3 殿下の決意
ややあって顔から掌を外したディーは、恨めしげに言った。
「俺が過労死したら、実家の面倒はお願いします」
「何を言っている。責任を私に押し付けるな。私はおまえの趣味に付き合ってやってるだけだろう」
「俺の趣味?」
ディーは心底意外そうに聞き返した。
「なんだ、気付いてなかったのか。おまえ、無理難題を言われると、すごく嬉しそうだぞ」
ディーは目を見開いて絶句した。まさに茫然自失。が、すぐに我に返り、爆発する。
「いつもいつも面倒で厳しい案件を丸投げしておいて、それですかっ。俺だって自分に発破かけなきゃ、やってられませんよっ」
「謙遜するな。頼りにしているぞ、我が副官殿」
殿下はニッと人好きのする笑みを浮かべた。ディーは二度目の絶句に陥った。そして、呆れたように横に首を振った。
「それで、今回のは特例措置なのでしょうね」
強く念を押す言い方だった。それに殿下は取り付く島もなく返す。
「決めたと言っただろう」
「ケインは不死人でなかったと言えば済むことです!」
「同じ事を何度も言わせるな」
ほとんど二人とも喧嘩腰であった。
「冗談じゃありません! ケインはともかく、ヒルデブラントは何度でも同じ事を繰り返しますよ」
「それでもだ」
「理想で生きていけるなら、誰だってそうします。でも、現実問題として、不可能です」
「不可能ではない」
「不可能でしょう! 敵が多すぎます」
「すべて排除する」
「は?」
ディーは、口を開けて、ぽかんとした。
「今、何と?」
「排除すると言った」
がたんっ。ディーの腰掛けていた椅子がひっくり返った。勢いよく立ち上がった彼は、テーブルをまわり、殿下に詰め寄る。
「正気ですか? 冗談ですか? それとも夢ですか?」
殿下は嫌そうな顔をして、椅子を引きずってディーから離れた。しかし、同時に同じ分歩み寄られてしまい、少しのけぞる。
「正気で本気で現実だ。少し離れろ。鬱陶しい」
「嘘だ。ぬか喜びした俺を、後で絶対笑うつもりだ」
「私はそこまで歪んだ性格はしていない」
「えええー? じゃあ、夢だ~」
ディーは頭を抱えてしゃがみこんだ。殿下は溜息をついた。淡々と説明する。
「欲しいものができた。そのために利用できるものはすることにした。それだけだ」
「いつ決めたんですか」
「昨夜」
「そういうのは前振りをして、こっちの心の準備ができてから仰ってくださいよ~」
心なしかその声は湿っていて。彼はしばらくそのまま動かなかった。やがてぐいぐいと片手で目尻を拭うと、立ち上がった。その顔は、いつもより少しだけ真面目だった。
「イリス殿のおかげですか?」
「ああ」
殿下は短く答えた。全然話の読めてなかったソランは、さらにきょとんとした。
昨夜、何かあっただろうか。散々殿下に笑われて、からかわれはしたが。
「だから、どうせならしたいことをする。それで命を狙われるなら本望だ」
「承知しました。発表は生誕祝いになさるおつもりですか?」
「そうなろう。詳しいことは関係者を集めて話す。意見を聞きたいこともある」
「では早急に手配します。ああ、でも、その前に医局長の説得ですね」
ディーは顎に手を当て、頭の中で予定を立てているようだった。
「わかりました。これからすぐに行ってきます」
踵を返し、扉に向かった。ソランも立ち上がり、殿下に礼をする。
「どうした」
「お忙しそうですので」
「忙しいのはディーだけだ。質問の途中だっただろう。座れ」
ソランは躊躇した。
「そうだよ、イリス殿。そのためにわざわざ時間をあけてあるんだから、って、ごめん、俺が邪魔したんだね。
殿下、今後のためにも、きっちり説明してあげてください。先程、カルシアン・ペイヴァーが、わざわざイリス殿を訪ねてきて、敬愛のキスをもぎ取っていきましたから」
「ほう? おまえは何をしていた」
殿下は低い声を出した。
「役目は果たしましたよ。とりあえず、恋に落ちる前に邪魔はしましたので」
「それ以前の問題だ。ペイヴァーめ、本命も落とせないくせにいい度胸だ」
「詳細はイリス殿にお聞きください。では、俺はお使いに行ってきます」
声を掛ける隙も与えず、さっさと出て行く。
ソランはわけもわからぬまま、急転直下剣呑な雰囲気を纏った殿下と二人きりにされた。
「それで、奴は何と?」
「はい。ソランの病状と、もしもの場合はミルフェ殿下との面会を取り持って欲しいと」
