閑話 晩秋の初恋(史上最強の××)
非番のその日、修練場に向かおうとしていた新米騎士のフランシス・カルデラーラは、あっ、という女性の叫び声に、急いで回廊から庭園へと下りた。
栄えあるウイシュタリア王国軍の騎士たる者、か弱き女性の大事を無視しては、その末席に名を連ねる資格もない。
というのは建前で、もっとありていに言えば、それがもしも『王妃の花園』の耳に入ったら、まずまちがいなく結婚が遠のいてしまうからである。
見習い騎士の頃から抜きん出ていた剣の腕を買われて、騎士への叙任後ほどなく王宮内の警護に大抜擢された彼は、とても若い。やっと一人前の男として女性に求婚できる身分となったばかりだ。
女性に対する夢も希望も、その大きな体いっぱいに抱いており、まだそれらを捨てるほど辛酸を舐めてもいなかった。
だからこの時も、先輩騎士たちに耳にタコができそうなほど言い聞かされていなかったとしても、純粋に女性に対する心遣いから行動に出ていただろう。
「どうしましたか。大丈夫ですか」
声を掛けながら、どこにいるのか知れない女性を探す。
そうして葉がだいぶ落ちたとはいえ、まだまだ視界を遮る木々を右に左に抜けているうちに、黄色く紅葉した木の下に佇む女性を見つけたのだった。
温かな色合いの茶色の髪をふんわりとまとめた小柄な人だった。仰け反るようにして梢を見上げている。その顎の線は柔らかで可愛らしく、首も肩も触れたら壊れてしまいそうに華奢だった。
彼は、なんて可憐な人なんだ、と彼女に見惚れた。急に冷たく強い風が吹いてきて、彼女が胸元に抱えた書類がバサバサと煽られ、その音に、はっと我に返るまで。
「どうしましたか。何かお困りですか?」
彼女が振り向いた。目が大きく、あどけないといっていい顔立ちをしていた。二十歳前、フランシスと同じくらいの歳だろうか。
彼は視線が合った瞬間、自分の心臓が不規則に跳ねるのを感じた。
そして、彼女の表情がほっとしたものに変わるのを見た時、ああ、この人を守ってあげたいという気持ちが、熱烈にわきあがってきたのだった。
そう、この時、彼は一目で彼女に恋してしまったのだった。
「ああ、騎士殿、ちょうどよいところにいらっしゃいました。大事な書類が風で飛ばされて、あそこに引っかかってしまったのです。取っていただけますか」
彼女が指差す場所に、確かに紙が一枚ひらひらとしている。
「はい。お任せください」
彼は大股に近付いて手を伸ばした。少し足りず、背伸びをしてやっと届く。
「どうぞ」
彼女に視線を向ければ、驚くほど近くに立っていた。彼女は彼の胸元辺りまでしか背がなく、いきおい上目遣いとなっていた。
その無垢なまなざしだけでも悩ましいのに、ほぼ真上から見下ろした彼は、豊かにもりあがった彼女の胸にも気付いてしまったのだった。
彼の頬に、かっと血を昇る。彼女の胸は、それほどの迫力があった。しかもその下は、きゅっと締まった折れそうなほど細い腰なのは、遠目で見た時確認済みだ。
人には言えない妄想が頭の中を通り過ぎそうになり、それを追い払おうと、彼は少々しかめ面になった。その顔は辛うじて、真面目が取り得な人に見えなくもなかった。
「ありがとうございます、騎士殿」
彼女は書類を受け取って、魅力的に微笑んだ。
「私は奥宮に勤めております、マリー・イェルクと申します。騎士殿のお名前をうかがってもよろしいですか?」
「フランシス・カルデラーラです」
「助かりました、カルデラーラ殿。すみませんが、急いでいるので、お礼は後ほど改めてさせていただきたいのですが」
「いえ、お気遣いなく」
「お心の広い方ですのね。では、お言葉に甘えて失礼させていただきます」
彼女は優雅に礼をすると、足早に去っていった。
