5 盤上の遊戯
午後の残りは、イアルと部屋の引越しをした。奥の部屋をソランの寝室とし、手前の部屋の一角を衝立を運び入れて仕切り、イアルの寝室とした。
領内から送らせた大量の薬草類はソランの部屋に置くことにした。着る物は制服だから少ないし、あとは寝るスペースさえあればよかったからだ。
そのかわり共同スペースは広く取った。もとが上客のための部屋だから広い。これだけあれば、各種武芸の鍛錬ができそうだった。敷物も高級品なのだろう、毛足が長く分厚い。足音も響きにくかった。
中にあった高級家具類も使ってよいと言われたが、全部運び出してしまった。傷でもつけたら弁償できない。そのかわり、他の部屋にあるのと同じ書き物机と椅子を二脚用意した。まずは必要最小限でいい。足りない物が出てから足すのがソランの好みだった。
終わった頃に、他に何かお入用の物はございますか、と顔を出したエメット婦人は、何度か目を瞬いた。己の目を疑っているかのように、右から左へ、左から右へ、ゆっくりと見回す。
「ソラン様、情けのうございます。私室とは寛ぐお部屋ですよ。これではあまりにも殺風景です」
「様じゃなくて、殿、ね、エメット婦人。風除け用のタペストリーだって素敵だし、絨毯も素晴らしいし、これで充分だ」
満足気に頷いたソランに、婦人は悲しそうな顔をした。
「イアルがついていながら、これはなんですか。あああ、暖炉の上の花入れはどうしたんですか。籠の中の小汚い布はなんですか」
「うん、割ったら困るから、とりあえず前の部屋に持ってった。それから、あの籠の中は剣の手入れ道具が入っているんだ。その横のはタリア。よく使う物は、そこにみんな置いた」
タリアは盤上ゲームだ。騎士や歩兵を動かして王の駒を取る。上流階級の嗜みでもある。
暖炉の上の繊細な造りの飾り棚は、その他、靴磨きとおぼしき物や、替えのインク瓶に、髪留めの紐まで転がっていて、物置と化していた。
「天は二物を与えなかったのですね」
婦人は呆然と呟いた。
「んん? 何?」
「一部残念な性格でいらっしゃるとは聞いておりましたが、これほどとは……」
イアルが噴き出した。
「イアル! どうして笑う!? 今、すっごく失礼なこと言われたんだけど!」
「ええ、もちろんソラン様のせいじゃありませんとも。全て、あのアーサーの狸爺が悪いんです。そうでなくて、どうしてここまで男らしくご立派に育つことか。姿形はもとより、心根まで、ここまで男らしく躾けなくってもよかったでしょうに」
そして婦人は溜息をついた。
「ようございます。ここにいる間は、この方が確かに怪しまれませんでしょう、仕方ございません。ですが、婿をお取りになるときには、私、絶対に口を挿ませていただきますから」
「そんな、いつになるかわからない話」
ソランが笑うと、ぴしゃりと言い返された。
「ご安心ください。領民をあげて、これはという男をご用意しますとも。ご期待ください。こうしてはいられません。さっそくエレンに相談しましょう。エイダにも連絡を取らなければ」
王都と所領の屋敷の女性責任者の名前を連ねて、婦人はせかせかと部屋を出て行った。
ソランはいまだ笑っているイアルに目をやった。
「笑うな」
「だって」
「今すぐ行って、婦人を止めて来い。必要ないと言え。わかったな」
ソランは命令口調で扉を指差した。
「御意」
イアルは笑いを噛み殺すと、そそくさと婦人を追って出て行った。
それから夜の診察の時間になるまで、昨夜の話の続きをした。
王はソランの祖父に宝剣の主を守るように命じた。祖父はそのために、直接守ることはリングリッド将軍に任せ、自分は裏方にまわることを選んだ。そして、大領主をはじめとした権力者の下に部下を潜り込ませ、情報を集めた。
もちろん小領の事、人材にも限りがある。そこで物流については、同じく王家と密約を交わしているウィシュクレアの商人連合から情報を得ているし、大陸中に散らばる神殿にも情報網を張り巡らせ、こちらは父が管理しているという。いずれは弟ルティンが継ぐだろう。
王宮内の特に女性の動向については、ミアーハ嬢と母が引き受け、王都内については船頭組合と手を組んでいる。
いずれ近いうちに各々の責任者と会談できる機会を設ける予定であった。
イアルはまず、祖父の話を引き継ぎ、主な勢力図を話してくれた。これが複雑だった。
軍事大国ウィシュタリアの領主たちは国王から領地を下賜され、そこから上がる収益の一部を税として収め、それとは別に武力を以って仕える。
リングリッド将軍の束ねる王国軍は最大規模の軍事勢力であり、それぞれの領主一族の子弟を集めた権威ある軍でもあったが、領主たちが連合を組み襲い掛かれば、それを押さえるだけの力を持ってはいない。
そのために過去に幾度も内乱が起きた。それは自浄作用ももたらしたが、同時に腐敗の温床ともなった。
内乱のたびに勢力図が変わり、それに伴って領地も変わり、領主同士の確執、領地に関係なく土地に住む者同士の確執、あるいは繋がりが増え、今では複雑怪奇な勢力図ができあがっていた。
鐘が鳴る頃には、ソランは頭が痛くなっていた。これから先について、まったく自信が持てなくなっていた。
イアルは苦笑して言った。
