6 下手人の正体
あれほどここを出て行かなければならないと感じていた衝動はなくなっていた。殿下が今の状況に相応しいと考えているならば、それに従おう。
ソランは豪奢な部屋で落ち着いて食事を取ることができた。向かいには殿下が座り、お茶を口にしていたが、考えごとをしているようで、心ここにあらずという感じだった。
それでもソランが時折目を上げれば、殿下も気配を感じたかのように視線を向け、穏やかに頷き返してくれる。
食事が終わると、やっとマリーに剣を返してもらうことができた。その感触に安堵する。左手で軽々と下げて歩こうとしたら、女らしくないと二人に指摘され、胸元に両手で抱え直し、部屋を出た。
マリーは部屋に残ることになった。片付けがあるのと、侵入者対策のためだ。侍女はあと数名増えることになっていた。
今日はソランも手伝ったのだが、風呂の湯を運ぶのも一仕事だ。夜の番もある。どうやっても、マリー一人では捌ききれない。後ほど祖父が身の回りの品と共に連れてくると、殿下に伝えられた。
扉の前には護衛たちが待っていた。そのうちの一人はべイルで、事情を知っている彼は完全に素知らぬふりをしていたが、他の護衛たちは、どうにもそれができないらしかった。
興味津々で、周囲に目を配るついでに、殿下の私室から出てきた『イリス』を、横目で見てばかりいる。顔見知りの彼らの行動がおかしくて、ソランは笑いを堪えるのに必死だった。
五階に上り、殿下の執務室に通された。そこにはディーと職人がおり、剣帯を分解して待っていた。
「私がおまえくらいの身長の時に使っていたものだ」
それは細かい鎖で編まれた物で、よくなめした皮よりも柔らかかった。飾りに、半分にされた大粒の黒真珠が幾つも嵌められている。
ソランの腰に巻くと、鎖同士が引っ張り合い、吸い付くように体の線に沿った。それに信じられないくらいに軽い。
その場で余分を確認すると、職人が手元に引寄せ、余り過ぎた分を切り落としはじめる。
「おまえは本当に細いな。身長が伸びている間はしかたないのかもしれんが、軽すぎるぞ。もっと食べろ」
体重がないと、切り結んだ時に、どうしても不利になる。どんなに筋力をつけても、体ごと弾き飛ばされ易い。
ソランとて体重を増やしたかったが、祖父には、そもそも男と女は体の造りが違うから無理だと諭されていた。骨格も付く筋肉の量も、根本的に違うのだ。
「しかし、今回は幸いでしたね。そうでなければ四階まで腕に抱えては上れなかったでしょう」
「ディー」
殿下が鋭く制した。が、かまわず暢気に続ける。
「まさか女性を荷袋のように肩に担ぐわけにもいきませんしね。殿下の沽券にかかわるところでしたよ」
その意味するところに、ソランは血の気が引いた。昨日の記憶がない部分の話にちがいない。
「あの、もしかして、殿下に運んでいただいたのですか」
小さな声で尋ねる。
「うん。もちろんだよ。他の男に運ばせるわけにいかないでしょう」
当然のように言われ、どうして他の男ではいけないのか聞けなかった。せめて、護衛の誰かだったら、もっと気楽だったのに。
とりあえず、すぐさま頭を下げる。
「お手数をおかけしまして、誠に申し訳ございませんでした」
「たいしたことではない。気にするな。ディーもいらぬことを言うな」
「黙ってらしたんですか? さすが殿下。男前ですね」
「心にもないことを言うな。ずうずうしい奴め」
「お褒めにあずかり、光栄です」
「それがずうずうしいと言うのだ」
殿下は非常に苛立たしげだった。対してディーは上機嫌だった。大抵はディーがからかわれるのだが、今は立場が逆転しているようだ。たまにはそういうこともあるのだろう。
職人が帯をさし出してきた。腰に巻き、剣も繋ぐ。鞘口を押さえ、柄に手を添え、位置を確認した。ちょうどよい。
次に肩から心臓の位置を通って斜めに掛ける帯も調整してもらった。作られた胸の膨らみの間を通るため、それが強調されたように感じて気恥ずかしかったが、これがあるとないとでは違う。いざまさかの場合は、紙一重が助かるか助からないかの差になるのだ。
ソランの剣の柄は、血や脂で手が滑らぬよう黒い組紐が巻かれており、鞘には細かい彫刻が施されてはいるが、遠目にはただの鋼の筒のように見える。
黒と鋼色の剣と剣帯は、まるで初めから組み揃えて造られたかのように、良く馴染んでいた。ソランの黒髪にも、澄んだ瞳の色とも響きあっている。
それはまた、美しく、ぞっとするような恐ろしさも含んでいた。ソランの姿は、軍神ウリクセーヌの配下の戦乙女を思い起こさせた。彼女らは戦場に降り立ち、魂にしか聞こえぬラッパを吹き鳴らす。人々はそれに踊らされ、血みどろの戦いを繰り広げるのだ。
「どうも、可憐とは程遠い気がするのですが」
ディーが首を傾げ、腕を組んだ。そこで思い出したように、
「あ、ご苦労だった。帰っていいよ」
職人に声を掛ける。彼が出ていくと、改めてソランを上から下まで観察しだした。
「内気、とか、引っ込み思案、という言葉が似合わないんですが。どうですかね?」
「まあ、そうだな」
「むしろ、冷静でしっかり者という感じなのですが」
「うむ」
「ということで、イリス殿は、無闇矢鱈と男たらしな笑顔を振りまかないでね」
「は?」
誰が男たらしだ。そんなこと、あるわけがない。
ソランが思わず聞き返すと、
「男はね、妙齢の美しい女性に微笑みかけられると、悲しいことに、自分に気があると誤解しちゃうんだよ」
「はあ」
「イリス殿は、そんな悲しい誤解をする破目に陥ったことはないのだろうけど、うちの局は、そんな奴ばっかだからね。ほんっとうに、悲しいんだよ?
