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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
閑話 ルティンの恋
134/149

10

 正午を過ぎたが夕刻にはまだ早い時間に、外が騒がしくなった。ウィシュタリアの兵たちが声を揃えて何事か怒鳴っている。駐屯地側は廊下になっていて、部屋から外に出なければそちら側は見られない。

 アリエイラは窓辺の椅子に座ったまま、目を瞑った。耳を澄ます。微かに、ウィシュタリア、と言っているのが聞き取れた。声の調子も明るい。どうやら、歓声で迎えられるような人物がこの駐屯地にやってきたようだ。

 来るべき時が来たのだろう。

 アリエイラは簡単に身形を整えた。と言っても、髪を梳かし、服の裾を引っ張って直した程度だったが。それから、いつもどおりに姿勢を正して椅子に腰掛けた。窓の外に視線を向ける。

 今日も空は晴れ、海は穏やかに凪いでいる。嵐の海も見てみたかったものだと、少しだけ思った。




 扉の向こうからウィシュタリア語で話しかけられ、どうぞ、と返すと、ハイデッカーと呼ばれる護衛が顔をのぞかせた。鎖を持っており、ウィシュタリア語で説明される。理解できるわけもなかったが、この状況で要求されるのは一つしかないだろう。アリエイラは口を噤んだまま両腕を差し出した。

 彼はアリエイラの了承を見て取ってから部屋に入ってきて、アリエイラに身振りで座っているようにうながすと、丁寧な所作で両手足を鎖で繋いだ。それがすむと律儀に礼をしてから出て行った。

 鎖は手足を縛め立てないようにしているだけでなく、鉄球まで繋げられていた。さすがのアリエイラでも、これでは動くことができない。あまりの念の入れ具合に、これから会う人物はかなり高い地位にいるのだろうと予想できた。


 開け放されたままだったドアから、二人の人物が入ってくる。先に入ってきた男は、アリエイラを見て軽く目礼をして脇に退き、次の男に場を譲った。二人目は非常に背の高い、黒衣の男だった。彼女を見下ろす緑の瞳は静寂を宿していたが、その威圧感は並みではなく、アリエイラは全身が総毛だった。恐ろしい、というより、畏怖に体が竦む。虚勢を張ろうなどという気にもなれなかった。その男の前では、自分がまるで歩いたばかりの幼子程度に感じた。


『ウィシュタリア王アティスだ』


 流暢なエーランディア語で簡潔に名乗った。そこへ先ほど出て行ったばかりのハイデッカーが椅子を一脚持ってきた。王に声を掛けると、王は笑みと呼ぶには剣呑な、凄みが増すばかりの表情を浮かべて、そこに座った。

 それを待って、アリエイラも名乗った。声が震えないように下腹に力を入れる。背筋を伸ばしておいて良かったと思った。それだけで意識も真っ直ぐになる。


『エーランディア聖国の軍神ウルティアだ』


 王は背もたれに寄りかかり、足を組み、腕も組んだ。寛ぎきった姿だったが、威圧感は減らず、むしろ音を立てて辺りの空気が重くなった気がした。


『地上に神などおらぬ。聖国王をその手で殺したアリエイラ殿は、わかっていると思っていたのだが』


 深みのある声で咎められた。面白がる余裕は残しながら、神を僭称することに不快を示してくる。


『私が本当は何であるかなど、問題にはならないはずだ。我が名は、この地ではあなたの名より有名だ』


 緊張しながらも、上擦らないようにゆっくりと話す。弱みは見せたくなかった。


『なるほど。己の名からは逃れることはかなわぬと?』

『逃れようとは思わない』


 王はすうっと目を細め、視線はアリエイラから逸らさずに、後ろに立つ男へと少し頭を傾けた。ウィシュタリア語で話しかける。後ろの男が軽い口調で答えると、王は眉間に皺を寄せた。その上、心底忌々しそうに溜息をついた。

