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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第一章 貧乏辺境領ジェナシスにおいて
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4 神殿で

 ソランの朝は早い。エイダが竈に火を入れる頃には起きだして、神殿脇の井戸まで水を汲みに行く。桶を両天秤に掛けて肩にかついで五往復。台所の甕をいっぱいにしてから神殿の掃除に行く。


 領主館の隣に建つ神殿は、今日は白い壁面が朝焼けに照らされ、ほんのりとピンク色に染まっていた。

 ソランは扉を押し開いた。真っ直ぐ祭壇の前まで進む。そこで両手を交差させるように胸元に置いて両膝をつき、頭を下げた。


「今日の一日が与えられたことに感謝いたします」


 教えを受けた祖母から、ここは願う場所ではないと教えられている。ただ感謝するための場所なのだと。それができない時は、沈黙しなさい、と。

 すぐに再び顔をあげ、立ちあがった。二段だけある階段を上り、祭壇へ上がる。神像などはなく、正面に大きく窓を設けてあるだけの簡素な場所だ。そこからハレイ山脈が見渡せた。


 ソランは息を詰め、朝焼けに染まる山々を見つめた。光に溶けた赤が、やがて眩い金色に輝き、そして清冽な雪白に変わっていく。刻々と変化する影と色を全身で追う。切ないのか悲しいのか愛しいのか分からない感情が湧き上がり、圧倒される。


 堪えきれずに震える息をついた。涙が零れた。胸が痛かった。いてもたってもいられなくなる。何かをしなければ、と思う。強く強く。それが本当は何なのかわからない。見つけられない。だけど同時に、守らなければ、とも感じる。己の全存在を懸けて。愛しい人たちを守らなければ。


 毎日毎日、ソランがここでこうして、一人こんな時間を過ごしていると知っている者はいない。誰にも知られたくなかった。唯一踏みこまれたくないひとときだった。決して楽しいと言える時間ではない。それでも、毎日こうせずにはいられないのは、なぜなのだろうか。

 焦りに似た気持ちで窓に触れ、佇む。

 日が昇りきり、光の饗宴が終わると、心も落ち着いてきた。


「よし」


 気持ちを切り替えるために声を出した。それから祭壇脇の道具置き場に脚立を取り出しに行き、次いでバケツに水を汲んできて窓の前に立った。濡らした雑巾と乾いた布を持ち、脚立に上って、隅から丁寧に拭きはじめる。


 窓とはいっても、一般の家のものとは違う。この辺りでは、普通は明り取りのためにただ刳り貫かれただけのもので、夜や寒い日には雨戸で閉ざすものだ。だが神殿のそれは、曇りも歪みもない巨大な水晶を板状に削りだし、はめこまれていた。

 領主館の窓という窓にもはめられているそれは、途方もなく高価なものだった。今ではこれほど大きなものを造るだけの材料も見つからないし、また技術も伝わっていないからだ。

 だからか、この窓も建物も人間が造った物ではなく、そういった技術に長けた小人族が造ったと言われている。また、他では見られない白い石材は巨人族の骨だとも言われていた。

 どちらも冥界の女王マイラの眷属だ。そして、この神殿はマイラとマイラの愛し子、「失われた神」を祀っていた。


 「失われた神」とは、世界を崩壊から救った神なのだという。

 昔々、まだ神々も小人族も巨人族も精霊族も人と同じように地上にいた頃、地母神マイラと主神セルレネレスが諍った。生きとし生けるものが二分に分かれて争い、あまりのことに、世界は軋み、崩壊をはじめたという。

 それを嘆き、原初の神の一柱が自らを犠牲にして崩壊を止めた。

 神々は、失われたが故に名も残らない神の死を悼み、悲しみ、諍いをやめた。それ以来、マイラに味方したものは冥界に、セルレネレスに味方したものは天界に住むようになったという。そして、力なき人間だけが地上に残ったのだと。

 この地にのみ伝わる話だ。

 この地に住まう人々は、人間の中で唯一マイラに味方した者たちの末裔だと言われている。その証だという洞が、祭壇の下に隠されていた。深い深い穴だ。明かりで照らしても先は見えない。ハレイ山脈の下、冥界まで続く道なのだそうだ。


 ソランは神官でありながら、それほど神話の類を信じてはいなかった。幼い頃よく遊んだ伝言ゲームのようなもので、真実は紛れ、姿を変えてしまっているのだろうと思っている。

 ただ、神の存在を疑ってはいなかった。ソランにはいつも、こうして生きていることも、愛する人たちがいることも、取り巻き包む世界が存在していることも、奇跡のように感じられていた。その奇跡を与えてくれているものに感謝せずにいられなかった。


「ソランさまあ、おはよーございます」


 神殿内に可愛らしい声がいくつも響いた。扉から小さな頭がいくつも覗いている。


「おはよう、みんな。よく来てくれたね」


 ソランは急いで扉まで行った。近隣に住む十歳から十二歳ぐらいの子たちだ。ソランが領地を留守にする間、神殿の掃除を頼むことにしたのだ。

 これまで領地をあける時はマリーが引き受けてくれていたのだが、今度は一緒に王都に行くため、祖父やギルバートと相談した結果、この子達に任せることにした。

 もう三日目になるからみんな心得ていて、まず祈りを捧げると、それぞれの道具を取りに行き、掃除をはじめた。はたきをかけたり、雑巾で拭いたり、モップで床を磨いたり。その間、ソランは窓拭きを続けた。




 マリーが朝食ができたと呼びに来て、子供たちみんなと領主館で食事をした。また明日の約束をして子供たちを送り出すと、ちょうど祖父を迎えに来たギルバートと会った。彼らは今日も二人で領地内の見回りに行く予定だ。

 ソランはそれとは別に薬を調合し、持病のある者の家を一軒一軒まわっていた。それぞれに少なくとも二か月分は用意しておきたかったし、風邪や怪我をした時のため常備薬も置いていかなければならない。

 一週間後の収穫祭がすめばすぐに出発することになっている。急に決まった出立話に、青年団や婦人会と少しずつ進めてきていた収穫祭の用意は、ほとんどそれぞれの責任者に任せざるをえなかった。


 今日の領主館には、午前中に料理の打ち合わせのため婦人会が、午後にマリーの結婚仕度を手伝うために年頃の娘たちが集まることになっていた。どちらにも少しだけ顔を出すことになっている。

 ソランは頭の中で一日の予定を確認しながら、薬の調合室に向かった。

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