2 エニュー砦
二号取水施設の警備・保全を任務としている駐屯部隊に出迎えられ、取水施設を視察した。大河サランより高い場所にある王都に水を送るため、水車を使って汲み上げているのだ。
大河は満々と水をたたえていた。川幅は水流のある場所だけで千メートルから、所によっては千三百メートルにもおよび、雨量や雪解け量で変わる岸辺は、両岸に数百メートルずつもあった。砂が溜まっている場所もあれば小石の転がる場所もあり、多くの場所が背の低い湿地性の植物に覆われている。
「これは民衆の求めに応じて造られたのだそうですよ」
ケインは巨大な水車が唸り、水音が騒々しいそこで、怒鳴るように教えてくれた。続きを聞きたくて、水車近くにいる殿下を気にしつつも、彼を出入り口付近に誘った。少し離れるだけでもだいぶ違うからだ。
それでも、あちこちに目をくばりながら話す。イアルもその中間辺りに待機した。ディーを含めて二人が殿下の周辺を囲み、あとの二人は場内の反対側を見回っていた。
「なぜ彼らはそんな要求を?」
「もともとは王城を守る堀として一号水路は引かれたのですよ。それも自然の支流に少し手を加えただけでした。国が栄えると共に、その周りに街ができあがっていったのですが、内乱の度に略奪が行われたのだそうです。
それで労力は提供するから、ぜひ街を守る水路を造って欲しいと。だから、ここの始まりはとても古いのです。もちろん、何度も修理や改良を重ねてきているそうですが」
「三号水路もですか?」
「あちらは比較的新しいです。といっても三国に分裂する少し前だそうですから、もう千六百年以上にもなりますか。
一番栄えていた頃ですから、急激に王都の城下町も膨れ上がり、二つの水路ではまかなえなくなったようです。当時はごみも屎尿もすべて投げ込んでいたそうで、疫病も流行ったらしいですね。綺麗な大量の水が必要となったんでしょう。
それで、ごみや屎尿の投げ込みも禁止され、今は近隣の農家に払い下げられています。ごみも王都の外に処理場が造られました。その時に、王都の水路も今とほぼ同じ状態に整備されたようですね。
それらの改革で名君と名高い王も、宝剣の持ち主だったそうですよ」
「お名前は?」
「ああ。宝剣の主様はすべてアティス様と名付けられます。その方は五世だったかと。殿下は九世でいらっしゃいますよ」
九、と聞いて、なぜかソランは息苦しくなった。ハレイ山脈に朝日が当たる瞬間と同じ気持ちがわきあがり、その痛みに目をつぶる。
「どうかしましたか?」
「いいえ」
ソランは目を開け、苦笑してみせた。
「ここは本当にうるさいと思って」
「そうですね。おや。呼ばれてます」
それは見て分かっていた。殿下が手招きしている。何事かと駆け寄る。
「説明を聞け」
御前に着くなり言われた。しかも自ら退いてくれ、管理責任者の脇を空けてくれる。
「は。私は後ろで」
と遠慮して一歩引こうとしているのを腕を捕られ、責任者には聞かせられない内容を、耳元で囁かれた。
「よい。私が何度この説明を聞いたと思っている」
思わず見返すと、力強く頷かれた。助言を求めてディーやその他の面々に目が泳ぐが、皆そっぽを向いている。警備しているというより、目を合わせたら大変だ、という感じである。どうやら、ソランにとってはありがたい話でも、彼らにとっては違うようだ。
「では、お言葉に甘えて」
ソランが答えると、殿下はほんの少し表情をゆるめた。殿下は大抵、表情の読めない真面目くさった顔をしている。立場的にそうしていなければならないのだろう。
だが、初めて会った時の殿下は人懐こく、気さくな方であった。そういう面が見られると、心が温かくなり、嬉しくなる。
だから、ソランは微笑んだ。素直で無邪気な笑みだった。殿下も今度はフッと笑いをこぼし、掴んだ腕をぐっと引いて、責任者に向き直らせた。
「これに説明を」
目を丸くしてやり取りを見ていた責任者も、魅力的な笑みを刷いたソランによろしくお願いしますと頭を下げられ、まんざらでもない心境になった。何より、自分の仕事に心底興味を持ってもらって、悪い気のする者がいるだろうか。
この日の説明はいつになく饒舌で力が入り、いつもの倍ほどもかけて案内がなされたのだった。
その後、ソランたちは大河に沿って川上へと向かい、一号取水場の北西にある小高い山に築かれたエニュー砦に入った。
馬を預け、警備隊長と挨拶を交わし、すぐに物見台に案内された。
素晴らしい景色だった。左手には大河。眼下に支流である水路がゆるやかにくねりながら、少し高い地に築かれた三つの塔を中央に持つ王都へと、きらめきながら流れていく。辺りは深い秋色に染まり、平和と豊穣が地平線の果てまで覆っていた。
目の端にハレイ山脈を認め、頂の雪が傾いた日に金色に輝くのを見た時、ソランはこみ上げてくる熱いものに、息を止めた。
神々は遥か昔に遠く去り、最早この地上にいない。それでも神々の残した息吹は確かに息づき、世界に恩寵をもたらしている。それは日常に隠された、まごうことなき奇跡だった。
今日の一日が与えられたことに感謝いたします。
ソランは女神と、初めて女神以外の神々にも、心の中で祈りを捧げた。
どのくらいそうしていたのだろう。ぽんぽんと頭に二度手がのせられた。いたわりのこもったそれに顔を向ける。殿下の緑色の瞳が、光の加減で山脈と同じ金色に見えた。クシャリと髪をかき混ぜられる。
「泣かんでもよいだろう」
言われても分からずにきょとんとしていると、頭の上にあった手が下りてきて、少々荒っぽく頬を拭われた。
「え?」
自分でもびっくりして、慌てて両手で顔をふいた。でも、涙は付いてこなかった。一粒二粒零れ落ちただけらしい。それでも恥ずかしくて、ソランは真っ赤になった。
「まあ、わからんでもないがな」
殿下は目の前の風景に視線を戻した。
「守らねばと思わされる」
ソランはすぐ隣にある、殿下の横顔に見入った。瞳は強い力を宿し、冒しがたい威厳が全身から放たれていた。
嗚呼。
唐突に心が震えた。
この人の盾となり剣となりたい。
心臓が高鳴り苦しかった。ソランは血が逆流するような感覚の中で確信していた。
私はずっと、この方を探していたのだ。
暁の中、追い求めていたのは、他の誰でもなく、この方、だったと。