 明らかに不機嫌さが増したのがわかる。どうやら不興を買ったようだ。じりじりとする焦燥が背骨辺りで疼く。死ぬ覚悟をつけてはいたが、やはり恐ろしいものは恐ろしかった。ただ、だからといって、ここまできてこの王におもねろうとは思わなかった。アリエイラにはウルティアとしての矜持がある。それは、エーランディアの矜持でもあった。まだ、生きている部下がいる。バルトローもだ。死んだ者たちは冥界から彼女を見ているだろう。彼らの誇りをアリエイラの惰弱で穢すわけにはいかなかった。

 王はアリエイラを冷たく見据えて言った。


『貴公の身柄はウィシュタリアが貰い受けた。バルトロー殿が人質として差し出してきた。貴公の身の安泰が、植民地と奴隷を返還する条件となる』


 あのクソ兄貴め、よけいなことを!

 アリエイラは舌打ちしたい衝動を堪えて反論した。


『それだけでエランサの溜飲が下がるものか。撤退したとしても、恨みは消えない。必ず、何十年、何百年後に火種が火を噴く。私の身柄を渡すなら、むしろエランサが妥当だ』

『貴公一人を殺したところで、どれほどの恨みが晴れると思っている。そんなものは焼け石に水だ。それだけの覚悟があるなら、ダニエル・エーランディアの下に降れ』

『そしてまた違う神を担ぎ、僭称しろと? ごめんこうむる』


 アリエイラは畏れを忘れ、怒りを閃かせて拒絶した。

 王は鼻で笑い、アリエイラを煽るように足を組み替えた。


『ならば、我が妃の下にて、バルトロー殿の援護に向かうか』

『聞こえはいいが、それは結局、従わない植民地への攻撃であろう。私は自国の民に刃を向けることはしない』


 それは為政者の端くれとして、決して越えてはいけない一線だ。アリエイラの心の中にある、最後の砦でもあった。

 たとえ己が獣と化しても、守らなければならないものがある。アリエイラはそのために軍神とされたのだ。それは、人々のために神の祝福を得るため。王だけではない。貴族たちだけでもない。最も底辺に生きる民にこそ、幸せを与えるためだったはずなのだ。

 なのに、王はあの日、言った。


『従わぬ者はすべて殺せ。それすらできぬのか。愚かな半端者。神ならば神の意を実現するに迷うはずもない。右目の欠けたなりそこないめ』


 己の民を殺せと命ずる者になど、王たる資格はない。民あっての国であり、国あっての王なのだ。その民を殺して、どうするというのだ。

 あの時アリエイラは、彼女の存在意義を否定し、人々に従うことを求め、命すら差し出させておきながら、人を顧みない無慈悲な『神』に絶望したのだ。

 アリエイラは、聖王と同じものになるつもりだけはなかった。絶対に。


『ダニエル・エーランディアも、我が妃も嫌だというそれに、二言はないな?』


 王はアリエイラを睥睨した。アリエイラは断言した。


『ない』


 王はニヤリとした。物凄く人間臭く、そして人の悪い笑みだった。アリエイラは背筋に冷たいものが這うのを感じた。勢いに任せて、最も最低な悪手を打ってしまった予感がした。


『良かろう。では、最後の方法だ。我が国の高官と婚姻を結んでもらう』


 アリエイラは絶句した。政略結婚は王族には付きものだ。姉や妹もそうやって他島の王族に嫁いだし、多くの義母たちも同じ理屈で集められた。だが、それが自分に降ってくるとは欠片も思っていなかった。

