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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第六章 変化(へんげ)
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2 捨て身の主従愛

 ソランの意識は暗く深いところに降りていった。降りていくにつれ、常に外界の刺激を過敏なくらいに拾う体の感覚のすべてが失われていく。

 ソランは振り返らなかった。ここには何度か来たことがあった。無明の闇に包まれた穏やかな世界。ソランを煩わし傷つけるもののない世界。


 ここに来ると、イアルはとても心配する。ソランが何の反応も返さなくなるからだ。

 一人で俺の手の届かないところに行かないでくれ。泣きそうに懇願されたこともある。

 俺が傍にいるから。おまえを一人にはしないから。おまえが苦しいというのなら、俺も同じ罪を犯そう。そうすれば、半分になるだろう?

 よくわからない理屈だ。同じ罪を犯したら、罪は二倍だ。半分になりはしない。けれど、なぜかソランの孤独は半分になった。


 イアルは馬鹿だ、と思う。それに心がギクリとする。

 ソランを一人にして、迎えにも来ないなんて、嘘つきだ、とも思う。それに引き寄せられて、今は聞きたくない声が耳の奥に甦ろうとし、強く耳を塞いだ。

 暗く広く柔らかい底に辿りつくと、ソランは心の目も瞑ってしまった。自分自身の気持ちや記憶さえ自分を傷つけるから。

 そうして彼女は無になって眠りについた。




「ソラン殿、ソラン殿」


 ひどく切羽つまった呼び声に、意識が反応する。一度反応してしまった意識は、体の感覚と簡単に結びついてしまう。

 体を揺さぶられ、頬まで叩かれているようだ。煩わしさに腕で払いのけた。


「ソラン殿」

「はい」


 ソランは目を開けた。


「大丈夫なのか? どこか具合悪いのか?」


 ディーが顔を覗きこみ、矢継ぎ早に聞いてくる。その後ろの見慣れない建物の内部構造に一瞬戸惑うが、漂った血の臭いに、眠る前に何があったのかを思い出した。


「いいえ、大丈夫です。ちょっとうたた寝を」

「は? こんな場所で?」

「ええ、そんな気分で。あれからどれくらい経ちましたか?」

「まだ二時間はいっていない」

「そうですか。それでどうしましたか?」


 冷静に聞き返す。気持ちはすっかり落ち着いていた。ソランはさっきあったことを、強制的に自分から切り離してしまっていた。己の感情に囚われなければ、物事を俯瞰することができる。

 ディーはソランを観察しながら黙りこんだ。ソランは居心地悪く、謝罪する。


「もう平気です。先ほどはお見苦しいところをお見せして、申し訳ありません」

「いいや。イアル殿は大丈夫なの?」

「体力だけはありますから。まあ、運が悪ければわかりませんが。遣り残したことがあるので、意地でも帰ってくるでしょう」


 言いながら、新たに見えてきた事実に腹が立ってくる。

 まったく、あんな約束でマリーを泣かせるなんて。戻ってきたら、一発殴り飛ばさないと気がすまない。

 命に代えて守るだと? 当たり前だ。ソランは次期領主で、イアルはその片腕だ。そんな決まりきったことでマリーを縛るなんて、最低である。

 それに、命は軽々しく懸けるものではない。ソランですら殿下に対してそんなことは思ったことがない。殿下も守って自分も生き残る。だいたい死んだらお守りできないではないか。覚悟が甘いとしか言いようがない。

