5 出仕
ソランとイアルはファレノ家の小船に乗り、朝早くから軍本部へ出向いた。受付で案内され、すぐに殿下が統括している情報立案局に連れて行かれた。本部に付属して建つ、小さな館だった。
「おはようございます、ファレノ殿、ランバート殿」
昨日、小船の上で手を振っていた人物が出迎えてくれた。社交儀礼以上にとても上機嫌で楽しげである。殿下の副官であるという人の名前を思い出しながら腰を折る。
「おはようございます。エフィルナン様」
「様はいらない、いらない。俺のことはディーって呼んで。うちはアティス殿下の我儘で、基本敬称無しの名前呼びだから。君たちもソラン殿とイアル殿って呼ばせてもらうよ。これからよろしく」
握手を求められる。大きな手を取り、握り締める。剣だこでごつごつしている。それに筋肉もよくついていて肉厚だった。背はほとんど変わらない高さだろうに、男の人の手だと思った。ソランの手も他の女性に比べれば大きく厳ついが、やはりいくぶん造りが華奢である。
合った黒い目は思ったより無邪気だった。父と同じ腹黒いタイプかもしれないが、少なくとも名の呼び方については引っ掛けでもなんでもないようだ。
「よろしくお願いします。ディー殿」
イアルも握手を済ますと、事務室はこっち、と階段に導かれる。踊り場で折り返しながら、延々と長い階段を上る。
「この館は殿下の私邸なんだ。四階は主に殿下の私室で、警備の関係上、五階に事務室があるんだよ。三階と二階が私たちの私室、一階が食堂や居間なんかの共同スペース。後で案内するよ。あ、客間も一階だ。お偉いさんには年寄りが多くて、五階まで上らせるのが一苦労だからね」
四階分上りきったところに衛兵が二人立っていた。
「殿下の直轄で入った軍医で、ソラン・ファレノ殿と助手のイアル・ランバート殿だ。以後見知りおくように」
「はっ」
揃って了解の意である右拳を左胸に当てる動作をする。それに微笑んで軽く会釈を返した。
もう一階分上り、中央にある階段から右手に入って少し行った、扉の開け放たれた部屋に入りこむ。広い。
その中に人はわずかに一人いるだけだった。気配に顔を上げるが、軽く会釈しただけですぐに俯き、仕事に戻る。
あとは奥の大きなテーブルから、手前にあるいくつもの一人用の机、窓がある以外の三つの壁面の棚など、どこもかしこも書類が散乱していた。
そのうち比較的机の表が見えている席で、辞令書を受け取り、サインをしただけで手続きは完了した。
「おおい、紹介するよー」
彼はゆらりと立ち上がり、とぼとぼとやってくる。顔色が悪い。目の下に隈がある。白目も充血している。シャツもズボンもグシャグシャ。
「大丈夫ですか?」
ソランは思わず、しげしげと顔を覗きこんだ。
「大丈夫です。徹夜しただけですから」
酷く疲れているだけのようだった。病的な感じは受けない。
「ありがとうございます」
彼はなぜか礼を言い、ふいに言葉に詰まって涙ぐんだ。
「ここでこんな優しい言葉をかけてもらえるなんて」
ソランは困惑してディーを見遣った。
「夕べ、殿下にいろいろ指示されたようで。彼はケイン・ストラロース。ええと、なんだろう、事務員?」
疑問系で事務員と言ったディーを、ケインは恨みがましい目で見上げた。
「こちらは軍医のソラン・ファレノ殿とその助手のイアル・ランバート殿」
「よろしくお願いします」
イアルと頭を下げる。
「ただの事務員のケインです。こちらこそよろしくお願いします」
どうやら、ただの事務員ではないらしいと、ソランとイアルは察した。
「彼が倒れているのを見つけたら、速やかに衛兵に連絡してやってもらえるとありがたい」
ディーの言葉に、途端にケインが真っ赤になった。
「いえ、時々、寝不足で倒れるもので」
もごもごもご。だんだん小さくなっていく声でなにやら弁明している。でも、寝不足ごときで倒れるのはちょっと普通ではない。
「それは心配ですね。あとで診察させてもらってもいいですか?」
「いえいえいえいえ! どこも悪くないです!」
首と手を横にぶるぶる振るっている。なんだか落ち着きのない人だった。
「むしろ丈夫だよね。四日四晩貫徹できるんだもん。それで限界を超えて、ばったりといくんだよね」
今度は縦にこくこくと頷いている。
「そうですか。具合の悪いときはいつでも声をかけてください」
「はい。ありがとうございます。その時はよろしくお願いします。では、仕事がありますので、これで失礼させてもらいます」
さっきよりはいくらか急ぎ足で戻っていく。
「間違っても、滋養強壮薬は与えない方がいい」
見送りながら、イアルが小声で言った。
「ああ。死ぬまで働いてしまいそうだね」
ディーが苦笑する。
「むしろ、盛るなら睡眠薬ってことですね」
ソランは真面目に言ったのに、なぜかディーに大笑いされた。
「いやあ、そのすっ飛ばし方、顔に似合わず豪快だ」
じゃあ、次、私室に案内するね。笑いを噛み殺しながら言う彼の後を、ソランは不本意だという顔をしてついていった。
「昨日は迷子だったんだって? どう、王都には慣れそう?」
「ええ、はい。慣れようと思っています」
できるかできないかではなく、そうするつもりだというソランに、ディーは振り返ってその表情を確かめた。気負った風でもなく、自信に溢れているわけでもない。ごく普通の様子を。
