7 宣戦布告
夜、新しい寝室で、ソランは薬を精製していた。
薬剤部で借りてきた機材の様子をぼんやりと見張りながら、イリスとして各所へ挨拶回りしてきたのを、考えるともなく思い出す。
手始めは医局だった。まず、機材や材料を借りださなければならなかったからだ。
殿下に腕をあずけてエスコートされながら歩くのもヒヤヒヤしたが、親しくなりかけていた人たちに再び『初対面』の挨拶をするのは、本当に緊張した。
ソランが女装してイリスと名乗っているなどと見抜かれたら、いい恥さらしだ。それも、恥をかくのはソランだけではない、それにつきあった殿下も巻き込むことになる。
ところが、誰もソランを疑う者はいなかった。同情を寄せられ、できることがあればいくらでも力を貸しますと親切にしてくれて、安心するというより、唖然とした。
次に行った軍本部では、将軍にご挨拶をした時に、悪戯っぽくきらめく閣下の瞳を見て、胆が冷えるほどぎょっとしたが、殿下と交わす話の内容から、どうやら将軍は協力者と知り、心底胸を撫で下ろしたのだった。
問題だったのは、将軍の護衛についていたトレドで、ソランの手をギュウギュウ握り、弟さんはきっと大丈夫だ、このくらいでどうにかなる奴じゃないから、と熱く励ましてくれたのだった。
ソランは申し訳ないやら、おかしいやら、ちょっと感動したやらで、ほとんど無表情に小声でしか礼を述べられなかった。
局に戻ると、ちょうど夕飯時で、食堂はごった返していた。そこで局員にも紹介された。
ソランの姉であること、ソランたっての希望でここにいること、医術を以って仕えること。それから、
「ソラン・ファレノの志を無体に扱う者は、我が名にかけて許さぬ。心せよ」
殿下の一言に、全員が揃って右手を胸に当て頭を垂れた。その整然とした動きに、身も心も引き締まる思いがした。
殿下の威徳が知れた。ソランとて全員を知っているわけではない。それでも言葉を交わし親しくなった者たちは、誰もが一癖も二癖もあるような者ばかりだ。感覚として、腕を一つ切り落としても、第三の腕が出てきて攻撃されるような、得体の知れなさがある。敵にまわすと厄介だろうと思わせるものがあった。
その彼らが、二十歳にも満たぬ青年に従い、跪く。
殿下は己の価値をもっとよく知るべきだと、思わずにいられなかった。
ソランはふと我に返り、器具とは別に暖炉にかけていた小鍋をはずし、灰出しのレンガの上に置いた。
その時突然、室内に人の気配がした。ソランは剣の柄に手をかけ、少し抜き、立ち上がり振り返ると同時に抜き放った。
「私だ」
「殿下? 失礼いたしました」
それでも、瞬時に高まった殺気をどうしても抑えることができない。ソランは剣を戻しながら、顔を顰めた。
「どうやって入られたのですか」
あちらは衣裳部屋だ。
「知らなかったのか? そこに入り口がある」
「そうだったのですか?」
うっかりしていた。大失態だった。マリーに任せてばかりで、部屋の造りの確認を怠っていた。
「妃の部屋だからな。私の寝室とつながっている。鍵を渡しておこうと思ってな」
殿下は歩み寄ってきた。握った右手をさし出してくる。ソランは受け取った。
「鍵穴に入れてある間だけ鍵が開く。抜けばまた勝手に鍵は掛かる。いざまさかの時は使え」
「わかりました。ありがとうございます」
数瞬の沈黙の後、苦笑気味に殿下が口を開いた。
「すまなかった。それほど驚かせたか」
何を言っているのかと、手の中の鍵から目を上げた。殿下のかすかに困っているらしい様子に、未だ自分が緊張を全身に纏っていることに気付く。
「申し訳ありません。少し、薬が効いてしまっているようで」
「この臭いか」
「はい。殿下もお早く出られた方が良いかと」
「まだ、だいぶかかるのか?」
「いいえ、あとは精油と練って香に仕立てるだけです」
「見ていたい」
この方は何を聞いていたのだろうか。ソランは呆れた。前々から思っていたが、まったくもって我儘な人だった。
「なんだ。不満顔だな」
「すみません。今は抑えが効きませんので」
「嫌か」
「嫌というか、こんな状態ですので、困ります」
「本音が出るからか」
「ええ」
「では、解毒薬を飲めばよかろう」
「そうですね」
殿下の言うことは正しい。正しいが、ソラン一人ならば、飲むまでもないと思っていたのだ。
……だが、自白効果のあるこの薬が、効力を発揮するのに必要な時間は十分。殿下がどのくらい居座るつもりかわからなかったが、そうこうしているうちに、そんな時間は過ぎてしまうだろう。
この後、何事もなければ良い。が、緊急事態でもあれば、殿下の判断に支障が出かねない。そんなことぐらいわからないわけがないのに、まわりの右往左往を顧みずに、意思を通す。
ソランは苛々しながら床に置かれた盆の上の小瓶とスプーンを取った。液体をスプーンの上に取り出して、殿下の口元に突き出す。
「どうぞ」
素直に開けられた口に、そっとさし入れた。殿下が咥えた瞬間、心臓がはね、思わずスプーンを手放す。殿下は自分でスプーンを取り出し、返してきた。
「なんだ?」
「なんでしょう」
わからない。とにかく、自分も解毒薬を飲んだ方が良い気がした。顔を隠すように座りこみ、ソランも続けて薬を口にし、両手の物を盆の上に返した。
次いで、鍵に付いた鎖を首に掛ける。胸元に垂れたそれを、夜着の下に押しこんだ。
「寝るときもその格好なのか」
殿下もソランのすぐ傍に腰を落ち着けた。
「はい。こういうことがあると、まずいので」
