11
ルティンはハイデッカーと並んで廊下に待機していた。扉は開け放してある。中の会話は筒抜けだった。
目を瞑って苛々をやり過ごそうとするが、あまりうまくいっていなかった。例によってアリエイラは捨て身の会話を披露している。どうして彼女はあそこまで偽悪的で自傷的なのか。ルティンは中に入っていって、彼女の口を塞ぎたくてたまらなかった。
王は彼女を試すような会話を繰り広げていた。彼女がウィシュタリア語がわからないのをいいことに、途中でディー・エフィルナン筆頭補佐官に、「この女をどう思う?」などと聞く始末だった。
「まさにソラン様好みのお方ですねえ。ヘタをすると、出産祝いの品に主役の座を取られますよ」
補佐官も補佐官だ。王の機嫌が急降下するようなことを、面白がって言上する。
王は到着して開口一番、彼女を妃の出産祝いにする、と言明した。きっと大喜びするだろう、と楽しげに笑っていた。同時に、妃があれほど欲しがった人物だ、彼女はきっと、これからの局面に必要な人材となるだろう、とも言った。
姉は、ウィシュタリアの王妃は、危難に必ず運を招きよせる。我らはそれを不用意に逃してはならない。王はそれを誰よりもよく知っていた。そして、いつでも正確に捕まえる。それは、如何様にも意味の取れる不確かな神託から、正しい意味をすくい出す神官の所業に似ていた。今回のことも、それで王自らが出向いてきたのだろう。
王と姉の間には、余人には入り込むことのできない絆がある。どんなに忌々しくても、ルティンもそれを認めないわけにはいかなかった。
彼女を保護すると決まれば、あとはどこで彼女の身を預かるか、ということが問題だった。
たったそれだけのことだ。彼女は責任感の強い人だ。それが必要とあらば、理由を説明するだけで受け入れたはずだ。なのに、王は彼女に危機感を覚えて、ねちねちといたぶって、姉の庇護下に入らないという言質を取った。
これ以上、姉のまわりにうるさい女が増えるのに我慢ならないのだろう。「王妃の花園」と呼ばれる姉が庇護する女性たちは、姉を守る強固な砦であったが、男にとっては敵に回すと最も厄介な代物になる存在でもあった。
男として、それは理解できた。しかし、だからと言って彼女を脅す理由にはならない。ルティンははらわたが煮えくり返るような怒りを感じていた。
「心配するな。動けないように、しっかり縛めてきたから」
何を思ったのか、ハイデッカーがこっそり耳元で囁いてきた。のみならず、
「がんばれよ」
と、心のこもった激励までしてくる。ルティンはあまりの気持ち悪さに、八つ当たり込みで拳で軽く殴るようにして奴の顔を遠ざけた。
本気で、余計なお世話だった。ほぼ公開求婚なのも気に入らないのに、それを一部始終こいつに見聞きされるのが、一番癪に障る。ここで絞めていったん落としておくべきか。ルティンは殺気を隠しもせず、殴られた頬をさすっているハイデッカーを見遣った。
そこに折り悪く、入れ、との声が聞こえた。
「王と補佐官が出たら、扉は閉めろ」
小声で指示する。奴は目を逸らして無視する体勢に入ろうとして、失敗して小さく噴出し、わかった、と答えた。
ああ、くそ。面白くない。
ルティンは苛立ちを隠して、無表情に室内に入った。入ったら入ったで、王がやたら親しげに近付いてきて、ぽん、と肩に手をのせてきた。
ルティンは絶対に王と目を合わせなかった。気配でわかる。からかう気満々だ。目が合ったら最後、自国の王だということを忘れて、殴り飛ばしてしまいそうだった。
「ここまでお膳立てしてやったんだ。必ず落とせよ」
ルティンは本気で殺意を覚えたが、反応を示してやるのは癪だった。
「かしこまりました」
必要以上に礼儀正しく答えることによって、完璧に王の意図を黙殺する。