「何か?」
「方向が捉えにくく造られているのに?」
「船頭たちは都中を渡れるそうですから。できないことではないでしょう」
「どうしてそう造られていると思ったの?」
「三つの塔です。一つは軍本部のものだったのですね」
王都の中央と思われる方向に三つの塔が見え、それを目印にしようとすると、余計に位置が分からなくなっていく。
「あれは正三角形に並んでいるのではないですか?」
「そうだよ」
「右や左にくねりながら、少しずつ水路は巧妙に方向を変えています。だから、よほどあれを注視していない限り、乗っている人間は反対方向に向かっていても分からなくなっていく。さっき見た塔と今見ている塔の位置が入れ替わっていても、そっくりで見分けがつかないでしょう」
「なのに、君は位置が変わっていると分かったんだ?」
「目印のない場所で育ったので」
ディーは数秒ソランを見て考え込み、イアルに目を向けた。言葉の足りないソランの代わりに説明を求めたのだ。
「私たちの領地は辺境地にありますので。広い台地か鬱蒼とした山しかないとなると、目印が非常に乏しいのです。家から離れたら最後、自分の方向感覚だけが頼りとなります」
「では、ここにいても屋敷の位置がわかると?」
「はい。でも道はわかりません。ですから昨日、迷子と申し上げたのです」
驚いた、と言ったきり、ディーはしばらく言葉を失っているようだった。ついでに足も止まっていた。
「もしかして、昨日入ってきた王都の門の位置も? とすれば、領地の位置もわかるの?」
「ええ」
「すごい特技だ」
「うちでは普通です」
「ああ。でないと生き残れないんだね?」
「そうです」
「すごい領民だね」
「ええ」
ソランが頷く。柔らかく愛情に満ちた美しい微笑で。
ディーは目を瞠った。かと思うと跪き、ソランの右手を取り、唖然として無反応なのをいいことに、手の甲に口付けた。
「美しい方、どうか私の愛をお受け取りください」
「は?」
「美の女神リエンナより美しく、豊穣の女神フェルトより慈悲深い。その上知の神エセベトの申し子であり、なにより変わっている! 私の理想の人です」
ソランもなんとなく、愛の告白を受けていることに気付きはじめた。それで遅ればせながら青ざめた。
もう、女だとバレたのか?
昨夜、殿下は並み居る貴族の姫君たちに猛アタックを受け、その凄まじさにすっかり女嫌いになってしまったのだと聞いた。女とバレたら敷居を跨がせて貰えないだろうと。
おまえの価値を理解してもらうまで、男として振舞っておきなさい。嘘をつけば後で面倒だから、断言はしないように。幸い、おまえはどこからどうみても男性だ。まず心配ないから。
そう言われていたのに。だが、次の言葉で違うらしいとわかった。
「貴方のためなら、次期領主の身分を捨ててもいい。跡継ぎがいると仰るなら、その間は我慢もしましょう。どうか、この手を私だけがとることをお許しください」
決定的に彼とは嗜好が違うようだった。この国では珍しいことでもなかった。他国では同性同士を忌み嫌う地が多いが、この国ではこと愛に関しての垣根は低い。同性だろうが歳の差だろうが不倫だろうが、それが真実の愛であるならば、すべて許されるのだ。
ただしそれは建前で、領主となれば跡継ぎはいるし、となれば同性では子供はできない。また、不倫でも血筋に問題が出る。背負っているものが大きいと、利益にもかかわるから別れられない場合も多い。
そんなわけで、同性でも異性でも、子供ができた後はお互い愛人を囲うなどという話も多いのだが、ソランは身近な人たちを見て、平凡でも温かい家庭が欲しかった。
だが、そんな瑣末には関係なく、ディーの言葉はソランの逆鱗に触れていた。
「断る」
ぱん、と手を払いのけ、ソランは彼を睥睨して低い声で言い放った。
「次期領主の身分を捨てていい? だったら今すぐ捨てて来い。中途半端な決心は領民に迷惑だ!」
雷のごとき苛烈さだった。ディーはまたもやそれに見惚れた。そして今度はあろうことか、素早くソランの腰に抱きついた。
ソランは咄嗟に避けようとしたが、さすが殿下の副官、体術は優れていた。まんまと縋りつかれる。
「素晴らしい! 俺はもう、君の愛の奴隷だ!」
「いっ、いるかっ、放せっ」
イアルが助けに入ろうとするが、上官をどうやって止めたらいいのかわからないらしい。三人でおしくら饅頭のようになる。ソランは我慢の限界に近付き、拳を固めて振り上げた。
「……だから、聞き流せと言っただろう」
呆れた声が聞こえたと思ったら、黒いものが振り下ろされ、ディーの後頭部に当たった。両手を離し、頭を押さえて蹲る。
殿下が三人の騎士を従え、愛剣を鞘ごと右手に持ち、立っていた。
「まったくおまえは、良識を持てと言っているだろう。綺麗なものなら花から女から男から果てはトカゲや芋虫にまで愛を捧げるな。特に私の耳目の及ぶところで、その無差別な悪趣味を垂れ流すな。鬱陶しい」
「美しいものを愛でるのは男の本能です!」
「一緒にするな、迷惑だ」
「朴念仁の殿下となんか、一緒にしません!」
「おお、ありがたいな」
憤った顔で殿下を見遣ったが、ディーは口を噤んだ。どうやら決着はついたようだった。