4 ミルフェとエルファリア
「ミルフェ、入っていらっしゃい」
しばらくの談笑の後、王妃が建物に向かって声をかけた。開け放たれていた扉から、おちついたピンク色のドレスを着た少女が現れた。スカートを上品に摘みあげ、優雅に挨拶をする。
「ミルフェ・ウイシュタリア・エレ・ダレルでございます」
ソランはすぐさま立ちあがり片膝をついた。
「ソラン・ファレノ・ド・ジェナシスでございます。お目にかかれて光栄です」
王妃に似ているが、纏う空気が全然違った。朗らかな少女の明るさに満ちている。
「どうぞお立ちになって。末の姫です。今朝の噂を聞いて、ソラン殿にお会いできるのをとても楽しみにしていたのですよ」
「母上」
王女は慌てた。頬を赤らめる様子は、とても微笑ましかった。
「エルファリアのことは知っていますか?」
「第一王子殿下でいらっしゃいますね?」
「そうです。あれもあなたに会いたがっていますの。ただ、床を離れられなくて。会っていってやってくれますか?」
「承知いたしました」
「では、ミルフェに案内させます。ミルフェ、頼みましたよ」
「はい。ソラン殿、こちらです」
にっこりと建物の方を示した。ソランはそれに頷いて見せてから、両陛下に挨拶をし、王女の後に続いた。
「ソラン殿の御領地はどんな所なのですか?」
王女は廊下を先にたって歩きながら、少し振り返るようにして尋ねてきた。
「北方の辺境地でございます。山や森や草原ばかりの、長閑な所でございます」
「まあ、それで」
足を止め、向き直る。その顔には感嘆の表情が浮かんでいた。
「それで精霊王のような方なのですね」
精霊王とは、草木に宿る精霊や動物たちを束ねる精霊族の王を言う。動植物の種類ごとにいるとも、すべてを束ねる王がいるとも言われている。
大地の女神であったマイラの眷属であるが、同じ眷属の巨人族や小人族が醜い容姿として語られるのに比べ、神々に勝るとも劣らない美貌として伝えられている。
この王女は突拍子もないことを言う。ソランは笑った。殿下は我が妹は幼児かと言っていたが、夢見がちであることは確かだ。
「お戯れを」
「そんなことありませんわ。そのお歳で医術の腕を見込まれて兄に仕えておられるのでしょう? 医術の始まりは精霊たちが教えてくれたというのですもの。だから、そのように思ったのです」
「いいえ、私などまだまだ学ぶことの多い未熟者にございます」
「ご謙遜を。剣の腕もたつと聞きました。兄は厳しい方ですもの。気に入らなければ、傍に近づけもしませんわ」
「殿下方のご期待を裏切らぬよう、精進してまいりたいと思います」
ソランは軽く礼をしたまま俯いて話をさえぎった。夢物語のような褒め言葉など、現実離れしていて少し苦痛だった。
王女はやっと思い出してくれたのか歩きはじめてくれた。歩きながらも話しどおしであった。庭に目をやり、ここの庭は美しいでしょう、から始まり、第一王子の療養のための離宮であること、あまり出歩けない殿下のために特に庭が美しいここが選ばれたこと、体の調子の良いときはお散歩すること、本当に優しくて賢くて貴公子の鑑のような方であること、対してアティス殿下はもちろん尊敬しているし大好きだけれど、女性への態度が悪くて大減点であること、殿下が婚約してくれないと自分も結婚が遠のくこと、だからお友達を紹介しているのに取りつく島もないこと、第一王子殿下の爪の垢を飲ませようとして王子の婚約者のミアーハ嬢に止められたこと、ミアーハ嬢は将軍の娘でとても強く、王子の護衛も兼ねていること、強くて美しくて優しくて素敵な方で憧れていること、などなどなど。それは箱庭の中の美しい御伽噺を聞いているようだった。
アティス殿下に敵対する者の中に王女派があると聞いていたから、どんな方なのだろうと思っていたのだが、これでは政敵にはなり得ないだろうと思われた。王女の夫となる者が、その役を担いたいのだろう。
