5 王家の兄弟
「兄上、アティスです」
ノックの音とともに、アティス殿下の声がした。思いがけない人の訪いに、ソランは扉を注視した。
「少し待っておくれ」
エルファリア殿下は扉に向かって声をあげた。それから小声で、椅子に腰掛けられるよう手伝って欲しいと、ソランに頼んだ。彼女は失礼しますと声をかけ、脇の下に体を入れると、腰を支えて持ちあげた。
彼は椅子に落ち着くと、今度はソランに顔を拭うように勧めた。そういえば泣いたような記憶がある。すっかり忘れていたソランは、顔を真っ赤にして掌で拭った。エルファリア殿下がクスリと笑った。
「どうぞ」
改めてアティス殿下を呼び入れた。
ソランは椅子から立ち上がり、アティス殿下に向かって礼をした。頷き返される。殿下が兄王子に頭を下げた。
「兄上、助かりました。ありがとうございました」
「いいや、もう一人の剣の主に興味があったからね。私も楽しい一時が過ごせたよ。ぜひまた来ていただけるかな、ソラン殿」
それに黙礼を返す。
「ところで、まだミルフェは頑張っているのかい?」
「ええ」
「では、兄弟が揃ったわけだ。おまえは滅多に顔を出してくれないからね」
「申し訳ありません」
ほんの少し罪悪感を覗かせて、アティス殿下が謝罪した。
「わかっているよ、忙しいのは。どうだい、少しお茶に付き合ってくれないか?」
「はい、喜んで」
「では、手を貸しておくれ。私も久しぶりに居間に行くとしよう」
ソランは微笑ましい兄弟のやり取りを驚きを持って眺めていた。生まれたときから人を従えていそうな殿下が、兄君の前では弟そのものだった。
殿下が兄君を支え起こしたのを見て、ソランは膝掛けを取ってから急ぎ扉に向かい、先に開け放した。癖のように室内の安全確認をする。女性二人がソファに腰掛けているだけだった。ただ、廊下の外の気配が増えている。
「殿下、護衛は廊下に?」
「ああ、イアルもいる」
それならば問題はない。ソランは道をあけた。
エルファリア殿下が現れると、ミアーハがすぐに立ちあがった。ソファにクッションを集め、座る場所を整える。
「お茶の用意をしてもらえるかい、ミアーハ」
「かしこまりました」
ソランの渡した膝掛けで足をくるみ、覆う手つきも、姿勢が保ちやすいように背中にクッションを入れる仕草も、お互いに微笑みかわす様子も、愛情に満ちていて少々目のやり場に困った。
視線をうろつかせていると、殿下と目が合い、なんとなく同じ気分であることが知れた。一人ミルフェ姫だけが、仲がよろしくて羨ましいです、と羨望のまなざしであった。
アティス殿下に、そこに座れ、と指を差された場所に腰を下ろす。エルファリア殿下の向かいのソファにあたるが、姫からは一番遠い席だった。隣にさえぎるように殿下が座ってくれ、ほっと胸をなでおろす。そこではっと我に返り、
「いえ、私も警備を」
「今更なんだ」
立ちあがりかけたソランを、殿下が押さえつけた。
「ですが、私はとても同席できるような立場ではなく」
「今のおまえは陛下の客人だろう。何も不都合はない」
「そうだよ。ミアーハがあなたの分もお茶を用意するはずだから、おとなしくそこにいなさい」
「でしたら、私がお庭を案内してさし上げます」
ミルフェ姫がそわそわとして、ソランに微笑みかけてきた。
「許可できん」
「今日はダメだよ、ミルフェ」
兄二人に同時に止められて、姫は可愛らしくふくれた。そして八つ当たりをする。
「アティスお兄様、女性にその言い方はどうかと思います。そんなきつい言い方では、傷つきますわ」
「おまえは妹だろう」
「妹だって女性です!」
「まあ、確かに弟ではないな」
ニヤリとする。姫は煽られて、さらに怒った。
「だいたいお兄様、女性に断りを入れるのにも言いようってものがありますのよ。黙れとか触るなとか命令口調で凄むのはおやめになってください」
「あれは女性じゃなくて、狐か狼が化けた何かだろう」
「まあっ、私のお友達を侮辱するなんて!」
姫は立ちあがって、握り拳を振った。対する殿下は、うるさそうに己の耳を封じた。
