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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
閑話 ルティンの恋
133/149

 それから数日は、囚われというには穏やかな、アリエイラが今まで過ごしたこともないような日々となっていた。


『ただいま戻りました』


 ルティン・コランティアは午前中いっぱいをアリエイラと過ごし、大抵午後になると『仕事』に出かけていく。そして彼は小屋に『帰って』くる度に、こうやって律儀に挨拶に来るのだった。他にエーランディア語を解する者がいないことからくる、気遣いなのだろう。水が欲しい、それすら今のアリエイラには伝える術がなかったのだから。もしかしたら、ここにいる護衛の全員がエーランディア語を解するのかもしれなかったが、どんなによく観察しても、それを悟らせるような者はいなかった。

 彼女は窓辺から立ち上がり、扉へと近付いた。無視できる立場にはない。呼ばれれば返事をするしかなかった。

 しかし、なんと言えばいいのか思いつかず、いつも黙ったまま開けて、にこにこしている彼を見上げるだけだった。アリエイラはここに囚われているのだ。ただいま戻りましたと言われたからといって、おかえりなさいと言うのは、あまりに馬鹿げているだろう。

 それがわかっていないはずはないのに、彼はそれを繰り返す。この頃はこの笑顔も、時々胡散臭く感じる。アリエイラが困惑しているのを見抜いて、楽しんでいるような気がするのだ。

 それを疑い始めたのは、元部下たちに喝を入れに行った時だった。


 何気ない仕草だった。フードを被れと一言言えばいいものを、彼はわざわざ自ら被せてくれたのだ。良く見えない左から先に手が伸びたせいで反応が遅れたのもある。そういえば、外に出る時はフードを被れと言われていたと思い出した頃には、彼の両腕の中に囲われていた。囲われていたと言うのはおかしいかもしれない。フードの端に手が添えられていただけだったから。だが、彼の腕にまわりが遮られて、近くにある彼の顔しか見えなかった。美しく、優しく、気遣う彼の顔しか。

 間近に見てしまった途端、もう慣れたと思っていたのに、またもや息が止まった。恐らく心臓も一、二拍止まったのだろう。きゅうっと胸が痛み、その後、取り戻すかのように全力疾走していた。

 半ば呆然と彼を見ていた。その美しさに、まさに魂を奪われていた。すると彼は笑った。それはもう、それまで見た中でも最極上と言える笑顔で、とても楽しげに。

 おかげで魂が体から抜け出した。あれはそういう状態だったのだと思う。周囲が遠くなり、自分の体も遠くなり、浮遊感の中で鋭敏になった意識が彼だけに囚われる。それはとてつもなく甘美な感覚で、彼がウィシュタリア語で護衛に何事か話すまで続いた。

 いや、今も。それだけではない。離れていてさえ、彼の美貌が脳裏を過ぎれば、心に灯が点る。温かい何かに満たされる。

 これが本物の神の祝福の威力なのだろう。この恩寵は、きっと死の瞬間までアリエイラを慰め、満たし続けると確信できた。


 だが、神の祝福が宿っているのは人間だということの意味を考えずにはいられない。たぶん、やろうと思えば、それを意識して扱うことができるのだろう。幸いそれほど悪用する人物には見えないが、彼はどうやら自分の顔の威力をよく理解しているらしかった。

 そう気付いてみれば、仕草がどれもこれも女慣れしていた。差し伸べる手も自然で、つい何度も重ねてしまったくらいだ。これだけの顔でこれだけの人物だ。母国で女が放っておいたわけがない。その割に浮ついた感じがないから、もしかしたら、歳からいって妻がいるのかもしれなかった。いずれにしても、女の扱いには長けている。


 アリエイラだとて、暑苦しくむさ苦しい部下たちの扱いや、かしずきながら蔑む貴族たちへの対応は慣れていた。が、彼女をまっとうに女性扱いする人物に、どういう態度をとればよいのかは、初めての経験で見当もつかない。

 実はアリエイラは、未だかつて彼女を女性扱いできる男に、彼以外にお目にかかったことがなかったのだ。恐らく彼はその祝福を有効に使うことにより、アリエイラを女性扱いできるのだろう。

 いずれにしても彼女には、どうにも分の悪い勝負だとしか思えなかった。

 こうやって、笑顔一つで翻弄されるしかないとは。


『よろしければ、庭に出ませんか?』


 今日は少し早く帰って来たようだ。夕飯までには、まだ時間がある。彼はなにくれとなく、こうやって気を遣う。少しでもアリエイラが快適にすごせるようにと。それを感じ取るたびに、気詰まりになる。いっそ、もっと虜囚らしく扱われた方が気楽だった。アリエイラがしてきたことに対して、あまりに分不相応だとしか思えなかった。