相槌に疲れ果てた頃、上階の一部屋に辿り着いた。衛兵に取り次ぎを求める。待たされることなく、すぐに中に通された。
応接セットのある居間には、凛とした雰囲気の女性がいた。今話を聞いたばかりのミアーハ・リングリッドだと名のった。そして、どうぞお一人で寝室へいらしてください、と言った。
ソランは奥の扉の前に立ち、ノックをした。どうぞという応えがあり、彼女は躊躇せず中に踏み入った。
ベッドの手前に小さな応接セットがあり、そこにある椅子の一つに男性が一人座っていた。
「お初にお目にかかります。エルファリア・ウイシュタリア・エレ・ディエラでございます。お呼びだてして申し訳なく思っております、黒の神官様」
過分な言い様にソランは驚き、また黒の神官と呼ばれたことで警戒もする。それでも片膝をつき、臣下の礼で挨拶する。
「どうか私の前では膝をおつきにならないでください。私は罪人です」
不穏な物言いに困惑する。ソランはそのままの姿勢でエルファリア殿下を見返した。すると彼は膝掛けを剥ぎ、椅子の腕掛けに手を添え、立ち上がろうとした。よろめく。ソランは急ぎ駆け寄った。
触れた腕は男性のものとは思えぬほど細かった。また、肌も病的に白かった。弱弱しい感覚に、ソランは祖母を思い出して不安になった。
「どうぞ安静になさってください」
「いいえ、あなたが跪き、私が座ったまま挨拶するなど、やはり許されることではありませんでした」
「わかりました、もういたしませんから、どうかお戻りください」
「本当に申し訳ございませんでした。どうぞそこの椅子におかけください」
楽に整えてさしあげようとしたソランの手を断り、彼は自分で腰掛けなおした。それを見届け、ソランも椅子に腰を下ろした。とても座り心地がよかった。
彼もまた、両陛下がそうであったように、しばらくソランをじっと見ていた。
「長い話になりますが、聞いていただきたいことがあるのです」
「はい」
彼はそう言いながらも、言葉を探し、しばし言いあぐねた。
「私は、いえ、我らは、数千年前、アティスを殺しました」
やがて何の表情も浮かべず、彼は口だけを動かして、信じがたい告白をした。
「私は不死人です」
ソランは驚きすぎて無表情になった。動揺を悟られないように身につけたそれから、エルファリア殿下は目をそらし俯いた。
「私はその時も、今と同じく彼の兄でした。ただし母は違いました。私は彼より数ヶ月早く生まれ、そして母の身分も高かった。何事もなければ、私が王位に就くのがあたりまえでした。ですが、私は体が弱かったのです。
当時、この大陸は小部族国家が乱立して、血で血を洗う様相でした。その中で生き残るには強い王が必要でした。彼は申し分のない力量を持っていました」
彼はかすかに肩で息をした。よく見れば、体を支えるために両腕を下に突っ張っている。それでも話が終わるまでは、ソランから話しかけられる雰囲気ではなかった。
「王妃であった母は、どうしても私を王位につけたかった。だから、戦にまぎれて矢を射かけて殺したのです」
ソランは思わず己の心臓の位置を右手で押さえた。なぜかその痛みを知っている気がした。血の気が引く。
「私は、その企みを知っていたにもかかわらず、見て見ぬふりをしました。彼が出立の挨拶にこっそりと訪れ、次代の私の治世のために尽くすと誓ってくれた時も、黙っていました。
……私は彼が憎かった。己の利益を顧みず、見返りを求めずに人に与えられる強さが眩しくて、眩しくて、私も丈夫であったなら、同じことをできるものをと」
彼は顔を上げた。苦笑に似た表情を浮かべる。
「失って、知りました。同じことなど、できるわけがないと。
……彼は誓願を立て、神の加護を得ていました。だから、母が得た呪いの矢に射抜かれた時も、彼はすぐには死ねなかった。その代わり、死の苦しみを抱いたまま軍を率い、敵を退け、国を守った。その後、命を手放したのです」