回廊までエスコートすればよかったと気付いたのは、木立の向こうに姿が見えなくなってしまってからだった。
「マリー・イェルク殿……」
彼は夢見るように、彼女の名前を呟いたのだった。
エルドシーラ・オルタスは、新米のフランシス・カルデラーラの勤務態度をどうとればよいのか思案していた。
ちょっと様子がおかしいようだから、面倒見てやってくれ、と隊長に言われて、急遽勝手に非番が返上され、外回り業務が捩じ込まれたのだった。
副隊長になってから、そんなのが多い。役が上がって、後見人である王妃は非常に喜んでくださっていたが、どうやらこの肩書きは、雑用処理の別名でもあるようだった。
フランシスは剣の腕の立つ、気持ちのいい青年だ。これまでの勤務も問題はなく、今は……、今は、たぶん、非常に熱心である。
新兵である彼には、まず、王の私的生活の場である奥宮の外回りの哨戒を命じてあったが、それはもう執拗なほどに木々の間を上に下に見透かして、一時もじっとせず、警戒にあたっているのである。
でもそれは、警戒しているというより、明らかに何か別の目的があってそうしているとしか思えず、気構えの点で問題があるように見受けられた。
だいたい、背後ががら空きだ。
こんな調子では、いざまさかの時、まっとうに交戦できるかも怪しい。まして、フランシスは実戦を経験していない。敵の出現に驚いているうちに殺されてしまうだろう姿が、容易に想像できた。
「フランシス、何を探している」
とりあえず、そんな風に声をかけた。
びくりと体を強張らせ、大きな体が振り返った。
「は。不審な人物はいないかと」
「それでおまえ、その不審者が見つかったとして、すぐに対応できるのか。そんな浮ついた腰がまえで、剣にしろ短剣にしろ、抜けるとは思えないが」
「は、はい! 申し訳ありません!」
フランシスは直立不動となった。瞬時に気持ちを切り替え、反省できるのならば、まだ見込みはあると思われた。
「わかればいい。それで、本当は何を探していた?」
エルドシーラは表情を弛めて、ん? と少し首を傾け、言ってみろ、と眼差しでうながした。後輩の悩みを聞きだし、相談にのってやるのも先輩の役目である。
「何か力になってやれるかもしれないし、絶対に悪いようにはしない」
フランシスの目がうろうろとした。なんとなくそわそわとし、しかも気味が悪いくらい徐々に顔が赤くなっていく。
とうとう大きな体でもじもじしだした時には、エルドシーラも承知していた。これはあれか。恋煩いか。
「で、どんな女性なんだ?」
「な、なんでそれを」
ますます挙動不審気味に聞き返してくるが、これでわからない方がおかしい。
だが、だったらなんとかなりそうだ、とエルドシーラは安堵した。
『王妃の花園』には伝手がある。彼女たちは王宮内の女性は完全に掌握しているから、問い合わせれば探してきてくれるだろう。
そして、どこの誰でどこへ行けば会えるのかわかれば、彼も少しは落ち着くに違いない。少なくとも哨戒中は。
その次のことは、別の誰かが指南してやった方がうまくいくに違いない。なぜなら、エルドシーラも、まだこれといった女性を口説いたことはないからだった。
何人かの隊員、あるいは伝手を思い浮かべ、彼は一人何度か頷いた。
「名前はわからないのか? だったら姿形や特徴を教えてもらえれば、探してきてやるぞ」
「いえ、名前は伺いました」
「そうなのか。じゃあ、もっと簡単だ。もしかしたら、すぐにでも会わせてやれるかもしれない。で、誰なんだ?」
「あのー、その、マリー・イェルク殿、と」
彼女の名前を口にする時、確かに熱っぽい目をして、フランシスは信じられない名前を吐き出した。
「は?」
って、よりによって、あのマリー殿か!? いや、それにしたって、なんでこの馬鹿は気付かないんだ!?
