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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第七章 不死人
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1 不死人の真実

 ケインの牢は獄舎の二階の最奥にあった。獄は廊下に面した側は檻となっており、プライバシーは一切ない。饐えた臭いと糞尿の臭いで中は凄まじい臭気だった。

 朝晩二回の食事を与えられるだけで、普段は牢から出されることはない。取調べか、恩赦か、あるいは死刑か。その恩赦とて、苛烈な労働を科される。

 入っているうちに体が弱るか、気の狂う者も多く、一度ここに入れば、安楽な人生など二度と送れはしなかった。


 最奥の特別棟は、特に隔離しておきたい囚人のための監房である。もう一つ厳重な扉を開けてもらってくぐり、二人が入ると、背後でぶ厚い扉が閉められ、また鍵が掛けられた。

 今度は、格子のはめられた小さな窓付の扉が並ぶ前を通り過ぎていく。ここです、と示された牢の前に立つと、窓から臭気に混じって、昨夜ソランが用意した香の匂いがした。


 中に入ると、ケインが両手を縛られ、細い猿轡を噛まされて、ベッドに転がされていた。拷問のためではない。そうしないと自殺を図るからだ。

 ディーがケインの猿轡を外し、口元を拭ってやる。壁によりかからせて、起き上がらせた。

 彼はぐったりとしていた。ずいぶん痩せてしまっている。水だけは無理にでも飲ませているらしいが、食べ物は一切口にしていない。ケインはだるそうに虚ろな目を開けた。


「ソラン、殿?」


 目を見開き、我に返ったように突然体を起こした。力がうまく入らないのと腕が縛られているせいで、ベッドから転げ落ちそうになる。それをディーが支えた。


「ソラン殿? 無事で? 怪我をしたと、死にそうだと」


 必死の形相で言い募る。

 普通の状態であれば、間違うことはなかっただろう。ソランは女性用の乗馬服の上から、デイーの提案で黒い制服を羽織っただけだった。が、心も体も弱った彼には区別がつかなかった。


「ああ。ああ、良かった。良かった。良かった……」


 ソランを見つめ、涙を零す。


「なぜ、あんなことを?」


ソランは静かに尋ねた。


「あなたを殺す気はなかったのです。他の誰も。なるべく誰も死んで欲しくなかった。本当に誰かが死ぬとは思わなかった」


 涙に上擦る声で心情を吐露する。


「でも、あなたは死ぬと知っていた。だから殿下にお酒をさしあげなかったのではないですか?」

「ああ。ああ。そうです。私は知っていた。知っていました。眠っている者は誰も殺さないと約束してくれました。だから。でも、それでは殿下が」


 ああああああ。

 ケインは泣きわめいた。


 ディーがソランに目配せをした。ソランは頷き、ケインに近付いた。強い鎮静効果のあるオイルを嗅がせる。きつい匂いにケインが咳きこんだ。直ぐには効かない。それでも与えられた刺激に、少し正気に引き戻すことはできたようだ。


「殿下だけは殺される予定だったのですね」

「そう。殿下は眠っていても」

「だけど、あなたは躊躇った」

「怖かった。怖かったのです。殿下をお一人にしたら、きっと殺されてしまう。だから、私はどうしても、持っていくことができなかった。渡すことができなかった。見抜かれると思った。それが怖かった。いいえ、できなかった。人を殺すなんて。怖くてできなかった」

「殿下の死を望んだのに?」


 ソランは自分の声が冷たく響いたのを聞いた。ケインが乱れるほどに、心が冷えていき、ケインもディーも自分も、この部屋の中にあるものすべて、別の場所から眺めている感覚に囚われていた。