『いや、私はけっこうだ。お疲れだろう。ゆっくり過ごされよ』

『いいえ、屋内で細かい仕事ばかりだったので、できたら体を伸ばしたいのです。ご一緒願えませんか?』


 動かずに部屋に篭りきりになると、精神も健康を保てないのは、アリエイラも知っていた。母がそうやって病んでいったのを、何年も見ていたのだ。

 嫌なことを思い出し、気の逸れた彼女の顔を覗き込むように、彼が体を傾げた。美貌が近付く。


『どうしてもいやですか?』


 彼は話術も巧みだ。卑怯なくらい逃げ道を奪っていく。アリエイラは溜息を噛み殺して答えた。


『そんなことはない』

『では、まいりましょう』


 彼は手を差し伸べることはせず、その代わり扉を大きく開け放って、手で外へと誘ってみせる。アリエイラはまたもや断れずに、彼の後についていくことになった。




 庭をしばらく散策し、突端に行ったところで、暫く二人で並んで黙って海を眺めた。遠くに鳥が固まって飛んでいるところがある。アリエイラはそれを見ていた。たぶん、あの下には魚の群れがいるのだ。誰かにそんな話を聞いた記憶があった。


『海を見ているのは楽しいですか?』


 彼にしては珍しく愚問だと思った。彼女は毎日何時間も海を眺めているのだ。楽しくない、と答えたら、彼はどうするつもりなのだろうか。他に選びようもない返事をする。


『ああ。楽しい』

『どこがですか?』


 くるりとこちらに向けられた顔は、思ってもみないほど真剣だった。どうやら本気で疑問ならしい。そこでアリエイラは少し考えてから正確に思ったところを答えた。


『一瞬も同じではないところが』


 彼は心底納得できない、という顔をした。補足するためにアリエイラは海を指差した。


『波の形が全部違う。雲も同じ姿でいることはない。海も空も、一瞬も留まることなく、色を変えていく。見飽きることはない』


 彼は指し示されたものを難しい顔をして見ていたが、そのうち溜息をこぼしながら横に首を振った。


『私にはまったく同じに見えますが』


 そして、アリエイラに再び視線を向けて苦笑する。


『女性には、私たち男にはない繊細さがあるのでしょう』

『さあ、どうなのだろう』


 アリエイラは曖昧に答えた。彼の言葉には、どことなく誰かの影が見えた。彼の思い浮かべている人が誰かわからなかったが、比べられるのが少し不快だった。同時に、それほどに彼の心に住んでいる人を知りたいと思った。アリエイラは、そうしようと意識する前に尋ねていた。


『奥様も海が好きなのか?』

『まさか。そんな人はいませんよ。私の姉です。彼女も放っておけば、何時間でも見ているものですから。まあ、夫に寄り添って、という条件は付くのですが。ちなみに、義兄は海なんか見てませんでしたよ。姉がおとなしく寄り添っているのをいいことに、べたべた触っていましたから』


 前半、姉の話をしている時は蕩けそうな表情を浮かべたと思ったら、後半、姉の夫である義兄の話になった途端、どことなく忌々しそうな口調になった。大好きな姉を取られてしまった弟、というのが透けて見えて、少々面白かった。

 彼からも、そして夫からもそれほど大切にされる女性とは、


『きっと、素敵な人なのだろうな』


 アリエイラの何気ない呟きに、彼は大きく頷いた。


『ええ。姉ほど優しくて強くて美しい人を知りません』

『ウィシュタリア王妃よりもか?』


 ただ一人、アリエイラが知っているウィシュタリアの女性といえば彼女だけだ。いつも遠目で、彼女の顔をはっきり見たことはなかったが、非常に美しいとは伝え聞いていた。そして強いとも。慈悲深いことは、良く知っている。羨み、憎むほど。でも、彼女がいたからこそ、アリエイラは離脱する決心をつけられたのだ。彼女がいれば、戦線は乱れない。不必要な虐殺は避けられるだろう。その点では、自国の将軍や総督よりも信用できた。その王妃を、彼はどう評価しているのか気になった。

 彼は意外なことを聞いたというように目を見開き、それからゆっくりと優しい笑みを浮かべた。


『はい。王妃よりも』


 わずかな失望が胸に広がった。あの戦場で正気を保つのがどれほど困難なことか。それを己のみならず、全軍に徹底させることができる彼女こそ、褒め称えられるべきだ。


『姉はあなたに良く似ていますよ』


 彼は優しい表情のまま、アリエイラに語りかけてきた。


『まさか』


 そんなわけがない。彼にこんな顔をさせる女性が、これほど多くの人間から憎まれ、恐れられ、血に塗れているわけがない。

 アリエイラの心を染めたのは、怒りより悲しみだった。彼を詰らずにはいられなかった。


『あなたの口は不誠実だ』


 彼は真顔になった。


『嘘ではありません。あなたは優しくて強くて美しい』


 アリエイラは、自分の顔が歪むのがわかった。不覚にも鼻の奥がツンとして、泣く前兆を知らせてくる。どうしてそんな風になるのかわからなかった。


『そんなわけがあるか』


 苦しさそのままに、吐き捨てる。


『ならば、どうして聖王を殺したのです。そんなことをしたら、あなたの生きていく場所はなくなる。それはわかっていたでしょう』

『説明したはずだ。どちらにしても我らに未来はなかった。最早聖王を殺すくらいしか、活路を見出せなかった』

『だからと言って、あなた一人が犠牲になることはない。あなたは、植民地のみならず、エーランディアの民の命を一人で背負おうとした。あなたは優しい人だ。その優しさを貫ける強さを持っている。私には眩しいくらいに美しく見える』