それにもかかわらず業腹なことに、王は笑いを堪えながら、もう一度彼の肩を叩いて、補佐官を引き連れて部屋を出て行ったのだった。
アリエイラは、両手両足をこれでもかというほど縛められていた。その姿に胸が疼く。彼女の前で跪いて、その手を取って手械を撫でながら、悪態をつかずにはいられなかった。
「人の女にこんなことして、ただですむと思うなよ」
彼女に視線を移しながら、いつの間に、こんな独占欲が芽生えたのかと考えた。
初めは、彼女の思うままに死なせてやりたいと思ったのだ。いつも、姉が思いを貫けるように、奔走しているのと同じように。姉に似たところのある彼女の心を守りたい、ただそれだけだったのに。
今なら少しだけわかる。ルティンを閉じ込め、涙ながらに自分のものになってくれと呻いていた彼ら、彼女らの気持ちが。それほど、彼らはルティンに恋焦がれていたのだろう。まさに、喉から手が出るほど。
けれど、絶対に同意できない気持ちもあった。相手を閉じ込めて、自由を奪って、自分だけしか見えないようにして、いったい何が満たされるというのだろう。
そんなもので、この独占欲は満たされない。ルティンは彼女の瞳に揺らめいて見える、彼女の強い意志に惚れていた。青い青い深い水底を覗き込むように、果てのないそれは、決して閉じ込めることはできないだろう。
この部屋に籠り、日一日と余分なものをそぎ落として、純度を高めるようにしていった彼女が、エーランディアの尊崇の礼の後に浮かべた、消え入りそうに透き通った美しい微笑を思い出す。初めて彼女から差し伸べられた手を、どれほどの焦燥で掴んだことか。
このまま閉じ込め続ければ、彼女は外の世界を見ることもなく、知ろうともせず、消えるようにして失われてしまうだろう。だったら、彼女を外の世界へと放ってやるしかないではないか。
幸い地位も権力も金もコネも才知も美貌も取り揃えて持っている。この世でただ一人、ルティンが膝を折る王からも許可が出た。ならば、己の全能力を傾けて、彼女を自由にしてやらないでどうするというのだ。
ただしそれは、ルティンの腕の中、目の届く範囲のことだ。この美しい不羈の獣を、逃すつもりは彼にはなかった。首に縄はかけなくても、手懐けて、決して自ら離れていかないようにしたかった。
だから、ルティンは己の美貌を駆使して彼女の目を釘付けにしておいて、滔々と彼女を口説いた。誠心誠意訴えかけた。他の人間には、たとえ姉であろうと、これほど下手に出ることは有りえなかった。彼女だからこそ、恥も外聞もなく口説かずにはいられなかったのだ。
なのに、彼女は蕩けきった顔をして人の顔を凝視していたにもかかわらず、くだらない理由をこねて、小ざかしい反論をしてきた。よりによって、本気か、などという心無い言葉で。
どこまで頑ななのだろう。恐ろしく真面目で、自省的だ。そのくせ、今も「女」の顔して人を見ている。いつもいつも眼差し一つで誘ってくるくせに、自分が何をしているのか、本気で気付いていないのだ。
彼女は無意識に男を翻弄する悪女だった。それが、エーランディア最強といわれる部隊を作り上げたのだと、腹立たしさと共にルティンは理解した。ルティンもまた、その誘惑にまんまと引っかかった男の一人なのだ。
ただ一つ違うのは、彼女もまた、彼に囚われているということだろう。瞳が雄弁に語っている。ルティンを一瞬でも見逃したくないという目で見ているのに。
もどかしい苛立ちを込めて、『あなたはどうなんですか』と問いかけた。気付かないわけがない。無視できるわけがない。こんな、胸を引き裂くような思いを、誤魔化せるものか。
すると、彼女は、燃えるような目で睨みつけてきた。
ああ。まったく、この女は!
