2 我が名の下に戦え
会議が終わり、別れの挨拶の途中だった。軍から出向いた三人が、ソランの母リリア・コランティアの許に赴き、ぜひにお願いしたいことがある、と言いだした。
「先の大乱の折のコランティア殿の武勇に深く感服しております。軍門を去られ、目通りが叶う日が来るとは思っておりませんでした。このたびのこと、天の配剤に感謝しているところです。これを逃すは天命に逆らうに等しきことと思い、無礼を承知でお願い申し上げます。どうかお手合わせ願えませんか」
母はゆったりと優雅な礼を返した。
「申し訳ございませんが、軍門を退いて久しき私など、陛下の剣であられるあなた方に敵うものではございません」
「ご謙遜を。貴殿は未だ陛下より帯剣を許されていらっしゃるではありませんか」
「かたじけなくも、陛下は我が手より愛しき者が分かたれて以来、帯剣をお許しくださいました。これは我と我が愛しき者を守るためだけのものにございます。軍門を去った時に、二度と己からは剣を抜かぬと誓いました」
男たちは、表情を抑えて語る母の言葉に、はっと息を呑んだ。彼女が愛しい男の子を身篭り、軍を退いたことは有名であった。また、その子が残党の手により命を落としたことも。
実は、その子は辺境で育ち、ここにこうして元気でいるのを知るのは、領民を除けばほんの一握りの者たちだけだ。また、彼女の旧姓を知る者も、それと同じ者だけだった。
「申し訳ございませんでした。心無きことを申しました。どうかお許しください」
「どうぞお気になさらず。誠に頼もしき方々がおられ、陛下の御世もますます安泰であると安心いたしました」
「過分なお言葉、恐れ入ります。ご期待に添うよう、誠心誠意尽くすことを誓います」
「御武運をお祈りいたします」
男たちは感激しきりのようであった。興奮気味に足を運ぶ。殿下が、不意に思い出した、という態で呟いた。呟いたというには、大きすぎる声であったが。
「同じクレインの剣の使い手ならここにいるがな」
「えっ。あのクレインのでございますか?」
男たちが食いつくように反応した。ソランは嫌な予感に一歩下がった。あのご隠居がなんだというのだろう?
「そこのファレノと、恐らくランバートのもそうだろう」
「本当ですか、ファレノ殿、ランバート殿」
詰め寄られる。しかも相手が年下の新入りなせいか、遠慮なく肩を掴まれ揺さぶられた。
「剣を見せていただきたい」
嫌だった。帯剣をしている者に囲まれているのに剣を手放すなど、自殺行為である。誰が不死人なのかもわからない。ソランが敢えて不機嫌を示すと、これはつい失礼をした、と謝られた。
「剣の峰を見せてください。そこに銘が入っていると聞き及んでいます」
「しかし、王宮で抜くわけにはいきません」
イアルが冷静に指摘した。
「よい。私が許しましょう」
王妃が口を出した。
「リリアのも見せておくれ。見比べれば本物かどうか一目瞭然でしょう」
王妃の願いを断るわけにはいかない。母が近寄ってきて剣を抜いた。ソランはその仕草と鞘擂りの音に緊張した。戦う気はないとわかっている。それでも相対するだけで恐怖が勝る。母には勝てないと確信する。
母は剣の平に手を添え、字の刻まれた面を相手に向けて見せた。ソランもイアルも同じようにして見せる。
『汝、他者に死を与えんと欲する者、女神は汝の上にも平等に死を恵む』
騎士の一人が読んだ。
赦しの言葉だ。女神マイラは、この剣で殺された者を懐に招き入れ、癒す。そして、この剣で罪を犯した者にも、同じく死を賜る。それによって罪は購われ、魂は浄化される。女神は善き者にも、また悪を為した者にも、平等に慈悲を与え給うのだ。
「ああ。死の呪いだ」
彼らは恐れたように身を引いた。
「死の呪い?」
ソランは納得がいかず、聞き返した。
「知らずに使っているのですか? これで人を殺せば、自らも死ぬと言っているのですよ?」
「死なぬ者などいましょうか。死は遅かれ早かれ誰の上にも訪れるものです」
口を開こうとしたソランを遮り、母が諭すように言った。
「それだけのことでしょう、ファレノ殿?」
暗に何も言うな、というのを感じ取り、ソランは頷いた。女神の教えがないとはこういうことなのだろう。死は恐怖に満ちたものとなってしまうのだ。
「覚悟が違うということですか」
一人が反感に満ちた目で、ソランを見据えた。マルティーク・トレドという男だ。ソランは剣を仕舞う振りをし、その視線から目をそらした。どうやら、ひよっ子が大きな口を利くと思われたようだ。
ソランは溜息を噛み殺した。母があまりにまともにすらすらと話をしていたから、うっかりしていた。彼女の言葉はたいていの場合足りず、多大な誤解を与える。例えば、幼い頃、ソランが祭りに出るのを嫌がって泣き喚いたように。
「放浪の鍛冶師クレインは、己の腕に見合う者にしか剣を鍛えなかったという。彼が姿を消して十数年、年齢から考えて、あなたたちは最後の剣の主かもしれんな」
いいえ、今でも元気で、剣やら短剣やら斧やらを毎日鍛えています、蹄鉄作りや鋳掛け物の合間に。というのは黙っていることにした。それに気の好い爺さんで、領内の子供から年寄りまで、誰にでも分けへだてなく作ってくれる。もしも気難しいことを言っていたというのなら、それは相手が悪かったのだと断言できる。