彼女はある意味、非常に有名な人物だった。この国で、彼女を知らないのは、恐らく二歳以下の子供だけだろう。
ああ、いや、でも、イェルクと名乗ったのか。うわー、あの方たち、また喧嘩中なんだ。
エルドシーラは、思わず知らず、額に手をやって、意味もなく掻いた。
夫婦喧嘩の度に彼女が旧姓を名乗るのは、もう城内では誰も指摘しないほど有名な話だ。でも、新米が知らなくても無理はない。なにしろこの前まで、軍部の方にずっといたのだから。
最早いきなり失恋の憂き目にあっていることを、いかにして教えようかと、エルドシーラは柄にもなく気を遣って、あー、とか、うー、とか時間稼ぎのように唸った。
と。少し離れた所で、女性の叫び声がした。
どうやら争っているようだ。いや、だの、やめて、だの、放して、だのと甲高い調子で言うのが聞こえてくる。それに、低くて聞き取れないが、男の声も。
先に動いたのはフランシスだった。一瞬で険しい表情になると、一直線にそちらへ向かって走っていく。木立があろうが草花があろうが関係ない。しゃにむに掻き分けて前進していく。
「フランシス!」
聞き覚えのある声の方へ彼を行かせていいものかどうか悩みながら、エルドシーラも遅ればせながら彼の後を追ったのだった。
フランシスが駆けつけた先では、衝撃的なシーンが繰り広げられていた。
王妃の筆頭補佐官であるイアル・ランバート殿がマリー殿を後ろから羽交い締めにし、彼女から肘鉄を食らいながら、待ってくれ、行かないでくれ、話を聞いてくれ、俺が悪かったのなら謝る、と口説いていたのだ。
彼は確か、妻帯者であるはずである。それにそろそろ四十に近いはずだ。それが、自分の子供のような娘に手を出しているとは、騎士としても、男としても、到底許せる行為ではなかった。
そんなことよりも、なにより、彼女に無理強いをしている、その姿を見ただけで、彼は頭に血が上っていた。
「離せ!」
フランシスは突進した。ランバート補佐官の腕を取り、彼女から引き離そうとした。
が。
ふっとランバート補佐官が見えなくなったと思ったら、ふわっと体が浮き上がり、青い秋の空が見え、そして、背中から硬いものにぶつかる感触が襲ってきた。
何が起こったのかもよくわからなかった。腕を捻りあげられて取られたまま鳩尾に踵を捩じ込まれ、思わず声が漏れる。
「何者だ」
鋭い殺気に全身を刺される。彼の背中に、どっと冷や汗がわきだした。
「お待ちください! 申し訳ありません! 哨戒中に女性の悲鳴を聞いて駆けつけました。それは新入りで、事情をよく知らないのです。どうかお許しを」
「なんだ、エルの部下か」
力強く腕を引っ張られ、起き上がらされた。まだ泡を食って頭の芯がどことなくぼんやりしており、自分の力というよりは、補佐官の力で、真っ直ぐに立つ形にされる。フランシスは背も高くがっしりした身体つきにしっかりと筋肉をつけており、体重は重いはずだった。それをこともなげに扱う膂力に、彼は驚いた。
「私の監督不行き届きです。申し訳ありません」
声のした方を見れば、副隊長が頭を下げている。
でも、この男が彼女に不埒な真似をしていたからだろう!? 何を頭を下げる理由がある!?
フランシスはいきり立って、目つきを鋭くした。
のだが。
「いや。私もつい、妻がいたものだから、警戒してしまった」
「えっ!?」
妻!?