 思ってもみない提案に、口を半開きにしたまま言葉が出てこない彼女に、王は機嫌よく畳み掛けた。


『なに、相手については貴公の好みもあろう。幾人か用意しよう。その内から一番マシだと思う者を選べばよい。そのくらいの融通はつけてやろう』

『いや、だが、相手にも好みがあるだろう』


 軍神を欲しがる男など、いるわけがない。


『心配はない。タデ食う虫も好き好きだ。まずは一人目だ。入れ』


 王はざっくばらんな反論を述べて、問題ないとばかりに、廊下に向かって声を掛けた。それと同時に席を立ってしまう。入ってきた彼に歩み寄り、ぽん、と肩を叩き、ウィシュタリア語で彼の耳に何事か囁いた。

 入ってきた彼は、無表情に短く返事をした。それに王は楽しげにもう一度肩を叩いてから、出て行った。もう一人の男も黙礼して出て行く。

 あとには、ルティン・コランティアとアリエイラが、異様な沈黙の中に残された。




 彼はアリエイラの前で膝をつくと、鎖を嵌められている手首を撫ぜて、ウィシュタリア語で独り言をもらした。それからアリエイラを見上げて見詰める。何かを見透かすような視線に、アリエイラは身を固くした。


『将軍』


 問いかける響きに、唾を飲み込んでから、なんだ、と答えた。


『アリエイラ殿と呼んでもかまいませんか?』


 かまいませんか、と聞く割に、有無を言わせぬ雰囲気がある。いつもの穏やかな物腰ではない。そうすると、優しさや華やかさを醸し出していた美貌が、男性的でありながら、妙に男性離れした色気となって、アリエイラは直視することに耐えられず、思わず横に目を逸らした。

 すると、手首を握っていた指がつうっと手の甲を滑って手を握り、アリエイラの掌を撫ぜた。くすぐったさにびくりと震えて、反射的に自分の手を見ようとして、うっかり彼の瞳に捕まる。


『アリエイラ殿?』


 ぞく、とした。顔どころではない、体中が熱くなる。心臓が有り得ない速さで打ち、震えだしてしまいそうで、身動き一つできなかった。

 そうしておいて、彼は笑んだ。アリエイラの目を奪う意図を持って、とんでもなく妖艶に。目にするだけで、甘く、熱く、脳髄が蕩けていく。アリエイラはとうとう息すら止めて、それに囚われた。

 そうして夢うつつの中で、彼の真摯な囁き声を聞く。


『あなたが戦いたくないと言うのなら、私はあなたの盾となります。

あなたが戦うというのなら、私はあなたの剣となりましょう。

あなたがエランサに留まるというのなら、私はあなたを全力で守ります。

あなたがエーランディアへ行くのなら、私も共に赴きましょう。

けれど、もし、ウィシュタリアへ来てくれるというなら、他の誰でもない、あなたに私を支えてもらいたいのです。

どこであろうと、あなたのいるところが私の生きる場所だと誓います。だからどうか、この世にただ一人の男として、その唇に触れる許しを、私に与えてください』


 呆然と彼を見ていると、彼が握ったままのアリエイラの手を引き上げて、そっと目を伏せて、指先に口付けた。その扇情的な仕草に眩暈を感じる。心臓が高鳴って鳴り止まない。壊れてしまいそうだった。