「お手合わせ願えるかな、ファレノ殿」
「私はコランティア殿の足元にも及びません。もし同じ銘の剣をもっているから腕前も同じだろうと思われるのでしたら、買い被りに過ぎます」
いらぬ波風を立てる気はなかった。だいたい、王妃をはじめ、女性方のいる前で言い争うなど、愚かしいことだ。
「昨朝の修練場の噂の色男も貴殿であろう。落とせるのは女性だけか」
侮辱して煽ろうとしているが、その手には乗らない。
「誰か他の方とお間違えかと思われます」
ソランは軽く頭を下げ、俯き加減の姿勢を保った。目を合わせればもっと反感を買うだろう。
「ソラン」
殿下に呼ばれた。なぜだかとんでもなく親しげに。恐る恐る顔を上げる。殿下は薄く笑みを浮かべていた。
「ちょうどよい。これから修練場で一汗流すつもりであった。おまえもその者たちと手合わせするがよい」
楽しそうだが、どことなく剣呑だ。煮え切らない態度を不快に思ったらしい。
「仰せのままに」
他の返事は求めていない。そう感じて、ソランは従順に頭を下げた。
王妃が、パン、と手を打ち合わせた。
「ならば、私も見に行きましょう。各々方、どうしますか?」
女性陣は、もちろんお供します、と口々に言った。とても楽しそうである。
一行は修練場に移動することになった。
修練場脇の回廊内に設置された扉つきの棚から、刃のつぶされた練習用の剣を選んだ。長さの似たものの中から同じほどの重さのものを選び、そこからさらにバランスのよいものを探す。少々軽いがこれでいいかと思うものを手にし、ソランは回廊から外に出た。待ち構えていたイアルに注意を受ける。
「いいか、ソラン。足蹴りはなし。組み手もなし。その他武器もなし。剣だけ使うんだぞ。でないと侮辱したと思われるからな」
「わかった」
他の得物を突然使われる心配がないのなら気楽だった。でも、足を出さないようには気をつけないと、と簡単に動作を頭の中で確認する。なにしろ、なんでもありの戦い方が体に染み付いてしまっている。
ソランはしばらく瞑目した。それから修練場の真ん中に足を運んだ。
「ソラン」
ふいに殿下が呼ぶ。ソランは、はい、とそちらに向き直った。殿下は枠外にいる試合わない者たちの真ん中に立ち、鋭くソランを見据えた。
「我が名の下に戦え」
それは、負けるなということだろうか?
適当なところで場を濁そうとしていたのを見抜かれていたらしい。
まったくもって、我儘な方だ。そう思った。一見我儘の多い王妃よりも王女よりも、勝手なことばかりするエルファリア殿下よりも、よほど性質が悪い。
なのに、なぜか嬉しくなる。心が浮き立つ。体が熱くなってくる。望んでくれるのなら、ぜひにもその願い叶えてみせると、思わずにいられない。
ソランは喜びそのままに笑んだ。胸に右手を当て、頭を下げる。
「仰せのままに」
そしてトレドと向き合った。礼を交わしてから剣を構える。同じタイプの剣だ。彼の方が少し長いかもしれない。背も高く、その分腕も長い。もちろん踏み込みも大きいだろう。不利なことばかりである。
だが、戦いはそれがすべてではない。事実、母はソランより小柄である。それに、相手はたった一人だ。
領地での練習では、常に三人以上を相手にしてきた。十人抜き、二十人抜きの場合は四方八方からとなる。しかも獲物も一種類ではなかった。目の前の敵だけに集中すれば良いのだ。身構える必要すら感じなかった。
ソランは、隙をうかがって円を描くように歩きはじめた男に向かって、無造作に踏み込んだ。一打を警戒して構え、力を入れた途端に動きが硬直した一瞬を狙って、相手の剣に自分の剣全体を絡める。次の瞬間には、捩じるようにしてその手から弾き飛ばしていた。
あっけないものだった。相手は己の手と飛ばされた剣とに忙しなく目をやり、呆然としている。ソランは静かに剣に歩み寄り、拾って砂を払った。彼に渡す。
トレドはソランを凝視していた。驚きが見て取れた。ソランは黙って礼をした。
「あ」
そう声をあげた。かと思うと、彼は突然膝を折り、片方を地につけた。その状態で見上げてくる。
「御見逸れしました。数々の失礼な言動をお許し願いたい」
ソランは状況を確認するために数回瞬きし、彼に向かって手をさし伸べた。
「許すも何も、気にしておりません。どうか立ってください」
「いいえ、私はあなたを侮っていました。それがこの様とは。まったくもって恥ずかしい」
彼は羞恥に顔を歪めた。
「さすがクレインの使い手。殿下が名をお与えなさるだけのことはある」
そして反省を数秒で済ませたらしい彼は、今度はキラキラとした目で、ソランの手をガッシとばかりに掴んだ。
「ぜひに、もう一手所望したい! お付き合い願えるか!?」
願うも願わないもない。受けるまで手を離すつもりはなさそうだ。
硬い言葉に規律正しい動きの彼を、気難しい男だと思っていたが、実は違っていたらしい。どうやら熱血単純剣技マニアなだけだったようだ。歴戦の勇者が相手だろうが、王妃の前だろうが、突っ走らずにはいられないほどの。
そう気付いた途端、ソランはにっこりと笑った。そういうタイプは好きである。そういう連中と馬鹿をするのは、底抜けに楽しいものだ。
「はい、喜んで」
ソランは力いっぱい手を握り返し、大きく振った。