「ランバート王妃筆頭補佐官殿と、その奥方マリー殿だ」
副隊長もフランシスに言い聞かせるように繰り返した。
言われてみれば、確かに補佐官は彼女を背に庇っていた。どうやら彼の方こそ、暴漢か何かと思われたらしい。
その背から、ひょこっと彼女の顔が現れた。やはりあどけなくかわいい顔をしている。
「あら、あなた、この間はお世話になりました」
フランシスに惜しげなく向けられた、にっこりとした表情は、やはりどう見ても十七、八の少女にしか見えない。
だが、補佐官の奥方といえば、御子たちの乳母でもある。確か王妃とは幼馴染で同い年のはずだった。
そして、王妃陛下は、御歳三十五であらせられる。
「えええっ!?」
嘘だ。この人が三十五歳なんて、嘘に決まっている!!
「なんだ、これと知り合いなのか」
補佐官から、冷やりとした殺気が流れてきた。フランシスは本能的に身をすくめた。穏やかそうな容貌をしているが、さっきの身のこなしといい、膂力といい、この殺気といい、ただ者ではない。
というより、いつでも王妃に影のように付き従って戦場を駆け巡った武勇伝は有名で、それが嘘でもなんでもないことを、フランシスは身を持って感じたのだった。
しかし、そんな補佐官に向かって、彼女はつんけんと言い放った。
「あなたには関係ありません」
「俺たちは夫婦だ。関係なくないだろう」
「誰が夫婦ですか。私たち離婚しました。ええ、今度こそきれいさっぱり、縁を切りましたとも!」
「マリー!!」
補佐官は慌てた顔で、彼女の両腕をしっかりと捕まえた。その手を、彼女は難なくはずす。
「俺が悪かった。謝る。だから、機嫌をなおしてくれ」
補佐官は、またもや彼女を捕まえようとして振り払われながら、懇願した。
「じゃあ、何が悪かったか、何を謝っているのか教えてちょうだい」
「それは」
補佐官は言葉につまった。心当たりがありすぎるのか、なさすぎるのか、手堅く切れ者と噂の彼が、たじたじだった。
「そんなデリカシーの欠けた男は嫌い! 放してちょうだい!」
「マリー、教えてくれ、俺の何が悪かった。必ず反省して直すから、頼むから教えてくれ」
「しつこい男なんて、サイテーよ!!」
スカートの裾がひらめき、補佐官の向こう脛に蹴りが入る。
あれは痛い。涙が出るほど痛い。
案の定、補佐官は心持ち身を屈め、苦しそうな声を出した。
「マリー、愛してる。離婚なんて言わないでくれ」
「私が愛してるのはソランです! 次は子供たち! あんたなんか、下から数えて何番目だから!」
「マリー!!!」
補佐官が悲痛に叫ぶのを、フランシスは唖然として見ていた。
その腕をエルドシーラが掴み、元のコースへと引っ張っていく。
彼は怒鳴り声と叫び声が聞こえるたびに振り返りたい衝動を抑え、おとなしく先輩に従ったのだった。
「いや、なんだ、その、そういうわけだ」
夫婦喧嘩の声が聞こえなくなった所で、ぼそりとエルドシーラが言った。
「……はい」
フランシスも、呆然としながら、ぽつりと答えた。
それ以外、答えようがなかった。
なぜなら。
あの強烈な肘鉄。鋭い蹴り。話しながら補佐官の手を振り払う、流れるような組み手の攻防。それらはどれも、彼女の噂を裏付けるものだった。
マリー・ランバート。王妃命の、史上最強と称えられる乳母殿。
第一王子を狙った刺客三人を、ものの数秒で始末したと言われている女性だ。
しかも、『王妃の花園』の中心人物でもある。
補佐官相手に一歩も引かない、いや、むしろ完全に尻に敷いている姿に、フランシスは圧倒されてしまっていた。
とても彼の手に負えるような女性とは思えなかった。
「あー、どうだ、業務が終わったら、飲みに行くか。奢るぞ」
「……はい。ありがとうございます」
フランシスは、なんだか急に秋風が身と心に沁みて、魂の抜けた顔で、高い空を見上げたのだった。
こうして彼の初恋は、終わりを告げたのだった。