閑話 初秋の願い事(ルティンとソラン)
初秋のその夜、王宮の舞踏ホールでは、国王主宰のきらびやかな宴が開かれていた。
二週間ほど前に、王妃がエランサに親征を行うと発表されたばかりである。軍事関係の主だった者が集められた、壮行会の意味合いの濃い集まりだった。
もちろんその中心となったのは王国の守護女神と名高い王妃であり、凛々しい軍服姿で現れた彼女のまわりは、今宵も艶やかに着飾った女性達が幾重にも取り巻いていた。
国王の合図で音楽が奏でられ始めれば、王妃の元には引きも切らず女性からの申し込みが続き、そのどれもを彼女は受けて、楽しげに男性パートを踊っていた。
そうして王妃と言葉を交わしたり、踊ったりした女性達は、誰もが皆、興奮のせいであろうか、はたまた王妃の人徳のせいであろうか、このホールに足を踏み入れた時よりも格段に輝きを増して、己のパートナーの許へ戻っていく。
だから男性達は、たとえ宴の度に王妃が女性達を独り占めしようと、苦笑でもってやりすごすのが常だった。
宴もたけなわを過ぎた頃、ルティンは王妃が衣裳替えをしている控え室にやってきていた。
衝立の向こうでは、侍女や女官が忙しく動き回る音がしている。彼が衝立越しとはいえこの場にいるのを許されているのは、彼が王妃の実弟だからだった。
「待たせたね、ルティン」
「いいえ、私にとっても、ちょうどよい休憩になりました」
衝立が取り払われたそこには、宴に集っていたどの女性よりも美しく艶やかな姿となった王妃が立っていた。
夫である王のシンボルカラーである緋色のドレスを纏い、王の瞳の色と同じ緑の宝石を主体に、王領であるキエラから取り寄せた真珠が添えられた装身具で身を飾っている。鮮やかな緋は白い肌と漆黒の髪を引き立たせており、差し色の緑は肌の上で彼女を守るように輝いていた。
まさに、王国にただ一輪の、王の華にふさわしい装いだった。
王妃は侍女から剣を受け取り、ドレスに合わせて繊細な意匠を施された剣帯に自ら提げた。
不世出の鍛冶師クレインの手による大剣だ。しかし、ドレスに似合わぬはずの無骨なそれも、王妃が身につければ、その美貌をさらに引き立たせるものの一つとなってしまうようだった。
ルティンは立ち上がって王妃の傍に寄り、跪いてその手の甲に口付けた。
彼がそうして敬う姿勢を示す女性は彼女だけだ。それに王妃は明るく声を上げて笑った。
「いつまで私を練習台にするつもりなんだ?」
「姉上より素敵な女性が私の前に現れるまでです」
「おかしなことばかり言う。今日だって、たくさん素敵な人はいただろう? いったいどんな女性ならルティンの心をとらえるんだろうね」
「私もお目にかかってみたいものです」
しれっとしたルティンの答えに、王妃はまた笑った。
ルティンは彼女の手を取ったまま、用意されたソファへと導いた。
この長い宴の間、今だけが彼女に許された休憩時間だった。そして、多くの重い責を担う二人が、ほんの束の間であっても、兄弟に戻ることを許された時間でもあった。
王妃は手振りでルティンにも座るようにうながすと、出された毒見の終わったぬるいお茶に口をつけた。一口だけで、たおやかな手付きでソーサーにカップを戻し、ルティンに目を向ける。
「今回のことに、ひどく腹を立てていると聞いた。でもこれは、王の意志であると同時に、私の意志でもあるんだ。だから、王を恨まないで欲しいんだ」
「わかっております」
模範的な答えが返された。ただし、是、という内容のわりには拒絶を示しているようで、王妃は窘めるように、また、縋るように、彼の名を呼んだ。
「ルティン」
「本当です。わかっております。ですから、反対はいたしませんでした。この負けるわけにはいかない戦に、姉上のお力が必要なことは承知しております。
それでも私は、姉上が心配なのです。あなたを戦へやるしかない無能な自分にも、王にも、この国にも、世界の現状にも、少々腹が立っているだけです」
正直に語るルティンに、幼い頃と変わらない肉親の情を見出して、王妃は優しく苦笑した。
「ありがとう、ルティン。でも、心配はいらない。私は無事に帰ってくるから」
「当たり前です。そうでなくては困ります」
「うん。本当にそうだね」
王妃はそう言って、またカップを取り上げた。そしてそれを飲む前に、カップの中を覗き込んだまま、ふと呟くように言葉を口にした。
「本当はね、いざまさかの時、私はずっと、あの人より後に死ぬ気はなかったんだよ」
「姉上」
硬い声を出した弟に彼女は視線を上げ、微笑んだ。
「私はあの人の盾だ。それは当然だろう?」
「姉上、国王陛下と出合った頃とは、お立場が違います。どうかお願いです。ご自重なさってください」
「うん、わかってる。なかった、と過去形で言っただろう? この頃は、立場とは別に、あの人より先には死ねないと、そう思うようになったんだ」
驚いてルティンが見返すと、彼女は息を飲むほど美しい微笑を浮かべていた。
とても幸せそうに、そして、切なげな情熱と覚悟を秘めて。
「だって、私が死んだら、あの人は深く嘆いて、きっと泣く。自分を責めて、死ぬまで二度と笑わない。私は絶対に、あの人に後悔に苛まれた人生を送らせたくないんだ。だから、私は一秒でもいいから、あの人より長く生きたいんだ」
なんのてらいもなく、自覚もなしに熱烈に惚気た姉に、ルティンは呆れた溜息をついて、ゆるく横に首を振った。が、口に出して責めたのは、姉ではなくその夫の方だった。
「もしも姉上を先に死なせるような男なら、そこまで気にかけてやる必要は、まったくありませんよ」
あははは。無邪気に王妃は笑った。
「ルティンはどうしてそれほどあの人に厳しいのかな。ルティンだって、たった一人、その膝を折った相手だろうに」
「仕方ありませんでしょう。あの男が死んだら、姉上がお嘆きになるのだから」
あの男呼ばわりなど間違いなく不敬であったが、今この場でそれを非難する者はいなかった。
彼はさもその気がなさそうに言っているが、それだけの理由で、誇り高い彼がおとなしく誠意をもって仕えるなどあるはずがなかった。認めた相手だからこそ臣従した。それを姉である王妃はよく知っていた。
「では、私のいない間、あの人をお願いね、ルティン」
やれやれ。そんなふうに二度目の溜息をついた彼は、それでも恭しくその場で腰を折った。
「他でもない、親愛なる姉上の頼みとあらば」
王妃は立ち上がり、弟へ向かって屈んだ。その頬にキスを落とす。
「ありがとう。これで安心して戦に行ける」
ルティンも姉の頬にキスを返し、心を込めて囁いた。
「どうか、ご無事で」
彼女は一つしっかりと頷いた。
そして、凛と背筋を伸ばして立つ。ウイシュタリア王国の王妃の顔となり、彼に命ずる。
「さあ、では、ルティン、エスコートを」
彼女はこれから、愛しい夫と一曲だけダンスを踊るためにホールに戻るのだ。
「仰せのままに、陛下」
彼は優雅な美貌に笑みを刷き、敬愛してやまない姉へと、手を差し伸べたのだった。