 私が死ぬまで、あいつは扱き使ってやる予定なのだから、簡単に死んでもらっては困る。

 もっとも、ソランのヘマを穴埋めしたから、ああいうことになったのだが、それはそれ、これはこれである。

 ふん、とソランは不機嫌に息をついた。


「それで、御用は?」

「殿下がお呼びだ」


 そう言いながら、ディーはソランをしげしげと見て、ふっと笑った。


「大丈夫そうだね」


 ソランは照れくさくなって、視線をそらした。


「一度、イアルを見てっていいですか?」

「うん。でも、急いで」

「はい」


 ディーを廊下に残し、音がしないようにそっと扉を開け、ソランは中に忍びこんだ。少し離れたままベッドの方をうかがう。

 マリーはイアルの手を握って、泣きつかれて眠っていた。あまり静かにイアルが寝ているので不安になり、よく目を凝らす。ああ、大丈夫だ。ちゃんと胸が呼吸に合わせて動いている。

 これ以上近づけば、マリーは目を覚ましてしまうだろう。眠りは人の心を癒す。今はまだ、この平穏を破りたくない。

 ソランは再び静かに部屋を出た。そしてディーに先導されて、殿下の許へと向かった。




 二つ隣の部屋の中には、殿下がテーブルの前の椅子に座っていて、その後ろに新たな護衛としてイドリック、キーツ、べイルが立っており、祖父は向かいに立っていた。


「遅くなりました」


 ディーと二人、祖父の横に並ぶ。


「いいや。落ち着いたか」

「はい。ありがとうございました」


 謝れば叱られそうな気がした。だから、時間の猶予をくれたことに感謝した。

 殿下はディーに視線を投げかけた。ディーは頷き返す。ソランに再び視線を戻し、なぜか殿下の眉間に一本縦皺が入った。不機嫌であるようだ。

 また説教だろうか。ソランは緊張した。


「ソラン」


 祖父に呼ばれてふり向くと、笑いを堪えた変な顔をして、組紐を一本渡された。ソランは手早く髪を束ねて、殿下に向き直った。殿下は額に手を当てて、疲れたように溜息をついているところだった。


「まあ、いいだろう」


 深い深い溜息をもう一度こぼし、殿下は言った。ソランへと視線が向けられる。ソランは自然と姿勢を正した。


「おまえの伝言を、エメット婦人に伝えた男が死んだ。心当たりはあるか」

「はい。確かにお願いしました。ここに私の医療鞄を届けて欲しいと。彼は殺されたのですか?」

「籠の中のパンに毒が仕込まれていた」

「まさか」


 ソランは言葉を失った。あれは王妃が今日の慈善事業を労ってくれたものだ。それを王女が護衛に取りに行かせた。


「二つともですか?」

「そうだ」

「他に死んだ者は」

「食べた、その一人だけだ」


 では、狙われたのは、


「私ですか」

「恐らく」


 イアルを狙う動機がない。


「王妃には話を通し、内密に取調べてもらっているが、おまえの安全の確保が難しい。剣の(あるじ)であるために狙われているのかどうかもわからぬ。別の理由で狙われたなら、まだ、主であることは隠しておきたい。一度ファレノ家に帰すことも考えたが」

