情が見えなくなる。それでも微かに苦い思いを感じ取る。だから、その背中に思わず問いかけていた。
「あの時、マリーになんて言ったの?」
口にしてから後悔した。マリーはソランに話さなかった。それを別の人間から聞いていいわけがない。急いで自分の言葉を打ち消す。
「ごめん。言わなくていい」
「おまえ、女の口説き方なんて聞いて、それ以上どうするつもりだよ。今でさえ、入れ食い状態なのに」
笑いを含んだ声で、からかう言葉が返される。
イアルは助け舟を出してくれた。それはわかっていた。わかっていた、が。
自然と足音を消しながらすばやく近づき、後ろから右腕を首に回す。左腕を添えて固定し、絞めあげる。他にいくらでも言い様はあるだろうと忌々しく思う。
「馬鹿、やめろって!」
イアルがもがいて腕を外そうとした。
彼が本気なら、こんな技など簡単に外せる。まして、こんなに簡単にかけさせるはずもない。
まったく甘い。なんだかんだ言って、いつもソランに甘いのだ。甘すぎて、さらに腹が立ってきた。ぎちっと締めを強くする。
「く、る、し、い、っ、て。お、い。こ、ら。ソ、ラ、ン……」
この期に及んで、宥めるように腕のあたりを叩いてくる。
「落ちろ、馬鹿兄貴」
「まて、まてまてまて!」
両手を首元に入れ、本気で外しにかかってきた。
「正気に戻れ! 何を怒ってるんだ」
「別に」
「じゃあ、拗ねてるんだな。マリーを俺が独り占めするから」
それは少しあるのかもしれなかった。この結婚について思いめぐらせてみたら、すごく寂しくなったのだ。
せっかくのマリーとイアルの結婚なのに、そんな気持ちになる自分が情けなくて、落ちこむ。
無言で絞め技は続行していたが、力は抜けていた。
「あーあ。俺のまわりはこんなのばっかり。……まったく」
片手が伸ばされ、頭をポンポンと叩かれた。彼の頭に顔をうずめ、囁く。
「イアル~。マリーを幸せにして」
「全力で。命かけて」
真摯な声が触れた場所から直接体に響く。それは安心をもたらし、また、ソランの中の複雑な寂しさも助長した。
「ねえ、何してるの?」
刺々しい声が部屋に響いた。イアルが慌てて振り返ろうとするが、ソランがしっかり巻きついていて動けない。
「マ、マリー?」
「ええ。そう。あなたの婚約者」
「これは」
「イアルに仕返ししてるところ」
ソランが口を挿む。
「まあ、やっぱり。ひどい男だものね。思う存分やっちゃって」
「うん」
「うっ。違うだろう。何か用があって呼びに来たんじゃないのか!?」
「ええ。婦人会の皆さん、一通りお話が終わりましたって」
「女性を待たせるのは良くない。良くないぞ、ソラン!」
「じゃあ、マリー、代わってくれる?」
「ええ、お安い御用よ」
マリーは体術の名手だ。ボキボキと指を鳴らし、近づいてくる。ソランはイアルから手を離し、マリーに向き直ってにっこりした。
「念入りに頼んだよ。あと、これ全部終わるまでお昼はあげないでくれる?」
テーブルの上を指し示した。振り返ったイアルの顔が引き攣る。
「マリー、落ち着いて」
「あら、私は落ち着いているわ」
「あー、うん。そう、かな? まあ、座って」
「ありがとう。でも結構よ」
背後でガタガタと争う音が起きる。ソランはくつくつと笑いながら、部屋を出た。