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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
第六章 変化(へんげ)
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1 イアルの約束

「ソラン・ファレノ・ド・ジェナシス。己が何者であるか、思い出せ!」


 引き離そうとする者を振り払い、イアルに縋りつこうとたソランは、怒鳴りつけられた。


「ここが戦場なら、おまえは今、部下を危険にさらしているんだぞ!」


 ソランはぴたりと動きを止めた。ぎゅっと目をつぶり、嗚咽をあげる。眦から涙がいくつも零れた。色が変わるほど握り締めた拳で顔を拭い、意志の力で呼吸を整えようとして、息を止める。何度もしゃくりあげ、大きく息を乱し、だがやがて、立って姿勢を正した。


「取り乱して、申し訳ありません、御領主」


 次いで、見守っていた殿下にもまなざしを向け、頭を下げた。黒い髪が血に濡れて重く束になり、血しぶきが涙にまじって斑に白い顔を彩っていた。

 その姿は凄惨でありながら、目を奪われるほどに美しかった。青い瞳は深淵を宿し、その姿形の美しさで以って魂を絡め取り、喜びのうちに死者を冥界へと連れ去るという、死の女王の眷属が現れたかのようだった。

 ソランは剣の血糊を上着の裾で無造作に拭き取ると、鞘に剣を納めた。それでも抜き身の剣を髣髴とさせる鋭い煌きは少しも薄れなかった。


「他に賊は」

「剣を持ち忍び入ったのは六名だけだ」

「店主は」

「眠っておる。他の護衛もだ。薬を盛られたようだ」

「被害は」

「二人死んだ。重傷一人、軽傷二人だ」


 矢継ぎ早なソランの質問に、殿下は一人の名も挙げなかった。ただの人数として表した。それから室内を見回し、全員に告げる。


「今日の王の慈悲に汚点を付けてはならぬ。死体は暗くなってから運び出せ。民衆に悟らせるな」


 そして、衣類の汚れていない者に、王と将軍への伝令を命じ、数名に着替えの用意と、清める水の用意を、また残りの者に一階の警備を申しつけた。


「すみません、ソラン殿、手伝ってもらえますか」


 軍医が声をあげた。


「傷口を縫います」

「はい」


 ソランはイアルの頭側に膝をつき、顔を覗きこんだ。イアルは薄っすらと目を開け、笑みらしきものを浮かべた。……苦痛に彩られて、全然成功はしていなかったが。


「大丈夫ですよ」


 軍医が力強く請合った。


「急所は外れています。傷口が大きいので出血も多いですが、止血が早かったから、なんとかなりましょう。さあ、縫ってしまいましょう」


 ソランは頷き、軍医の指示に従った。




 イアルは外に運び出されず、そのまま宿屋の一室に寝かされた。他の二名も剣による裂傷を負っていたが、包帯できつく巻く程度ですんだ。彼らも別の一室を与えられ、休ませられた。

 ソランたちは顔や手や髪を清め、血臭のすさまじい上着を取り替えた。それでもまだどこかについているのだろう。鼻の奥に血の臭いがこびりつき、いつまでも気になった。


 応援に駆けつけた者たちが宿屋内の検分を始めたが、ソランはイアルの病室に追いやられ、ぼんやりとしていた。祖父に怒鳴りつけられ正気に戻ったが、それは形ばかりのことで、本当は何も考えられなかった。

 殿下は別室で指揮を執っている。ソランもそれに加わるべきだった。賊が侵入した後、一番に駆けつけたのはソランなのだから。事実関係を伝えなければならない。けれどそれは共に行動した私兵に委ねられ、そしてソランは本来の仕事をしろとここに押し込められた。


