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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
閑話集 四季折々
142/149

閑話 秋の夜長に(イアルと殿下)

「おまえ、ソランと寝ていた頃があったそうだな」


 イアルは酒を舐めつつ、横目でそっと、隣りに座る殿下の表情を覗った。

 杯を揺らし、中が波立つ様子を無表情に見ている。平時と変わらない顔色だが、もしかしたら酔っているのかもしれなかった。

 そうでなければ、高い自尊心を持つ殿下が、男相手に嫉妬心を見せるわけがない。


 ソランのまわりに群れる女性たちと火花を散らしてみせるのは、殿下にとっては娯楽の一種だ。結局ソランは殿下を最優先にするのだから、それを見せ付けて楽しんでいる節がある。

 だがそれは女性相手だからで、恋の鞘当が洒落にならない男相手では話が違う。触るどころか、時々、見るな、と視線一つで、偶々居合わせた男たちを追い払うほどだ。

 他の誰でもない殿下の妻、それもよりによって、無茶が服を着て歩いているような、殿下にベタ惚れの、聖騎士位を持つ女になんかに、誰がどうやって手を出せるというのだろう。

 なのに、すさまじく狭い了見で威嚇するのだ。

 そんな殿下が、たとえ過去の話であっても、ソランと他の男との関係を認めるのは、素面ならありえないだろう。


 ……面倒なことになった。この人が酒で乱れたところは見たことがないが、もしかして絡み酒なのだろうか。


 イアルは緊張しながら、努めてさりげなく返答した。


「子供の頃の話ですが」

「十四くらいの時と言っていたが」


 これまた殿下からも、さりげなく返される。


 ああ、はい、俺は18で大人でしたが、それが何か?


 奥歯に物の挟まったような応酬に、いっそそう返してやりたい衝動に駆られたが、やめた。

 イアルにとって殿下は、絶対に関係を破綻させられない相手である。まかり間違って勘気をこうむり罷免でもされたら、マリーに容赦なく離婚される。ソランの傍にいられない男になど、彼女は興味がないのだから。

 イアルは、なにかいっそ、物悲しい気分になってきた。

 かわいい妻はソランに夢中で、ソランはこの人に夢中。

 なのにどうして、その二人に常に無茶振りされて苦労しているイアルが、原因の頂点に立つ相手に因縁をつけられなければならないのか。理不尽にもほどがある。


 とにかく、二度とこんな鬱陶しい殿下の嫉妬に付き合いたくはなかった。事実関係をきちんと説明して、ここできっちり納得してもらった方がいい。

 イアルは杯をテーブルの上に置き、両手で囲って息をついた。

 冷静に殿下へと向き直り、淡々と説明を始める。


「ソラン様が初めて人を殺したのは、十三歳の時でした。留学先のエレイアに向かう途中のことです。盗賊に襲われて、しかたなく。気丈に振舞っていましたが、すぐに肉類をまったく受け付けなくなりました」


 殿下も顔を上げ、黙ってイアルを注視していた。真剣に耳を傾けているのがわかる。イアルは安心して話を続けた。


「それから、次は赤い食べ物でした。口に入れなくても、見るだけでも嘔吐(えず)くようになって。夜も何度も飛び起きて、ろくに眠れない日々が続きました。その時に、見るに見かねてのことです」


 そうしてソランは、精神的な圧迫に耐えかねて、深い眠りに陥るたびに、柔らかい何かを失くし、急激に大人びていったのだった。

 それはイアルにとっても、強く抱き締めたはずの腕の中から、大切なものが音もなく失われていく、きつく辛い日々だった。

 そこにある裏を知っていたからこそ、よけいにだったのかもしれない。


「そんな状態であっても、ソラン様は、村の用心棒を務めて盗賊を相手に実戦を重ねました。同時に、医学の勉強のために人体の解剖も行っていたのです。すべて、前御領主であるアーサー様の意向でした。(きた)るべき日に、ソラン様が剣を振るうことを、決して躊躇わないようにと。……いずれ、殿下の盾となり、剣となるために」


