閑話 ソランの贈り物(バレンタインに寄せて)
「今日の晩餐はご一緒できますか?」
朝食の時間、ソランは円卓で横に座る王太子殿下に尋ねた。
「ああ。もちろんだ。何かあっても、ディーに押し付けるから問題ない」
殿下は気前良く、問題のある発言でもって答えた。
「いえ、何かありましたら、ご連絡ください。こちらから運べばよいことなので」
「運ぶ? 何をだ?」
「キエラでした約束を覚えていらっしゃいますか? 戻ったら、遅ればせながらお誕生日を祝わせてもらうと申し上げました」
「ああ、そうだったな」
殿下はフォークを置いてソランの左手をとり、彼女の目を覗き込んだ。
「それで、何をくれるつもりなのだ?」
「あの、たいしたものでなくて恐縮なのですが、手料理です」
殿下は瞠目してソランを見つめた。やがて、くすりと笑って、掴んだ彼女の手を、しっかりと握り締めた。
「そうか。それは楽しみだ。必ず戻ってこよう」
こうして王太子殿下は、日頃ないほどに、とても機嫌よく仕事に出掛けていったのだった。
……そう。まわりが、懸念するほどに。
「イアル、それで、ソラン様の料理のお手並みは、いかほどのものなんだい?」
王太子補佐官のディーは、どうやったのか仕事の途中で抜け出してきて、ソランの護衛であり身内でもあるイアルに、こそこそっと聞いた。
「食べられますから、心配ありません。腹もこわしたことはないです」
イアルは淡々と端的に答えた。
ディーはそれを聞いて、しばらく無言で己の額を押さえていたが、やがて呻くように恨み言を言った。
「それでどうして、他のものを勧めてくれなかったの」
「あなたのアドバイスだと私は聞きましたが」
「えっ? まさか。どうせそんなことだろうと思ったから、私は、ソラン様が傍にいてくれるだけで、殿下は癒されて満足するに違いないと申し上げたよ」
「ええ。だから、癒してさしあげようということらしいです、お疲れを。薬膳料理を出すと、はりきっていらっしゃいます」
「薬膳料理!? それはもう、」
絶望的、という言葉を、ディーは飲み込んだ。病人に供されることの多いそれは、投入される生薬のせいで、大概苦くて臭いものと相場が決まっている。
「……わかった。それとなく、殿下の期待を削ぐように、努力してみるよ」
「ええ。そうしていただいた方がいいと思います」
ディーは心持ち肩を落として、王太子殿下の許へ帰っていったのだった。
さて、その夜、王太子殿下はうきうきと帰ってきた。鉄壁の渋面は変わらないのに、明らかに楽しげなのが見て取れるのである。どれくらい楽しみにしているのか、わかろうというものだ。
『ご苦労』と気さくに門衛に声をかけ、しかし、『お帰りなさいませ』と返った声に、怪訝そうに立ち止まった。
「どうした。何かあったか」
浮かれてはいても、さすが修羅場をいくつも潜り抜けてきただけのことはある。門衛の微妙な声の硬さに、違和を感じたようだった。
「いいえ、何もございませんでした」
門衛たちは、ぴしりと背筋を伸ばして、それによってさりげなく視線をそらし、まっすぐ前を見据えながら、揃って答えた。
それに、ふむ、と簡単に頷くと、館に入って、階段を登っていく。
足取りは軽快だ。それに対して、後ろに付き従うディーと護衛たちの足取りは重かった。
「あの、殿下、少々お待ちください」
ディーはとうとう、二階の踊り場で王太子殿下を呼び止めた。
「なんだ」
嫌そうに、それでも足を止めて振り返る。
「僭越ながら、紳士としての心構えを説明させていただきたく」
「今日は、どいつもこいつも、会う者会う者、皆、それを口にする。いったい、私を何だと思っているんだ」
「さようでしたか。大変失礼いたしました。それで、皆様は何とご助言されていらっしゃいましたか。後学のため、私も拝聴しておきたく存知ます」
「鬱陶しい。控えよ」
殿下は不機嫌に言い放ち、踵を返そうとした。が、そこへ、他の護衛たちからも声が掛かった。
「殿下! 私も拝聴いたしたく!」
「私めも、ぜひ!」
殿下は一つ溜息をついて、じろりと彼らを睥睨した。
「出されたものは残すな、味に言及しなくてもよいから、その心遣いに礼を述べよ、だ。まったく、誰だ、今日のことを言いふらしおったのは」