 イアルは良く眠っていた。痛み止めが効いているのだ。

 彼は若く健康で体力もある。簡単に死ぬことはないだろう。そう自分に言い聞かせる。

 それでもソランは顔を歪め、喘いだ。苦しかった。怖かった。無力感に打ちのめされていた。大事なものが指の間から零れてしまう。それは一瞬で、なんと簡単だったことか。


 あったことの全部を始めから最後まで何度も頭の中で再生した。

 どこがいけなかったのか。王女に話しかけられても突っぱねて駆けつければよかったのか。殿下に護衛を増やすよう進言すればよかったのか。応援を待てばよかったのか。

 だが、どれも決定的な失敗ではなかった。その時々で妥当な範囲で判断を下してきた。だからこそ殿下を失わずにすんだ。だが、それでも犠牲は払われた。

 それがどうしようもなく怖かった。手を尽くしても失われるものを留めることができないなんて。


 いつからか人を殺すことを躊躇わなくなった時、強くなれたのだと思っていた。はじめは眠れなくなって、肉も食べられなかったのに。どのくらいイアルに抱きしめてもらって眠ったことか。吐くたびにそれを片付けてくれたのもイアルだった。

 でも、強くなんかなっていなかった。全然、強くなんかない。

 ソランは荒れ狂う心を宥めることができず、座ったまま、速い息を繰り返した。




 ノックの音に我に返った。ソランは枕もとの椅子から立ち上がり、扉へと向かった。


「誰ですか?」

「マリーよ」


 ソランは耳を疑った。だが声は続いた。


「マリーよ。ソラン、開けて」


 一番顔を合わせたくない人物だった。しかし、イアルとマリーは、たとえ意識がなくてもお互いに会いたいにちがいない。

 ソランは鍵を開けた。扉が開かれる。マリーが心配げにソランを見上げた。


「ソランは? 怪我はないの?」


 ソランは声を出せず、小さく頷いた。震える指が伸ばされ、ソランの頬に触れようとした。それを、とっさに避けた。マリーが目を見開く。信じられないというように。


「ごめん。汚れているから」


 言い訳をして、入り口を塞いでいた体を退けた。目をそらす。


「入って」


 招き入れて、また鍵を閉めた。もう敵はいないはずなのに、そうせずにはいられなかった。

 マリーはベッドの上で眠るイアルを見たとたん、足を止めてしまった。


「大丈夫。眠っているだけ」


 ソランは彼女の背に手を当て、枕もとの椅子にそっと誘った。彼女は操り人形のように座り込んだ。そのままイアルの寝顔を見つめ続ける。無表情に、息すらしてないかのようにして。

 ソランも彼女の横に立ち、同じようにイアルを見ていた。やがてマリーがぽつりと尋ねてきた。


「イアルは、ソランを守ったのね?」

「うん」


 マリーはくしゃりと顔を歪めた。


「馬鹿な人」


 震えた息を吐き出す。


「ごめん。ごめん、マリー」


 ソランは言うまいと思っていた言葉を吐いた。

 許しを請うつもりはなかった。許されたいと思わなかった。こんなになっても、後悔はしていなかった。次も同じことを何度でも繰り返すだろう自分を呪っていた。


「ソランは悪くない。私が、頼んだんだもの。ソランを守ってって。イアルが断れないのを知っていて。結婚の条件にしたのは、私なんだもの」


 マリーがソランを振り仰いだ。ソランはその事実に息も止まりそうなほど驚いていた。真っ青になり彼女を見返す。マリーは泣きそうに笑った。


「知っていたの。絶対守ってくれるって。命に代えても守ってくれるって。ずるいのは、私なの」

「違う、マリー」

「違わない! その証拠に、ソランが無事で、私、喜んでいる。どうしようもないくらい、喜んでいる!」


 マリーの目元に涙が盛りあがり、零れ落ちる。いくつもいくつも零れ落ちた。


「だけど、こんな気持ちになるなんて、思わなかった! 馬鹿じゃないの、この男!」


 そして顔を覆った。自分の膝の上に身を屈める。


「なんでこんな苦しい思いをさせるのよ。守ってくれるって言ったのに。幸せにするって言ったのに。こんなの、全然違うじゃない!」


 ソランは嗚咽を押し殺して泣くマリーを見ていられなかった。声も聞いていられなかった。

 だから部屋から逃げ出した。鍵を開け、廊下によろめき出た。けれど、他にどこにも行く場所が思いつかず、その場にずるずると座り込み、膝の上に両腕を乗せ、そこに顔を埋めてうずくまった。

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