2 幼馴染の愛妻
「ソラン様っ。会いたかったっ」
昼下がり。軍本部の受付フロアのど真ん中で、隣にいたイアルに荷物を押し付け、マリーがソランに抱きついた。
「私も会いたかったよ」
ソランは微笑んで抱きとめた。まるで恋人同士の熱烈な抱擁である。イアルが渋い表情で、
「目立っています。接待室に行きましょう」
とうながすが、マリーはギッチリとソランの胴に腕を回し、その肩口に頬をこすりつけている。ソランはといえば、髪を愛しげに撫でていた。
衛兵も、受付も、用で訪れている者たちも、場違いな光景に目が釘付けである。
「マリー、場をわきまえてくれ」
「八日も会えなかったのよ」
イアルが悲しい顔をした。ソランと八日会えなかったというなら、夫たる彼とも八日会わなかったのである。それを見て、マリーは数度瞬きすると、渋々ソランから離れた。
「マリー、わざわざ届け物をありがとう」
陛下に拝謁するにあたって、服装は殿下の庇護がわかるように、情報立案局の黒を基調とした軍の礼服が良いだろうとなったのだった。普段使いの軍服は出仕とともに運び入れてあったのだが、礼服は間に合わなかったために持ってきていなかった。そこでファレノ家に使いを出し、急いで届けてもらったのである。
「ううん。堂々と会いに来られるんだもの。大歓迎だわ」
そう言って、さし出されたソランの腕にマリーは自分の腕をからめた。
「家族用の接待室を借りてあるんだ。少し時間は取れる?」
軍事施設内では部外者の出入りが制限される。たとえ家族であっても、軍本部付属の接待室にしか滞留を許可されない。
「もちろんよ。ソランこそいいの?」
「うん。二時くらいまでに自室に戻っていればいいから」
マリーに微笑みかけたソランが、ふと表情を変え、顔を上げた。そっとマリーから腕を抜き、胸に右手を当て頭を下げる。その視線の先を辿ったマリーもイアルも、すぐさま頭を下げた。
殿下が階段を降りてくるところだった。ソランの知らない四人とディーとイドリックを従えている。ディーが何事か殿下に話しかけ、彼だけ離れてソランの元にやってきた。
「やあ、ソラン殿。そちらの可愛らしい方は恋人?」
「いいえ、彼女は」
イアルの妻です、と説明しようとしたのを遮られる。
「恋人候補です。猛アタック中です」
「ははあ、なるほど。さすがは罪な方だ」
ソランが己の耳を疑っている間に、ディーは滔々と名を名乗り、マリーの手を取って、甲に口付けた。
「恋敵としてお名前をうかがってもよろしいかな?」
「私はマリー・イェルク。この勝負、負けるつもりはありません。受けて立ちますわ」
つんと顎を上げ、小生意気にも愛らしい。そんな場合ではないのに、思わずソランは頬がゆるんだ。それを見て、ディーは苦笑した。
「どうやら俺は一歩遅れをとっているようだ。ですが、負けませんよ。女性だからといって、手加減もしませんからね」
「望むところです」
「正々堂々となんてしませんよ」
「当たり前です」
気があったのか、二人は笑いあった。
「名残惜しいですが、まだ用事があるので、これで失礼します」
訂正する間もなくディーが足早に戻っていくのを、さて、これはどういうことかとマリーを横目で見てから見送った。
すると、こちらを見ていた殿下と目が合った。機嫌は良くない。イドリックも連れているし、思わしくないことがあったのかもしれない。
ソランは軽く頭を下げた。それに無表情に頷き返され、視線を外された。ディーが合流する間もなく、歩き始める。あまりのそっけなさに、改めて殿下のお立場と自分の立ち位置を思い出した。
ずっとお傍近くにいたから、忘れてしまっていた。いつの間にか、マリーやイアルに対するような気安さを殿下に感じてしまっていた。気を引き締めなおして、立場をわきまえなければ、と思う。上下の区別もつかない態度で接すれば、殿下の評判を貶めかねない。
そう理屈では理解しながら、胸の奥が軋んだ。ちょっとしたときに浮かべる柔らかな笑みが、なぜか今、無性に見たかった。
ソランは殿下の姿が見えなくなっても、しばらくそこに立ち、遠のいていく気配を追っていた。
「それで、さっきのあれはどういうことなのかな?」
椅子をすすめ、自らも向かいに座りながら、尋ねる。
「御領主様が、恋人のふりをしてきなさいって言ったの」
部屋の隅に用意してあった茶器のセットをイアルが運んでくるのを、マリーは目で追いながら説明した。
「視察でずっと行動を共にしていると、ボロが出ているかもしれないからって」
確かに、心当たりはあった。特に一番の難関は小用だった。必ず一人にならないようにイアルと組まされていたのは助かったが、場所に気を遣った。
不自然にならないように気は配ったが、小さなものも積み重なれば大きくなる。鋭い人たちばかりだから、何も言ってこなくても、思うところはあるのかもしれなかった。
マリーは立ち上がってイアルに近づくと、彼の手をやんわり遮って、私が淹れるわ、と言った。私のほうがおいしく淹れられるもの、と。
「それで、ちゃんとお役目は果たしているの?」
「約束どおり、ソランには傷一つつけてないだろう?」
「そうね。あなたは?」
イアルは黙って目を瞠った。
「心配してくれるのか」
独り言のように呟く。
「失礼ね。ちょっと聞いてみただけよ」
「ああ。それでもいい」
イアルはマリーに腕を伸ばし、そっと抱きしめた。マリーは不本意そうにしながら、じっとしている。
しばらくして、お茶が濃くなってしまうわ、と囁いた。
「うん」
返事しながらも聞き入れる様子のない彼に、ねえ、お茶が、と少し強く言う。
「うん。もう少しだけ」
耳元で囁かれた瞬間、マリーは真っ赤になった。その姿勢のままで固まってしまったらしく、お茶を淹れるのもままならなくなる。
ソランはお茶を待つことをやめ、特に興味もない窓の外に目を向け、耳を塞ぐことにした。二人きりにしてやりたいのはやまやまだが、恋人役のマリーとイアルを二人だけで一部屋においておくことはできない。
二人と一人は小さな部屋で、時間まで静かな時を過ごした。