ディーだった。しかしディーはそれには答えず、大きく頷いて強く念を押した。
「ええ。そうでございますね。ソラン様のせいいっぱいのお気持ちですからね。紳士たるもの、女性の気持ちを踏み躙ってはいけません」
「だから、おまえは、私を何だと思っている!」
殿下は一歩階段を降りて、ディーの額を掌でぺしりと叩いた。ふん、と忌々しげに鼻を鳴らして睨みつけ、背を向けて続きを登り始める。
そしてついに、私室のある階に辿り着いたのだった。
そこには、異臭が充満していた。鼻を刺すそれは、匂いだけで苦いとわかるものだ。
けれど、殿下はそれにまったく注意を払わなかった。それどころか、異臭の元凶と思われる部屋へと足を速めていく。
居間の扉の前の護衛に目で合図をし、開け放たせると、立ち止まることなく入っていった。
「帰ったぞ、ソラン。待たせたな」
「お帰りなさいませ、アティス様」
ソランは暖炉の前から立ち上がって、彼の許に駆け寄ってきた。手には、今の今まで暖炉にかけられた鍋の中身を掻き回していたおたまが握られている。
殿下は彼女を抱き寄せて、一つ額に口付けると、そのおたまを見遣って、喉の奥で笑った。
「いい匂いがしているが、匂いの元はそれか?」
「はい! すぐに召し上がりますか? それともお着替えを?」
「いい。すぐに食べよう」
「では、こちらへ」
ソランは殿下の手を引いて、暖炉の前に案内した。居心地良くクッションなどが置かれてあり、その中へ殿下は収まった。
彼女は鍋を手前へと下ろし、用意してあった器に、中身を慎重によそう。そしてそこへ銀の匙を付けると、殿下へと差し出した。
「どうぞ。これでお疲れが取れるといいのですけど」
皆が、その一瞬を、緊張の面持ちで見つめていた。非番のはずの侍女や、いつもなら扉で別れるディーや護衛も中に入り込み、壁際から怖々と見守っていた。
殿下が吹き冷ましてから、匙を口へと運ぶ。舌にのせ、咀嚼して、飲み下す。
それからソランへと目をやり、にこやかに言った。
「うん。思ったより食べられる味だな。それに、とても効きそうだ」
「そうですか? よかったです。もう一杯いかがですか?」
「うん。貰おう」
殿下はぺろりとたいらげ、おかわり分も問題なく腹におさめた。
そうして、見守っていた人々へと振り返ると、傲慢に言い放った。
「いつまでいるつもりだ、おまえたち。私はソランの心遣いを無駄にする気はないのだ。さっさとそれぞれの仕事に戻らんか」
そこにソランが口を挿む。
「そうおっしゃっていただけるのは嬉しいですが、これを全部召し上がられるのは無理ですよ。たくさんで煮込んだ方が美味しいので、この分量になってしまっただけで」
「ああ。残りは後で他の者に分けてやればよい。そうではなくて、これはどのくらいで効いてくるものなのだ?」
「時間ですか? 消化が進めば、じわじわと体があたたまって……」
「ということだそうだ。急ぎ、湯の用意をしろ」
殿下はソランの説明の途中で、侍女たちに指示をした。
「お茶ですか? でしたらこちらに」
茶器を取ろうと離れていこうとしたソランの肩を抱き寄せ、殿下は彼女の耳元で囁いた。
「滋養強壮とは、積極的で嬉しいぞ、ソラン」
「え?」
ソランは不思議そうに殿下を見上げた。
「それにしても、よくわかったな。私がこの世で一番欲しいものを。口付け一つも満足にできなかったのに、ずいぶん成長したものだ」
「え、え? なにを」
「もちろん答えはおまえだが、違うとは言わないな、ソラン? 私の誕生日を遅ればせながら祝ってくれるのだものな? ああ、待った甲斐があったというものだ。今夜が楽しみだ。さあ、おまえもしっかりと食べておけ」
ソランの分の器を取り上げた殿下にニヤリと笑いかけられて、彼女は彼の腕の中で、真っ赤になって固まったのだった。
その日の二人の夜は長かったとか、長くなかったとか。
「やれやれ。心配して損した」
それが、二人を囲む者たちの、偽らざる心の声だったことは確かだった。
冬の童話祭に「将軍王子のねがいごと」で参加しています。
二人の一番初めの出会い、始まりの物語です。
時間軸では、エピローグと同じになります。
よろしければ、そちらもご覧ください。