「ひどいですわ! お兄様の、ばかっ」
これはまさしく兄弟喧嘩である。アティス殿下の兄弟喧嘩。珍しいそれを、ソランは目を丸くして見ていた。
「ミルフェ、お座り。お客様の前だよ。アティスも言いすぎだと思うよ」
姫は座ったが、お互いにそっぽを向いている。やがて、アティス殿下が低い声で言った。
「悪かった。言い過ぎた」
「いいです。私も言い過ぎました」
エルファリア殿下がそれを見て微笑んだ。いかにもお兄様、という感じである。感心しきりのソランと目が合うと、さらに笑みを深めた。
「ただ、頼む。頭の中に花畑を持っているような女性はけしかけてくれるな」
「はなばたけ?」
姫が首を傾げた。
「星が二人を祝福しているとか、二人の運命を告げる風の囁きが聞こえるとか、私にはさっぱり理解できない言葉で話す者たちだ」
「お兄様」
姫が可哀想なものを見るような目をした。
「少し詩のお勉強でもなさいませんと、女性に相手にされませんわよ」
「あれらは女性とは違う生き物だ」
「もう、お兄様ったら! お兄様が早く婚約してくれないと、私は行き遅れてしまいます!」
「私に遠慮することはない」
「遠慮とかそういう問題でないことは、お兄様だってわかっていらっしゃるでしょう?」
「私は」
何かを言おうとした殿下の言葉を、エルファリア殿下は遮った。
「今日はそこまでにしておこう。ミアーハがお茶を用意してくれたからね」
有無を言わせぬ態度で場を収め、不満顔の兄弟たちを黙らせたのだった。
ソランは、アティス殿下と一緒にエルファリア殿下の御前を辞した。四時を大幅に回ってしまっており、あたりは薄暗かった。庭園は所々に篝火が焚かれ、幻想的な雰囲気だった。散策を楽しむためならうっとりするような光景だったが、警備となれば視界の悪さに緊張する。
「それほど警戒する必要はない。ここは王宮でも最も奥まった警備の厳しいところだ。兄上が常時おられるからな」
殿下はゆったりと歩きながら言った。
「おまえは、兄上の症状をどう見た?」
「カルテも見ておりませんし、正式に診察したわけでもございませんので、なんとも言えません」
「そうか。そうだな」
殿下は溜息らしきものをついた。
「信頼できる侍医がいらっしゃるのでしょう?」
「ああ」
この人があれほど慕っている兄のために手を尽くさないわけがない。もちろん、恐らく両陛下も。それでも、弱っていく家族を看るのは辛いものだ。気休めを言ってあげたかったが、時にそれすら心を刺す。ソランは別の言葉を選んだ。
「芯のお強い方ですね」
あれほど弱った体を持ちながら、穏やかでいる。それはどれほどの忍耐が必要であることか。
「素晴らしい方なのだ」
殿下は噛み締めるように言った。
「きっとそれは、殿下がいらっしゃるからです」
「私が?」
殿下は半歩後ろを歩くソランを振り返った。
「はい。殿下の将来を楽しみにしておられました」
殿下が夢を叶え、呪いが解けることを。兄としても、不死人としても。それを糧に己を保っているのだろう。先に望みがなければ、苦難に耐えることはできない。
「あの方は」
殿下は険しい表情になって吐き捨てるように言うと、まっすぐ前を向いた。
「ご自分の幸せを考えられれば良いものを!」
「それがあの方の幸せでいらっしゃるのでしょう」
「知ったようなことをっ」
再び振り返り、鋭く睨みつけてきた。足が止まる。
「知っております。お聞きしましたから」
「おまえも私に王太子になれと言うのか」
「いいえ。殿下がお望みになられないことをお勧めする気はございません」
「遠まわしに仕向けようというのか。なお悪いわ」
「それも本意ではございません。ただ、納得される道を選んで欲しいだけでございます」
「小賢しいことを」
殿下は顔をそむけ、足早に歩き始めた。
不興をかってしまった。ソランは座りこみたい衝動に駆られた。地面にめり込んでしまいたい。
ソランはいたたまれない重い沈黙の中を、殿下の背を見ながら歩くしかなかった。