 殿下はイアルが口を噤んでも、しばらく話を待つように目を合わせていた。鉄壁の鉄面皮は少しも崩れておらず、どう感じているのかは窺い知れなかった。

 やがて、そうか、と言うと、自然に杯へと視線を戻していった。そのまま何を言うでもなく、ゆったりと傾けて口をつけている。

 イアルなら、あんな話を聞けば、いたたまれない気持ちで、礼と謝罪を申し述べるところだろう。

 だが、とイアルは不意に気付いた。この人にそれはできないのだ、と。そんな、その場限りの思いや言葉だけで済ませることは許されない。

 この人は一生、たくさんの命と思いを背負って生きていかなければならない。そういう立場にいる人だ。

 たぶん、話すべきではなかった。エレイアでのソランの様子はさておき、殿下のためにそうしたのだなどということは。

 一時(いっとき)の、この人も少しは思い知ればいいという意地の悪い気分は、今ではもう抜けていた。

 殿下のソランに関する了見の狭さを揶揄できない。自分こそ狭量だったと、イアルは少し苦い思いで酒を口にした。


 だから、(いや)なんだ。


 殿下の杯に酒が少なくなったのを見て、酒瓶を取り上げながら、腹の底からそう思う。

 器の違いを見せ付けられる。この人の背負う、常人には耐えられないだろう荷の重さを、垣間見るほどに。

 そのあまりの違いに、畏怖を覚えて膝を折りたくもなれば、同じ男として、無性に反発を覚えもする。

 だから、相手によっては、命を懸けるほどに入れ込む者もいるし、毛嫌いする者もいるのだ。そのどちらも、殿下にとっては不本意なものなのだろう。過ぎた評価も、貶す評価も、正しくないというその一点において等しくあれば。

 それでも、この人は決して己を曲げない。誰にもおもねらず、信念の下に、目指すべきものを見誤らない。

 だからイアルも、この先何があっても、後悔だけはしないだろうという確信があった。たとえ途中で己の命を失い、マリーを死なせてしまうとしても。

 ソランとこの人が選び、足掻き、必死に辿り着こうとしている未来を、信じられるから。


 瓶の口を傾け差し出せば、殿下が杯を出してきた。イアルが注ぎ終わると自分のものから手を離し、瓶を取り上げていく。そして、イアルの意向も確認せずに、どぶどぶと注いでくれた。

 世の中のすべてを睨んでいるような、ものすごく気難しい顔で。

 イアルは思わず小さく笑ってしまった。


「なんだ」


 表情ほどには不機嫌ではない声音で尋ねられる。


「いえ、女性(がた)は遅いな、と」


 適当にごまかせば、殿下は溜息混じりに言った。


「しかたあるまい。女は話が長いと決まっている」


 ディーの奥方シリンが、ソランの懐妊祝いにと、わざわざ領地からやってきたのだった。その際に、マリーの出産祝いまで用意してきてくれており、只今、その三人以外にも親しい間柄の女性が集まり、ディーの屋敷で晩餐会が開かれているのだった。昼のお茶会から、伸びに伸びてのことである。

 イアルは、ならばせめて自分たちの部屋でマリーの帰りを待つつもりだったはずが、そろそろ食堂で夕飯でもと、ふらりと出た所で殿下と鉢合わせし、そのままなぜか殿下の部屋で酒を飲んでいるというわけだった。

 本当なら今頃は、イアルは息子をあやすマリーに見惚れており、殿下も妃殿下をかまいたおしている時間だ。

 その貴重な時間が削られて、面白いわけがない。が、女性の(たま)の楽しみを邪魔するような無粋もできない。


「気長に待つしかあるまい。幸い、秋の夜は長いことだしな。おまえも、もうしばらくつきあえ。ソランの幼い頃の話でも聞かせろ」


 鷹揚に言った殿下は、イアルに顔を向け、わずかに笑みを刷いた。寛いでいるのがよくわかるそれは、男相手であってもドキリとさせる、非常に魅力的な表情だった。

 ああ、かなわない、と感じる。

 気に入らないと思っているのは確かなのに、どうしてこんな笑み一つで、こんなに、この人の願いを叶えてやりたいと思わされてしまうのだろう。


「かしこまりました。では、生まれた時から順を追ってお話ししましょうか」


 つい、そんな提案をしてしまう。


「ああ。そうしてくれ」


 殿下は杯から手を離し、背もたれに寄りかかって、聞く体勢を整えた。

 イアルは、酒を振舞ってくれた部屋の主の秋の夜長の無聊を慰めるため、大切な少女と走り抜けてきた、懐かしく、重く、何ものにも換え難い愛しい日々を、ゆっくりと語りだしたのだった。

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