『お願いです』


 言葉の一音ごとに触れたままの唇に肌がくすぐられた。それに身を竦める。指先にまで心臓があるようだった。どうにも力の入らない体で、声を掠れさせながら、尋ねる。


『本気か?』

『冗談だとでも?』

『私は軍神を名乗った女だぞ』

『我が姉は、冥界の女王の娘と呼ばれていますよ。あなたの名より不吉でしょう』


 確か優しくて強くて美しいと聞いた人だ。不可解な呼び名にアリエイラが怪訝にすると、彼は肩を竦めて見せた。それも気になったが、今はそれより大きな問題があった。


『まだ、会って数日しかたってないのだぞ』

『出会ってからの時間で決めるなら、誰もが幼馴染と結婚するということになりますね』

『だが』


 アリエイラは反論を探そうとして言葉に詰まった。彼は暫く待ってくれてから、静かに言った。


『断る理由なら、後からいくらでも作ることができます。理由とはそういうものでしょう。それこそ、私の顔が気に入らないと言ってくれてもいいのですよ』


 アリエイラにそんなことは言えるはずもないのに、彼は本気でそう言っているようだった。


『けれど、私があなたに求婚した理由は一つしかない。それを誤魔化しては生きていけないと思ったのです。あなたはどうなんですか?』


 彼はじっとアリエイラを見ていた。ずるい男だと思った。肝心なことは言葉にしないで、それをあなたも知っているはずだという。目で訴えかけてくる。

 私と同じ気持ちのはずだ、と。言葉にできるような思いではないだろう、と。

 そのとおりだった。ただただ胸が引き絞られて痛みに感じるほどのこの思いを、口から吐き出そうとすれば、嗚咽にしかならないだろう激情を。

 いつの間に、私たちは、胸の内に育ててしまったのだろう。

 荒れ狂う感情に、アリエイラは奥歯を噛み締め、ぎゅっと唇を引き結んだ。そうして、睨みつけるようにして彼を見る。そうでもしていないと、泣いてしまいそうだった。


 彼がアリエイラに覆いかぶさるようにして、片手を椅子の背についた。鎖に繋がれた手はもう片方の手で彼の胸元に抱き込まれる。同じ思いを抱えたその瞳から目が逸らせなかった。

 ゆっくりと近付いてきて、瞼に口付けられる。思わず瞑ってしまい、視界が閉ざされている隙に、今度は唇の端にされた。少し離れた気配がして目を開けると、また視線が重なる。返事を催促するような色を見つけて、呟く。


『後悔するぞ』


 彼は瞬き二回分ほど考えると、ほんのり悪戯めいて言った。


『たぶん、あなたの方がたくさん後悔するでしょうから、痛み分けですね』

『私の方が後悔する予定なのか?』


 呆れて聞き返すと、


『ええ。絶対』


 彼は楽しそうに請合った。


『そうか』


 アリエイラは深い安堵が胸に広がるのを感じた。幸せにしますとか、幸せになりましょうとか言われたら、とても受け入れられなかっただろう。自分にそんなことが許されるとは思えなかった。

 でも、後悔するというのなら、それも彼よりアリエイラの方が多いというのなら、それでいいと思えた。


『ゆるしてくれますか?』


 後悔ばかりの人生になることをだろうか。それとも、口付けを?

 ああ、そうか、同じことか、と彼の目を見ながら考える。どちらにしても、一生、この瞳に囚われるのだ。

 アリエイラの目を奪ったのは、彼の美貌だった。けれど心が囚われたのは、ありふれた茶色をした、優しく彼女を絡め取る、この瞳だった。


『ゆるす』


 彼が与えてくれる後悔なら、かまわない。彼がこの世に存在していると感じるだけで、アリエイラの心は温かくなるのだから。それ以上は、望まない。

 掴まれていた手が離され、目の前に翳される。アリエイラはおとなしく目を瞑った。頬が掌で包まれる。

 そして、口付けのときは目を瞑るものなのだと、彼女は初めて知ったのだった。




 アリエイラが、王妃の実弟にして主神セルレネレスを奉じる一族の次期頭領の妻になったことを知るのは、もう少し先の話。

 剣を持たずに植民地の説得に奔走し、片腕を失うのも先の話。

 けれど、そんな彼女が伴侶と出会ってから後悔したのは、生涯でたった一つのことだけだったという。

 それは、まんまと夫の優しい嘘に騙され、結婚を承諾したこと。彼女は、夫が彼女に不幸を与えるなどと、一度でも考えた己の浅慮を恥じて、後悔していたという。

 彼女の墓は、ウィシュタリア東部にあるエーランディアからの初期の入植地、イルチスの古い教会の敷地内にある。

 今も最愛の夫と離れることなく、並んで眠っているという。

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