心臓が、痛い。息が、できない。
ソランは知らないうちに泣いていた。感情が揺れてどうしようもなかった。
「この国の礎は、彼が築いたのです。この国は彼のものとなるはずだった。それが正しかったのです。それを、我らが歪めた」
エルファリア殿下はソランの涙を拭おうと手を伸ばしかけ、途中で躊躇い、指を握りこんで手をひいた。
「私は今生において、幸いにも彼と母を同じくして生まれることができました。ただ、前世と同じく兄として生まれてきてしまった。ですから、自ら毒を飲んだのです。決してアティスを王としたい者たちの画策ではありません。
聡いあれはそう疑って気に病んでいますが、本当のことを話しても、さらに思いつめるだけでしょう。それに」
彼は苦しげに目をつぶった。
「あの子に己のしたことを話したくもありません。彼にとっては、前世と現世はまったく別のものなのですから。別の人間として生きているのですから。
……それでも、そうとわかっていても、我らは何度でもあの子に枷をはめずにはいられません。あの剣を持たせ、王位に就かせる。この呪いが解けるまで」
先ほど陛下はなんと言っていたか。どの剣の主も短命だったと言ってはいなかったか。生き急ぎ、死に急いだと。
「何度も繰り返して、何度も追い詰め、殺したのですか」
ソランは怒りに震えた。
「殺した。そう言われればそうです。そのようなつもりはなかったのですが。我らはただ、途中で潰えてしまったあの子の望みを叶えたいだけなのです」
「あの方は王位など望んでおられない。ただ、この地を守りたいと思っておられるだけです」
「思いだけではなにも成就しません。願いを叶えたいのなら、それだけの力が必要です。そして、あの子の願いには強大な力が要る」
それはわかる。ソランでさえアティス殿下を守る力を欲した。それでも、
「それはあの方の望みではありません」
ソランはエルファリア殿下と睨みあった。不敬だとは思わなかった。
「だとしたら、あの子の本当の望みはなんだというのです」
力で支配すれば、いつか跳ね返り、己を切り裂く。道行きに邪魔だからとたわめた枝が跳ね返り、己が顔を打つように。それは平和とは違うものなのではないか。崖を砕くほどの力を手にしながら、それを使おうとしないのは、そういうことなのではないか。
「本当に、わからないのですか」
ソランは聞き返した。
エルファリア殿下は息を呑み、黙りこんだ。やがて、搾り出すように言った。
「ですが、それは夢物語です。決して叶う筈などない」
ああ。そう呻いて顔を両手で覆った。
「やはり貴女は恐ろしい方だ」
ソランには、恐ろしいといわれる理由がわからなかった。
「なんと惨いことをおっしゃるのか」
彼はそのまま身動きもままならない様子で嘆いた。
「……でしたら、もう我らにできるのは、祈ることだけです」
エルファリア殿下は椅子から崩れるように滑りおりて、両膝と左手を下につき、右手を胸に当て、最上級の礼をとった。
「女神マイラの加護厚き、黒の神官様にお願い申し上げます。どうか、我らが王を導き、守り給え」
このとき不思議と、第一王子を跪かせていることは気にならなかった。ソランは人の世の地位とは別のもの、まさに神官として答えた。
「アティス殿下は、己の道は己で見出されるでしょう。私が為すべきことは、最早我が魂に誓いました」
ソランは腰を上げ、彼の前に膝をついた。その手を取り、体を起こすように求める。
「殿下にも為すべきことがあるはずです。どうかご自愛いただき、長くアティス殿下のお力となられるようお願いいたします」
エルファリア殿下は目を見開いた。瞳が揺れていた。確かめるようにソランの瞳を覗く。そして、
「確かに承りました」
最後に泣きそうな微笑を浮かべ、深く頷いたのだった。