「それがどうして手を許すことになる」
「はあ。女装を疑われたのではないかと」
「ふうん?」
殿下がテーブル越しに左手を出してきたので、何ですか? と尋ねると、手を出せ、と言われた。素直にさし出す。その手を握る。
「手を取って、何と言った?」
「え? えー、あの」
笑われそうで、言い難い。
「どうした。言えないようなことを言われたのか」
「いえ、可愛い手だと」
ソランは感情を切り離して告げた。そうでもしなければ、いたたまれなかった。
殿下は指先の布だけを摘み、すっと引っ張った。手袋が抜ける。それを、手首を軽く振って床の上に投げ捨ててしまった。
「あ」
目で追って思わず声を上げたソランの手を、殿下はまた掴んだ。批難の言葉を口にしようとしたのに、親指で掌をなぞられ、くすぐったさに身を竦める。
「傷と剣だこだらけだな」
労わるような優しい声に、心までくすぐったくなった。手袋も気になるが、似たようなことをペイヴァーにも言われたと思い出す。
「はい。傷だらけで恥ずかしいので隠していると説明しました」
「奴は納得したか?」
「さあ。ただ、隠すことはないと言われました。価値のわからない者には笑わせておけばいいと」
「……気障な奴だ」
そうなのだろうか。誠実そうに見えたが。ソランは首を傾げた。
しかし、見破られていてああ言われたのだとすれば、とんでもない皮肉ということになる。なにしろ、とどめがあのキスだったのだから。
「やはりバレたんでしょうか」
不安になって、殿下に分かるはずもないのに尋ねてしまう。
「バレてはないだろう。だったらディーが何か言うだろう」
「そうですか? そうだといいんですが」
「男に戻りたいか?」
ソランは答えに迷った。迷う自分に戸惑いを覚える。
どう考えても女は窮屈だ。この服も足元が頼りない。なのに、このままでいたい気もする。なぜだ?
……だって、ちゃんとした女性扱いは心地好い。
突然ひらめいた本音に、ソランはどうしようもなく恥ずかしくなった。真っ赤になって手を引き抜き、立ち上がって後退る。
なんて、浅ましいんだ。自分が嫌になる。それはもちろん、女扱いをしてくれるだろう。ソランの命が掛かっているのだ。マリーが皆を脅してくれたではないか。
殿下がそう振る舞えば、事情を知らない人間でも同じようにするはずだ。当たり前のことだった。そうでなければ、女としては残念だ、と誰もが言うソランが、こんな扱いを受けるわけがない。
情けなかった。どうにもこうにも情けなくって、泣きそうだった。
「あ、当たり前です。早く、男に戻りたいです」
涙声になってしまった。無表情の仮面も笑顔の仮面も被れなかった。心が波打ち、収集できない。殿下の前では、いつもそうなってしまう。感情が大きく動かされ、零れ落ちてしまうのだ。
「逃げるな」
殿下は眉を顰めた。
「座れ」
有無を言わせぬ命令に、ソランは唇を引き結んで元の向かいの席に腰を下ろした。殿下は一層不機嫌になったようだった。
「そんなに嫌か」
「はい」
眉間に三本くらい皺が入る。視線が逸らされた。執務机の上のなにかを睨んでいる。そして、苛立たしげな溜息とともに、目を瞑る。
「だが、しばらくはそのままでいてもらう。一年か、もしかしたらそれ以上」
「え?」
殿下は目を開き、ソランと視線を合わせた。
「立太子する。しばらくはまた、身辺がきな臭くなろう。それ以上に、妃問題でまわりが騒ぎ立てるだろう。おまえには虫除けになってもらう」
「それは、お妃様が決まるまでということですか?」
「いいや、おまえの女装に無理が出るまでだな。成長期だからな。ひょっとしたら、半年後にはゴツイ大男になっているかもしれんぞ。まあ、なるべく長く頼む」
ソランなら一生涯だってできる。では、やはりお妃が決まるまでということだ。あの部屋に本来の主が来るまで。
息が苦しくなった。
この方は王になられるのだ。遠い方になってしまわれる。手の届かない方に。
とてつもない寂しさに襲われた。
「喜ばないのか」
「喜んでおります」
「そうは見えないが」
「いいえ」
ソランは笑ってみせた。
先程ディーが泣いたのは、この話に逸早く気づいたからだろう。殿下を支えてきた者たちは、誰もが同じく喜ぶに違いない。
「とても喜ばしく思っております」
そう言いながら、新王の宮廷にいる自分を、ソランはどうしても想像できなかった。