ルティンは満足を覚えながらも、心の中で呻吟した。どこまで人を煽れば気がすむんだ。
我慢できなかった。どうにもルティンを煽る瞳を唇で瞑らせ、お願いだから、早く承諾してくれ、と唇の端に口付ける。
彼女が鎖をかけられていて良かったと、馬鹿馬鹿しいことに、ハイデッカーに感謝する気分にさえなっていた。そうでなければ、紳士の皮などかなぐり捨てて、強硬手段に訴えていたかもしれなかった。
『後悔するぞ』
彼女は苦しげに呟いた。
あなたを手に入れられない以上の、どんな後悔をするというんだ。それに、私が後悔する破目に陥るような阿呆だとでも思っているのか。それとも、あなたに後悔をさせるような、能無しだとでも?
彼女がいろいろと抱えているのは知っている。それにルティンを巻き込みたくないだけだというのも、見ていればわかる。それでも、みくびられたものだ、と思わずにはいられなかった。
後悔など、する余裕はない。そんな余力を残した思いを、この女にかけているわけではない。わからないというのなら、一生かけて、理解させてやる。
少々意地悪な気分で囁く。それでも、焦らされる熱をはらんで、自分でもびっくりするほど声は甘かった。
『たぶん、あなたの方がたくさん後悔するでしょうから、痛み分けですね』
『私の方が後悔する予定なのか?』
目を見開いて、呆れた口調で聞き返してくる。
『ええ。絶対』
『そうか』
彼女は安心した様子で呟いた。
本当に、馬鹿な女。後悔すると言われて、己より相手の後悔が少ないことを喜ぶような。だから惹かれずにはいられない。思い知らさずにはおけない。私をみくびったことを、これから何度も後悔させてみせる。
だから、どうか、私があなたと共に生きることを受け入れてほしい。どこへ行ってもいい。何をしてもいい。私があなたを助けるから。死を遠ざけ、生きたいと思ってくれれば、それでいいから。
『ゆるしてくれますか?』
祈るような気持ちで、懇願する。彼女は熱さに喘ぐように囁いた。
『ゆるす』
震えるような喜びが体中を満たした。英知と情熱を秘めた赤と金の瞳を閉ざさせる。今はその瞳を奪っているより、ルティン自身を彼女に刻み付けたかった。この世に引き留める、一つの楔となれるように。
彼は愛してやまない魂を請うて、アリエイラの唇に口付けた。
エーランディアの軍神であったユースティニア王家の姫君を娶った彼は、彼女と共に植民地の解放に尽力することになる。
その過程でアリエイラは片腕を、彼は片目を失い、顔に傷も負った。
彼女は彼に縋りついて声を殺して泣いたが、決して謝罪は口にしなかった。彼女もまた、何があっても後悔しない覚悟をしていたのだ。
この一件で彼は更に彼女に惚れ込んだと語ったと、病床を見舞った親友が、王妃に宛てた手紙に書き残している。
やっとこれで人並みだと、傷を負ったことを喜んでいたとも伝えられているが、その美貌が損なわれたかというとそうでもなかったらしい。ある詩人は、貴方は欠けることによって完璧な美を手に入れた、と賞賛したという。
その証拠に、彼の帰国直後、王都では眼帯が流行り、劇場では、聖剣を持った乙女が一人で千人の敵を退ける話と、美貌の青年が異国の姫君を片目と引き替えに手に入れる恋物語が、人気を二分したと言われている。
母国に帰ってからは、エーランディアの移民を統率して、それまであまり開けていなかった東部の開拓に携わった。王の推奨した教育事業にも熱心に取り組み、その分野でも名を残している。現代の学生も天才と名高かった彼の名を、試験前におまじないとして未だ唱えているほどだ。
名高き統一王の下で御世を支えた一翼は、彼が拓いた大工業都市イルチスの中心部にある、創建当時の姿を残す古い教会の敷地内に、最愛の妻と寄り添って眠っている。
平和と繁栄の礎となった彼らの墓には、今も絶えることなく花が手向けられているという。