 ケインはぴたりと動きを止めた。表情の抜け落ちた顔で、ソランを見た。忙しなく動く瞳の中にだけ、何かがあった。

 ソランは笑いかけた。美しく冷酷な微笑だった。


「殿下を殺したかったのでしょう? 殿下が死ぬなら、自分も死んでもいいと思うほど、望んだのでしょう?」


 ケインの顔がみるみる強張っていく。体を武者震いのように震わせ、やがて、睨みつけてくる。


「あなたが、あなたが現れたからだっ」


 どこにそんな力が残っていたのか、ソランに襲いかかろうとし、ディーの静止を振り切ろうと、体を激しく揺すった。


「アティス様だけなら、きっと何度生まれ変わっても呪いは解けない。

今までそうだった! 我々が何千年とそのためだけに生き、犠牲を払っても、今度こそはと思っても、あの方は死に、我等は残され続けた。

何千年もだ! もう、誰も、年数など数えていない。恐ろしくなるからだ。気が狂いそうになるからだ。忘れ得ぬ記憶が積み重なり、どんな喜びの記憶も苦しみと憎しみに変わっていく。堪えられない! 堪えられない! もう、嫌だ! 私がどれほどの罪を犯したいうのだ!

呪いのかかった時、私はたった十歳だった。世の何も知らない子供だった。ただ、あの国の民だったというだけだ。戦で将軍を務めた王子が死んだと聞いただけだ。彼のことなど何も知りはしなかった。遠い世界の人だと思っていた。なのに、なぜ、これほどの罰を受けなければならない!?」


 ケインはひときわ大きく身を揺すり、怒りに燃える目で、挑みかかるように顎をあげた。


「答えてください! なぜ、あなたはこれほどの罰を私たちに与えたのです。その理由は何ですか!?」


 ソランは冷たい表情を崩し、疑問を覗かせた。ケインは誰とソランを重ねて見ているのか。


「……ああ。覚えてないと、覚えてないと言うのですか! なるほど。覚えていない!」


 あはははは。彼は笑った。聞くに堪えない笑い声だった。ひとしきり笑い続ける。歪な心が漏れ出ているようだった。が、それもぴたりと止め、歪んだ笑みとともに言葉を投げつけてくる。


「あなたには忘却が許されているわけだ。女神の愛し子。災いの神よ!」


 暗く滾る目で睨み据えられる。真っ暗い感情を叩きつけてくる。


「ならば、何度でも、殺そう。何度も、何度も、殺してやる。生まれ変わっても、この恨みは忘れない。

そうとも。積み重なっていくだけだ。あなたも、知ればいい。愛しいものが死んでいく苦しみを。忘れてしまうというのなら、その度に教えてあげましょう」


 不敵に笑う。


「殺してやるとも! ああ、そうだ! 呪いを解かせはしない! 私は生きる。生きて探すんだ! エリゼ!!」


 女性の名前を叫んだ。


「エリゼ、エリゼ! ああ、ああ、ああ、ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、苦しい、堪えられない、堪えられない! ……死にたい。死にたい。君の許へ行きたい。女神よ。どうか、慈悲を。慈悲をください……」


 ケインはまた泣きはじめた。ううううう、ううううう、と獣のように唸りながら。

 ディーはぐったりとして涙を流すケインに手早く轡を噛ませた。再びベッドの上に転がす。そして、牢の隅に置かれていた香炉を拾いあげた。外で待っていた看守に合図をし、檻を開けさせ、ソランを促して外に出る。

 二人は無言で牢を後にした。




 人気の少ない回廊の一角でディーは立ち止まり、護衛たちを遠ざけた。そうしておいて、ソランに話しかける。


「大丈夫ですか」


 ソランは弱弱しく横に首を振った。ケインの狂気に()てられていた。

 胸の内に重く冷たく暗い鉛を埋め込まれた心地がする。今はとても殿下に報告できなかった。頭の中も纏まらず、言葉にできない。それでも、確認するべく疑問を口にする。


「彼は、不死人なのですね」

「ええ」

「知っていたのですか?」

「薄々は」


 ディーの雰囲気に、ふっと確信が降りてくる。


「あなたも」


 すぐにその問いを止め、視線を落として首を振った。


「なんでもありません」

「いえ、そうです。私も不死人です」


 ソランは弾かれたように顔を上げた。


「でも、殿下を憎んではいません。むしろ感謝しています。あの方は俺を救ってくれた。俺がこんな風になってしまったのは、殿下のせいなんですよ」


 ディーはおどけて肩を竦めてみせた。


「この世は美しいものに満ちていると教えてくださったんです。それに気づいてしまえば、賛美せずにはおれなくなりました。なのに殿下ときたら、うるさいだの黙れだの悪趣味を垂れ流すなだの、酷いことばかり仰る」