「おまえは方向を示せばいいと言われただろ? どこに行きたいのか、何をしたいのか、どうなりたいのか。そのためにどうすればよいのかは、俺たちが考える」
そのためにも、まず情報を理解する必要がある。先の長さに、ソランは溜息をつきたくなった。
「おまえは、今、殿下をお守りしようと思っているんだよな?」
「そうだ」
「だが、先はわからない。もし手を引くことになっても、俺たちは決しておまえに文句を言ったり責めたりはしない。おまえの意思が我等の意思だからだ」
ソランはただ頷いた。
「己の決定を恐れるな。それがどんな犠牲を伴おうと、躊躇うな。一番恐ろしいのは、するべきことを知っていながら為さず、後悔することだ。そんな愚か者にだけはなってくれるな」
イアルはソランと視線を合わせ、真剣に言い募った。
「我等にとって、死は生と同じく祝福だ。それがおまえの慰めとなるかはわからんが、我等はおまえと共に在れることを喜ぶ」
「うん。私も、おまえたちと在れることを喜んでいるよ」
二人は切なさを含んだ微笑を交わした。
大切なものこそが喜びをもたらし、だからこそ痛みも与える。まさに禍福はあざなえる縄であった。
今夜の殿下は、一人でタリアを弄っていた。本を片手にコツン、コツン、と駒を置く音が静かな室内に響いていた。
少々疲れ気味ではあるようだが、特に問題はなく、一つ気掛かりといえば、目が冴えてしまっているようであることだった。そもそもタリアなど、寝る前にやるべきものではない。だが、手慰みにやっているものをやめるように進言するのも無粋だし、なにより局面が詰まっていて、これではベッドに入っても展開が気になって余計に眠れないだろう。
ソランの視線に気づいたらしく、殿下は本の表紙を見せてくれた。
「エンラッドの名対局集だ」
エンラッドは百年ほど前の名人だ。彼の特徴は勝つことではなく、負けないことにある。だから往々にして、今ここに展開されているような、詰まって硬直した局面に至ることが多い。不敗であったと言われているが、引き分けが多かったことでも有名だ。
「おまえなら、どうする?」
「手前側でよろしいのですか?」
「うん。では、こうするか」
そう言って、殿下はそっと盤を回した。今まで殿下側にあった方をソランに向けたのだ。
「勝てばよろしいので?」
「ああ」
ソランはもう一度局面を確認し、騎士の駒を前に進めた。敵王の傍に肉薄する。だがそれはすぐに次の殿下の番で討ち取られた。進んでは敵を屠り、討ち取られるそれは、実際の戦場だったならば、凄惨な消耗戦であっただろう。
しかしソランは怯まずに殿下方の守りを切り崩し、王手を詰んだ。お互いの手元には片手の数の駒しか残っていない、酷い対局だった。
「本当にこれをやるつもりか」
殿下は険しい顔で盤上を見ていた。
「勝てとおっしゃられたので」
目を上げ、ソランを眉を顰めて見る。
「それに、ただのゲームにございます」
殿下は目をそらし、苛立たしげに息をついた。そしてかいた胡坐に頬杖をつき、何事か考えこみはじめた。ソランはしばらく傍で控えていたが、もうよかろうと、にじり下がろうとした。
「ソラン」
名を呼ばれたために、ソランは動きを止めた。殿下は体を起し、ソランに視線を向けた。
「マルティーク・トレドとは随分親しくなったようだな」
「はい」
「おまえときたら、呼んでも来ないで、いったい何を話していた」
「王都は不案内だろうから、非番の日に遊びに連れて行ってくれると誘ってくれました」
「非番、か」
殿下はソランに目を留めたまま、考えている様子だった。
「さすがに閉じ込めておくわけにはいかんか」
「私はかまいませんが、イアルには休みをやってください。待っている家族がいますから」
「王都で行ってみたい所はないのか」
「ええ、まあ、隅々まで歩いて地図を作ってはみたいですが。排水施設もまだ見てないですし」
「またそれか」
笑われる。
「もちろん市場で市場調査もしたいです」
「調査?」
「はい。売れ筋とか、どんな人達が来て、どんなものを必要としているとか」
「おまえはそんなことばかり言っているな。金儲けにでも興味があるのか」
「はい。領民を養うにはお金がいりますから」
「普通は反対だろう。領民から税を集めるのだ」
「はい。ですが、領地を富ませるのも領主の仕事です」
殿下は黙りこんだ。やがて苦笑し、また頬杖をついた。姿勢が変わって視界に入ったのだろう、盤上の駒を一つ指でつついて、倒した。
「おまえの領民はさぞかし幸せであろうな」
また一つ倒す。ソランは駒に重ねて見てしまった痛みに、口元を引き締めた。
「はい。そうあれるようになるのが、私の義務です」
少し固い口調で答えた。殿下はまたソランを見た。手を伸ばし、指でソランの顎に触れた。それからなぜか、鼻をつままれた。
「あのリリア・コランティアでさえ、守りきれなかったものがある。両手で抱えられるものには限界がある。……それを心に留めておけ」
鼻を放され、思わず息を止めていたソランは大きく息を吸った。気になって、鼻を擦る。
殿下はクスクスと笑い、もう下がってよいと言った。
「おやすみなさいませ」
そう挨拶したソランに頷き、殿下は盤上から下ろされた駒を拾って、もう一度並べはじめた。