「嫌です」


 殿下が話している最中だというのに、ソランは思わず口を挿んだ。


「と言うだろうと、アーサーが言うのでな。おまえの様子を見て決めることにしたんだが。……忌々しい。おまえに人並みの神経を期待した私が愚かだった」


 苛立たしげに息を吐く。


 あんまりな言いようである。なぜそんなことを言われなければならないのか。

 見れば、皆、にやにやしている。なんとなく殿下だけでなくソランも笑われている気がして、不愉快だった。


「とりあえず、おまえは今回の件で大怪我を負ったことにする。ここから動かせぬほどのな。

それで、おまえの身を隠す場所なんだが」


 殿下は首を傾げて、ソランを注視した。


「はい、はい! 発案者の俺から申し上げていいですか!」


 ディーが子供のように手を挙げた。殿下は投げやりに手を振った。許可するということだろう。


「殿下のお傍を離れる気はないんだよね?」

「ありません」


 ちょっと離れてもこれだ。危険な中に一人で放りだし、ソランだけ安全な場所にいるわけにはいかない。


「だけど、ソラン殿の容姿は良くも悪くも目立ちすぎる。一度目にしたら、魂まで奪われるからね」


 そこでディーは片目をつぶった。そんなのはあなただけです、と反論したいのをぐっと抑えた。殿下に、聞き流しておけと再三にわたって忠告されている。


「それで、変装したらどうかと」


 変装。それはかまわない。が、なぜ、それほど嬉しそうなのか。

 嫌な予感に、ソランは先回りしていろいろ挙げてみた。


「下男でも老人でもなんでもかまいません」

「うん。でもそういう人たちは、殿下のお傍に侍れないから。

だから、ソラン殿の姉君になるのはどうかな。それで、殿下の愛人になるの」


 ソランは表情を消した。心理的な衝撃に、無表情なまま一歩後ろによろめいた。


「出会いは、こう。ソラン殿の危篤の報を受けた姉君は、取るものもとりあえず、ソラン殿の許に駆けつける。そこへやはり危篤の報を受けた殿下もいらっしゃって、一目惚れなさる、と。

まあ、同情が横滑りってのも、けっこうロマンティックかもね。そのへんは二人のお好みで決めて?

それで、保護と銘打ってご自分の許に囲ってしまうと。

姉君は姉君で、ソラン殿と共に修めた医術でもって、弟が命を懸けて守った殿下にお仕えしたいと。

そんなこんなのうちに、恋仲に発展した、なんて」


「馬鹿馬鹿しい」

私が女装してバレないわけがないでしょう」


 ソランは吐き捨てた。


「じゃあ、おうちで待機だよ。どう考えたって、ファレノの私兵の方が、信用できるでしょ?」


 軽い調子で言い返されて、たじろぐ。


「他に良い案があるなら、それでかまわないよ。でも、代行案もないのに否定したら、物事は先に進まないからね」


 ディーは肩を竦めた。


「猶予は四日。ソラン殿の領地に知らせが行って、駆けつけるのって、それくらいかかるんでしょ?

それまでに、女装をマスターするか、おうちで待機するか、決めて。

決心がついて、女装が板についたら、四日目に実行してもらうから。人のたくさんいる、昼間の明るいうちにね」


 ソランの顔が、明らかに強張った。


「殿下を一目で射落とす、可憐な美女を演じてもらうからね。駄目だったら、やっぱりおうちで待機だからね」


 『おうちで待機』という幼子に言い聞かせるかのような言い様に、むかっ腹が立つ。それに、


「ここで何かあったと知られるのはまずいのではないですか?」

「まずいよねえ。でも、何もなかったとは、できないんじゃないかな。毒を盛ったここの主人は、もうここじゃ商売できないしね。でしょ?」


 ディーは楽しそうに笑った。だが、その裏には底冷えのする事実がある。


「民衆はそれほど愚かじゃないよ。些細なことからでも、真実を拾い出す。とんでもない噂話にもなるけどね。だったら、こちらに不利な噂が広がる前に、美談で塗り替える」


 冗談めかしているが、けっして冗談ではない真面目な案として出しているのだと、やっと気付いた。


「民衆には何も伝えないよ。でも、ここでなにかがあったらしい。訳あり風の美女と殿下が別々に駆けつけ、帰りは美女を支えるように連れ帰る。

めったに公の場に姿を現さない殿下のラブロマンスだからね。すっごい妄想の余地有りだよね」


 いや。やっぱり面白がっているだけかも。ソランは頭を抱えたくなった。


「悪いことは言わん。暫くの間だ。真相がはっきりするまで、待機していろ」


 殿下が眉間の皺をさらに増やして言った。

 それは、嫌だ。

 ソランの頑なな顔を見て、殿下はまた溜息をついた。


「がさつなおまえに女装が押し通せるとは思わん。バレたら笑い者だぞ」

「そして殿下もね?」


 ディーが楽しそうに付け加えた。


「捨て身の主従愛だよね」

「おまえは少し黙っていろ」


 げんなりとして殿下は言った。

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