 軽く憤ってみせる。ソランはほんの少し頬をゆるめた。


「ケインは」


 瞬時に笑みを引っ込めた彼女に、痛ましげに目を細め、言い聞かせる口調で話しはじめた。


「あなたを心配していた。殿下のことも。死なせたくないと思っていた。口を噤んで、奥底の思いは自分の中に収めておくつもりだった。それが、彼がそうありたいと思って私たちに見せていた姿だと思います」


 誰にも建前と本音はある。見せようとしない本音に、価値があるとは限らない。大抵はそのまま心の中に沈められ、建前こそが真実となっていくのだから。


「悲しんでもいいと思います。俺も悲しいです」


 ソランはコクリと頷いた。涙腺がゆるんできて、俯く。共に痛みを分かち合おうとするそれに、気持ちを隠す必要は感じなかった。数回目を瞬いた。大きく息を吸う。それで湧きあがった感傷は宥められていった。


「彼は誰と間違えていたのでしょう」


 俯いたまま、ぽつりと尋ねた。

 ソランを災いの神と呼んだ。女神の愛し子と。ソランには、それに当てはまる神は一柱しか思いつかなかった。

 領地の神話でいうところの、失われた神。いつか人に生まれ変わるという、神力を世界に散じてしまった神。

 まさか、と思う。そんなわけがない。

 それに、その神と宝剣の主に、どんなつながりがあるというのか。


「一つ、経験者から言わせてもらえば」


 ディーは質問には答えず、違うことを口にした。


「実は俺たちでさえ、生まれ変われば別の人間なのですよ」


 ソランが上げた視線と合うと、彼は微笑んだ。


「魂が体を支配していると思われていますが、俺に言わせれば、魂は体に支配されているんです。

イリス殿だって覚えがあるでしょう? 体調が悪ければやる気が出ない。苛々もする。それと同じです。

男の体に入ればたいていは女が欲しくなりますし、女になれば男を求める。失礼。これは淑女にする話じゃなかったか」


 冗談めかして笑った。


「強靭な体で生まれることも、虚弱な体で生まれることも、頭が良く生まれることも、反対にいつまでも子供と同じ程度でしかいられないこともあります。

同じ記憶を持っていたとしても、入っている体によって、記憶の持つ意味は違ってきます。記憶などいつでも変質する、曖昧なものです。それに、真実意味があるとは思えません」


 では、何にならあるというのか。


「過去に誰であったかなど、今に何の意味があると思いますか? あなたも俺も殿下も、新しく生まれ変わって、今の自分を生きている。それで充分なのではないですか? 俺はあなたが好きですよ」


 ディーの言葉はすんなりとソランの中に入ってきた。

 そう。女神は忘却を賜る。新しい命を生きるために。

 胸の中に凝っていた暗く冷たいものが溶けていく。

 ソランは自然に微笑んだ。


「ありがとうございます。私もあなたが好きですよ」

「本当ですか? では、私たちは両思いですね。嬉しいなあ。では、ちょっと、俺に味方してくれませんかね」


 彼は肩を落とし、わざとらしくうなだれた。


「実は、尋問をイリス殿に任せたと知れたら、殿下の雷が落ちます。だから、ちょっとだけ黙っててくれたらなって」

「いいですよ。というより、私が謝らねばならないでしょう。差し出たことをいたしました」

「うん、でも、俺も、それを期待していたところがあります。俺ではあれほど彼を動かせなかった」


 ケインはソランが無事だったと泣いてくれた。たとえどれほど憎まれていたとしても。


 あ、と気づく。あれが憎しみだったのだ。ディーに溶かしてもらわなかったら、きっと今も胸の奥に凝ったままだっただろう。防ぎようもなく心を侵す闇のような。

 ソランは胸が痛くなった。殿下はあれを、ずっと浴び、溜めこんできたのか。だが、これでやっと一つ、殿下を理解することができるかもしれない。

 殿下の面影が思い浮かび、ソランは無意識に、疼く胸に手を当てた。

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