閑話 どんな花よりも匂やかに(春の大祭)
傍らの温もりがすり抜けていく。その感覚に、彼は寝惚けながらやみくもに手を伸ばした。
「アティス様は、もう少し寝ていてください」
温もりが彼の傍に留まり、やさしく指で髪を梳いて、耳元で囁く。
「おまえも」
「私はこれからすぐに、着付けの用意をしなければなりません」
「着付け? ……ああ、今日だったか」
彼はようやく目を開け、だるそうに起き上がった。彼女の腰に腕をまわし、肩口に頭をもたれかけさせる。
「今更だろうに。面倒くさいことだ」
もう何ヶ月も寝所を共にし、夫婦同然の生活をしているのだ。しかもこの結婚は、双方が望んだ末のものであり、王命でもある。こんな披露目をしなくても、もう覆りようがなかった。
「しかたありません。これも義務です」
花嫁として喜びの日を迎えたはずなのに、どこか疲れの滲んだ彼女の声に、彼は低く笑った。
「重そうな衣装だったな」
「ええ。最高級の生地に、金銀宝石がびっしり縫い付けられていますから」
花嫁衣装の生地は、細い糸で緻密に織られており、それ自体が普通の布地より重い。かてて加えて、余分な光物もくっついているのである。王太子妃の花嫁衣裳は、鎧並みに重かった。
「でも、よく似合っていた。今日は髪も結い上げて着飾るのだろう? 楽しみだ」
「……そう言ってくださるなら、報われます」
彼女は、少し声をほころばせた。彼は頭をもたげて彼女に微笑みかけると、ちゅ、と軽く唇に口付けた。
「ああ、でも、綺麗なおまえの姿を万人に見せてやるのも業腹だ。だったら独り占めして、思う存分愛でたいものだが」
不穏な言葉と共に、彼の手が不埒に彼女の体をはいまわり始める。
「アティス様」
彼女はさけようとして身をよじった。だが、それを強く抱きしめ、動きを封じて、彼は彼女の耳元でくつくつと笑った。
「わかっている。それは夜の楽しみにして、まずは世界中の人間に、おまえが私の妻だと見せびらかしてやろう。それも常々、やってみたいと思っていたことだ」
すると彼女の動きが止まり、急におとなしくなった。
「どうした?」
彼女は無言で、顔を彼の首筋にこすりつけるようにして、横に首を振る。
「なんだ。言え」
荒っぽい言い方の催促だったが、彼の手は、なだめるように彼女の頭から背中へと撫でさすっていた。
しばらくしてから、彼女は溜息のように告白した。
「私も時々、同じことを思います。だから、同じ気持ちでいてくださるのなら、嬉しいと」
「おまえも? これが私の愛する者だと、誰彼かまわず捕まえて、わめいて教えてやりたいと?」
「……はい」
彼はその返事に、思いのたけで、ぎゅうと彼女を抱き締めた。彼女が最高の武人でもあるおかげで、手加減がいらないのが、心底ありがたかった。
そして、どちらからともなく求め合って、激しい口付けを交わす。
本当は二人とも、目の前にいる人と、ただこうしている時が一番幸せだった。
しかし、愚かに二人きりの世界に沈むには、彼らはあまりに世界を愛しすぎていた。
愛する人が存在している、それだけで世界に意味を見出し、感謝を感じる。それほどの思いは、そのまま、愛する人をその人たらしめている世界をも、彼らに愛させていた。
だから、ここで生き貫いていきたいのだと。愛する人のいる、愛する人の愛する、また、己も愛しくてたまらない、この世界で。
共に手をたずさえていけるならば、闇も、生きるほどに背負うことになるだろう罪も、恐ろしくなかった。いつでも、光のある方へと歩いていけると確信していた。
どこまでも、目の眩むような高みまでも、きっと。
やがて、寝室の扉をノックする音が響き渡った。二人は唇を離し、名残惜しく見つめ合った。
「ソラン様、起きておいででしょうか」
「はい。起きています」
室外に向かって答えた彼女を、彼は腕の中から開放した。
「では、また後で。楽しみにしている」
「はい」
彼女は、花の祭りとも言われる春の大祭の開かれるその日、どんな花よりも匂やかに、愛する男に微笑みかけたのだった。