閑話 凍てつく冬の日に(不死人の帰還)
王太子の位に就かれて十年。とうとう殿下のご即位が決まった。
この十年の間に、すべての業務は国王から殿下にすでに移行している。国王の存在は、ただ、領主貴族から軍事力という力を取り上げ、強力な中央集権国家を創る上での軋轢を、少しでも分散させるためのものでしかないだろう。
殿下は、未だ二十九歳。十年前と言えば、まだ成人を少し過ぎたばかりであられた。
その齢にしてこれから起きるだろう国難を看破され、当時は無謀とすら思われる改革を計画、断行してこられたのだ。
軍事大国と名高いウィシュタリアは、土地を与えた領主たちに税と兵を提供させることによって、軍事力を保ってきた。周囲の小国との小競り合いは、その程度で足りてきた。
だが、西に強大な国家が振興し、それが侵略してくるとなれば、今までのやり方では事足りないのは目に見えている。どうしても、国王に軍事力を集約する必要性が出てきたのだ。
しかし、当時の領主たちといえば、国外に敵という敵も最早なく、その力を己の栄耀栄華のために使う始末。その基盤となる兵力を返上しろと言ったところで、聞くわけもなかった。
殿下は法を整備し、国家事業として国王に軍事改革を施行させ、自らは反乱領主を平らげるため、国王直属の軍を率いて、親征されたのだった。
公式、非公式にかかわらず、為政者にとって不都合な情報は、流布されない。
世間では、殿下は連戦連勝、不敗の名将として名を馳せている。
確かに、殿下は負け戦を蒙られたことはない。けれど、危なかったことは、いくらでもあったのだ。
反乱領主たちは、最後はたいてい自領に立て篭もり抗戦する。そこでは、領主たちに地の利がある。その上、そこに住み、領主の盾とされる領民とは、すなわち国民なのだ。その国民をこれから守るために改革をしようとしているのに、それゆえに犠牲とするのは、本末転倒である。
それのわからないお方ではない。難しい戦況を承知で、それでも当初の目的を違えることなく成し遂げてこられたのは、共に戦場に立たれた、今では守護女神と呼ばれる妃殿下の助力に負うところが大きいだろう。
前世、私が『災いの女神』と呼んだあの方。あの方をそんな名で呼んでしまった私は、いや、私たち『不死人』は、どれほど不心得者だっただろう。
ここウィシュミシアの中央には、殿下の動向が詳しくもたらされる。それは、『最後の不死人』の一人である私にも教えられる。
その知らせを聞けば聞くほど、思い知るのだ。
あの方たちの、余人には及ぶべくもない深い慈悲を。覚悟を。
そして、そのたびに、幼く非力な己の体を、そうなってしまった己の不徳を、痛いくらいに噛み締めてきた。
殿下を殺めようなど、なんと愚かだったことか。
なのに殿下は、自ら死を与えてくださった。囚われるしかなかったあの体から、逃れることを許してくださった。
だから今度は。今生こそは。
春が来れば、殿下の即位と共に、不死人が生まれなくなった故に存在意義を失った、ウィシュミシアとウィシュクレアは、新国王の下、併合される。
私はその前にと、ウィシュミシア国主ジェナス様に、紹介状を書いていただけるよう願い出た。
紹介状と共に、私から取り次いでやろうとのお言葉もいただいたが、辞退申し上げた。大きな罪を犯した私には、過ぎたものであったから。
私は、その書状を懐に、王城の門を叩いた。
「王太子筆頭補佐官の、ディー・エフィルナン様に取次ぎをお願いしたい。ウィシュミシア国主ジェナス様からの紹介状がここに。ケイン・ストラロースが訪ねてきたとお伝えくだされば、お話は通じるかと思います」
門衛は、まだ九歳の私に訝しむ視線をくれたものの、紹介状の封緘を確認すると、衛所に招き入れてくれた。
そこで厳重に武器の所持の有無を確認された。応対は丁寧であったが、子供だからという甘さはなかった。
王太子ご夫妻とそのご子息は、何度も暗殺の危険にさらされてきたと聞いている。その刺客に、子供が差し向けられたこともあったと。
私は衛兵に監視されながら、それでも暖炉の傍に置いてくれた椅子に腰掛けて、おとなしく待った。
門前払いを食らう可能性もあった。二度と顔など見たくないと言われてもしかたないことをしたという自覚はある。
それ以上に、このまま秘密裏に始末される恐れもあった。
それであってもかまわなかった。許せないというのなら、殺してほしかった。そうして、かつて殿下を殺そうとした男が、この世に二度と生まれ変わらないという安心を与えられるのなら、それでよかった。
ただ私は、この記憶を抱えたまま、殿下の苦難を見て見ぬ振りをして生きていくのだけは、できなかったのだ。
微力であるとは承知している。しかし、私には『不死人』の知識がある。
海を越え、大陸も越え、西の果てまで遠征するかもしれないのなら、私の測量の技術はお役に立てるものだろう。
外で足音がして、衛所の扉が開かれる。
「なぜここに!」
思いもよらない顔がのぞき、私は瞠目して、叫んで立ち上がった。そのとたん、衛兵に腕をとられて後ろ手に捻り上げられ、痛みに顔をしかめる。でも、目の前のその人から、視線だけはそらせなかった。
「手荒なまねはするな。……ケインか?」
ここに来るはずのない人が、殿下その人が、ためつすがめつ、上から下、下から上へと私の姿を見て、クスリと笑う。
「しばらく見ない間に、ずいぶん小さくなったな」
豪胆と言おうか何と言おうか、呑気な冗談をおっしゃる様子に、私は目尻を下げて、溜息をつくしかできなかった。
「なぜ、御自らいらっしゃったんですか。ディー殿は何をしていらっしゃるんですか」
「あれは仕事で外出中だ。ジェナスの親書だというから、私の方までまわされたんだ。その心配性で案外口うるさいのは、まさにケインだな」
殿下は近付いてきて、大きな手で、私の頭をぐいぐいと撫でられた。
「よく来た、ケイン。待っていたぞ」
「殿下」
こみ上げるものが涙となってあふれだしてきて、私はそれ以上、何も言えなくなった。
春まだ遠き、凍てつく冬の日。転生を果たしたケイン・ストラロースは、ようやく主の下に帰還したのだった。