突然訪ねてきたことを、揶揄する。
「それに、洗濯に男物の下着を混ぜるわけにはいかないでしょう」
「それはそうだな」
殿下は、くすりと笑った。人事だと思って楽しんでおられるな、と不敬なまなざしを向けてしまいそうだったので、ソランはむっつりとして胡坐をかき、小鍋を取り上げて熱が冷めたことを確認すると、足の間に納めて固定した。
「その姿でその格好はどうかと思うぞ」
「殿下はいちいちうるさいです。躾にうるさいばあやのようです」
鎮静効果のあるオイルを垂らしこむ。これを作る蒸留器具と大量の材料を薬剤部から借りたのだ。解毒薬を作り、オイルを作り、それから自白を促す薬を作ったために、こんな時間になってしまった。
もっとも、半日寝ていたので眠くはなかった。
「それだけ目に毒な格好をしていて、言うこと為すこと、それか」
声を殺して、腹を抱えて笑っている。
「なんとも残念な美人ぶりだな」
「本当に美人ですか?」
「うん?」
「どうして誰も彼も騙されるんですか? 騙されたふりをしてくれているんですか? いくらなんでもおかしいでしょう。今日は実はバレているんじゃないかと、ずっと緊張しっぱなしでした」
「ああ、それでにこりともしなかったのか。うまく演技しているものだと思っていたのだが」
「もちろんそれもありますが、そうでなくとも、とても笑う気になれなかったです」
ソランは溜息をついて、薬を箆で練った。
「美人だぞ。自信を持て」
ソランは胡散臭いものを見るような目付きで、殿下を見た。
「何故それほど疑う」
「当然でしょう。女性とはふわふわとして美しく柔らかで甘やかで小さくて可愛らしく、守ってあげたくなる存在です。そのどれに私が当てはまりますか」
殿下は噴き出した。それでも部屋から漏れないように、声を殺している。
「すごい妄想だな。酷い女に騙されるなよ」
「殿下こそ、その偏見をどうにかされた方がよろしいかと。
ところで、どうして人の言うことにいちいち笑われるのですか?」
殿下はとうとう笑い崩れた。床に手をついて、苦しげに悶えている。まったくもって、忌々しい人だった。
ソランは手荒く香を纏めはじめた。円柱状にし、常に一定の効果が期待できるようにする。黙々と作業を続ける。殿下も話し掛けてはこなかった。
すべてを作り終え、小皿の上に乾かすために並べ、明日、片付け易いように、使った物は小鍋に入れて、水を注いでおいた。手を濡れた布で拭き取る。
「終わりか」
「はい」
「おまえは」
問いかけに顔を上げ、視線が合ったとたん、殿下は口を噤んだ。まったく内面の見えない目をしていた。
「殿下?」
「辛くはないか」
何を言っているのかわからず、問い返すように首を傾げた。殿下は少し言葉を変えた。
「我が下に来てから、辛いことばかりではないのか」
「いいえ。まだ一月も経ってないのに、ここに来る前の生活が遠い昔に思えるほど、目まぐるしかったですが」
からりと答えたソランに、眉を顰める。それに、なんとなく、心配されていたことを理解する。
この薬のことだろうか。明日、ケインに使う自白薬。だから殿下は我儘を言って、傍にいてくれようとしたのかもしれなかった。
ソランにも覚えがあった。部下に危ないことや汚れ仕事を押し付けている気がしたものだった。
「ケイン殿も、覚悟の上だったでしょう。それがわからない人じゃない。だから何も言わないのでしょう。話せば許しを請うことになる。それを自分に許さないのでしょう」
薬を作りながら考えていたことを話す。
「それでも彼は事を起こしたのです。彼は容赦を望んでいません。私もまた、許すつもりはありません」
黙ったまま食い入る様に見ている殿下に、真っ直ぐ視線を返す。
「我が領地では、毎年収穫祭の度に誓いを新たにします。その中で、裏切り者は地の果てまで追いかけ、死をもって報いると誓うのです。
裏切りを最も重い罪とする地です。私はそこの次期領主です」
だから、裏切り者に対する制裁を迷わない。迷ってはならない。
「そうか」
殿下は静かに言った。
「愚問だったな」
ソランは首を横に振った。
「薬のせいでございましょう。ちょうど効く頃です」
殿下は暖炉に目を向けた。溜息のように言葉を吐き出す。
「……情けない」
「そうですね」
はっきりと肯定してみせた。殿下の中には常に迷いがある。だから覚悟がついていない。だが、それを『情けない』と意識している。ソランには、それが重要に思えた。
それとは別に、喜びに満たされた心から、言葉を伝える。
「でも、だからこそ、お傍にいたくなるんですよ」
ゆっくり振り向く殿下に、ソランは微笑んだ。
「心配されるのは、嬉しいものです」
殿下の手が自然にソランへと伸びてきた。手を取られ、引かれる。その上に殿下は屈んで、手の甲に口付けを落とした。
唇を離し、上目遣いに見上げた殿下があまりに色っぽく、ざあっと鳥肌が立つ。
殿下はソランを観察し、してやったりと、にやりと笑った。
「びっくりしたか」
「はい」
「仕返しだ」
「え?」
何の? あ、数々の暴言の?
「いや、礼か。それとも宣戦布告か」
相反するものを口にし、自分で言って、自分で首を傾げている。
「まあ、なんでもよい。しっかり休め。明日もいろいろあるからな」
「え? あ、はい」
ぺしり、と先ほど口付けを受けた場所を叩かれる。ソランは思わず手を引っ込めた。
殿下は笑いを零し、立ち上がった。
「おやすみ」
「はい。おやすみなさいませ」
混乱したソランを置いて、なぜか満足気に殿下は帰っていったのだった。