そんな奴らがね、ぱっと見、厳しそうなお嬢さんに微笑みかけられた日には、その落差に一発で落ちるから」
沈痛な面持ちで何度も頷き、そして、もう一度呟いた。
「ほんっとうに、悲しいよねえ」
ソランは戸惑って殿下を見た。
「よくわからんが、本気で忠告はしているようだ。心に留めておけ」
「はい」
「ああっ、ここにももてるばっかりの嫌な男がもう一人いた!」
「ディエンナ。それ以上戯言しか言わぬのなら、これからそう呼ぶぞ」
愛称が『ディー』になる女性の名前だった。ディーが真顔に戻った。
「酷いですね。奥の手を使うとは」
「奥の手を使わせているのは誰だ。最近、煩わしいぞ。少し控えよ」
ディーは肩を竦めた。
「仰せの通りに。では、真面目な話をしましょうか」
彼はソランに椅子に座るように促した。
ディーはまず、先日死んだ者たちの名を挙げた。どちらとも言葉を交わしたことはなかったが、顔は見知っていた。
それから怪我をした者の名前、当時薬で眠らされた者の名前、駆けつけた者の順番。
そして、薬を盛った者の名前。
「ケイン殿が?」
ソランは驚きに目を見開いた。まさか、という思いが体中を駆け巡る。
「間違いないよ。宿屋の主人も、薬で眠らされた者たちも、それに本人も認めた」
「隠す気もなかったと? どういうことですか。はじめから死ぬ気であったとでも?」
「さあ。薬を渡した人物についてはペラペラ喋ってくれたけど、動機についてはさっぱり」
「薬は睡眠薬だったのですよね?」
確かあの時、殿下から、他の者は眠らされていると聞いた。
「そう。あの日、ケイン殿はさし入れに飲み物を持ってきた。プレブールだったそうだ」
軽い酒だ。ほとんど水と同じに飲まれる。
「たとえ軽くても、普通は任務中に酒は飲まないもんだけどね。王女が引きあげられた直後で、王妃からの労いの酒だと言ったそうだよ。
それに、あれしきで酔う者は、そもそも酒に口をつけないしね。上におられる殿下には、自分で持っていくと言ったそうだけど、殿下の所には現れなかった。
途中の部屋に酒ビンが置かれているのも見つかった。そこには確かに睡眠薬が入っていた」
そうして眠りについた者は見逃され、殿下と、同じ室内にいた四人の護衛だけが狙われた。
「侵入者たちは、殿下方が起きていらしたのに驚いた様子だったそうだけどね」
「では、騙されたという線は薄いのですね」
自分の手の中にあったはずの薬を、殿下には届けなかったのだから。それは躊躇ったということだ。最後の最後で。
「何か弱みを握られているのでは」
「うん。例えそうであっても、彼の罪を減ずることはできない。何も知らないでやったとしても重罪なのに、彼はわかっていてやった」
視察中に襲われた時の姿を思い出す。あの切羽詰った状況で、剣で矢を振り払えもしないくせに、彼は殿下の前から動こうとはしなかった。
なのに、どうして。
「死んだ護衛の名を挙げたら、真っ青になって震えていたよ。ソラン殿やイアル殿が重傷で生死の境を彷徨っていると話した時には、泣いていた」
ディーは壁に冷たい目を据えて話した。
「……あれは失敗だった。情にほだされて話すかと思ったのだけど。あれ以来口を噤んで、一言も喋らなくなってしまった」
そして、ソランに視線を向けた。冷徹な表情のままで。
「教えて欲しい。自白を強要できる毒を知っている? 知らなければ、拷問に掛けるしかないんだけど」
「知っています」
ケインを助けることはできない。助けてはならない。明らかに殿下を狙った者を、情で以って許すなど、前例を作ってはならない。
……それでも。
「そう。よかった。調合をお願いできるかな」
「わかりました。いつまでに用意すれば良いですか?」
「時間はどのくらいかかるの?」
「器具を薬剤部に借りてくれば、今夜中にでも。ただ、尋問には私も加わります」
「なぜ?」
「彼は何も口にしないのではないですか?」
彼は死を願っているにちがいない。……ソランの知っているケイン、ならば。
「うん。その通りだ」
「経口の薬は量の調節が難しいのです。多ければ死に至ってしまう。足りなければ効かない。
口に含ませるのが難しいというのなら、香のタイプが良いと思うのですが、これは毒消しを飲んでいても、長時間さらされていると、こちらの意識も犯されます。それを判断するのに、私が付いていなければなりません」
半ばこじつけだった。薬を飲ませる方法なら、いくらでもある。香についても、時間を区切って経過を見に行けばいいだけだ。
だが、どうしても彼に会いたかった。話を聞きたかった。何ができるのかわからない。でも、このまま死なせたくなかった。
「必要ならば、そうするしかないね。殿下、ご許可をいただけますか?」
「仕方あるまい。許可を出そう。すぐに取り掛かれ」
その声も、冷たく重いものだった。