『ちがうっ』


 アリエイラは両の拳をきつく握り締めて、俯いて目を瞑って怒鳴った。彼の目を見ていられなかった。

 彼女が望んだのは、破滅だった。世界など、消えてなくなってしまえばよいと思った。聖王も神も神の与えたもうた天の下すべても。醜い争いばかり繰り返すこの世など、部下もバルトローも植民地の人間も本国の民も、アリエイラを煩わすもの、全部。何より、そうするしかない自分を消し去ってしまいたかった。


『あなたは植民地の守りにバルトロー総督を残すために、彼を巻き込むつもりはなかったと言っていた。咎を負うのは一人でいいからと、部下たちも置いていった』


 まだ言い募る彼を睨みつけた。彼は美しい言葉で次々とアリエイラの醜さを暴いていく。胸の内を重苦しいものが膨れて圧迫し、息が苦しかった。

 限界だった。己の欺瞞に吐き気がした。ずっと彼に嫌われたくなかった。神の祝福を与えてくれる彼に縋っていた。分不相応な扱いをしてくれると言いながら、そうなるように仕向けていたのは、アリエイラだった。

 許されることではなかった。もっと早くに伝えておくべきだったのだ。アリエイラが、本当はどんな人間なのかを。彼の優しい心遣いなど、与えられるに足る人間ではないのだと。

 アリエイラは自嘲を唇に刷いて、ルティンに告げた。


『それは本心ではない。何もかも滅びればいいと、私は願ったのだ』


 あの時、彼らのことなど頭になかった。この世界がなくなれば、それでよかった。


『森では古い木が倒れなければ、次の木は育つことができないのですよ。それと同じです。どうしようもなくなったものを壊すのは当然です。そうしなければ、新しい未来を築けはしないのですから』


 新しい未来になど、興味はなかった。破滅の後の虚無を夢見ていたのだ。

 何も無いそこは、どれほど心安らかな場所であろうか。争うべき土地も無い、殺しあう体も無い。崇める神もいない。アリエイラは、神を殺して、そこへ行きたかったのだ。

 自分の望みに、今更ながら、気付いた。

 そして、海と空は、それに似ていたのだとも気付いた。だから、何時間でも飽いたりしなかったのだ。眺めていれば、空っぽの世界に何時間でも溶け込んでいられたから。自分の中を空っぽにしていられたから。


『私は、未来など見たくない』


 きっと、アリエイラが生きていくには、自分を守るために、また人を殺さなければならない。もう人殺しはうんざりだった。それくらいなら、今すぐ死んだ方がましだった。

 彼が悲しげに目元を曇らせた。あんな告白をしたアリエイラに、まだ同情をするなど、彼はどれほどお人好しなのだろう。

 優しい人。美しい人。アリエイラの知らなかった世界のように。

 これ以上、彼との思い出を増やしたくなかった。温かさを与えられたくなかった。戦場以外の何も知らずに、死んでいきたかった。

 世界を憎んで、拒絶して、そうして死にたかった。

 彼の佩く剣に目が吸い寄せられる。あれを奪えば、死ぬことができるだろう。それを振るうこともなく、護衛たちに殺されるはずだ。


『ウルティア将軍』


 深く重く諌める響きで、彼に名を呼ばれた。ふっと我に返る。

 ああ、そうだった。私を殺すのはエランサ人でなければならなかった。私に恨みのある彼らに身を任す。それが最善なはずだ。

 私は、エーランディアの軍神、『ウルティア』なのだから。

 アリエイラはまっすぐにルティンを見上げた。相変わらず悲しげな彼を。それでも、自分を取り戻した彼女に迷いはなかった。


『部屋に戻りたいのだが』


 彼の瞳は苦悩に揺れていた。変わらずにアリエイラを気遣うそれに、不謹慎にも喜びを感じる。

 アリエイラは胸の前で左手で拳をつくり、右の掌で包んだ。それを目元まで引き上げ、数拍置いてから元の位置まで下ろした。神にしか頭を下げぬ、エーランディアの尊敬を表す礼だった。


『将軍?』


 戸惑いを含む呼び声だった。

 世界が砕け散らなくてよかったと思った。心の底から。

 彼のいる、この世界が。

 アリエイラは微笑んだ。


『戻ろう』


 手を差し出す。拒絶するまで、いつも彼がしてくれたように。彼は躊躇いもなく、すぐに手を握ってくれた。強く、強く、離さないとばかりに。

 憂う彼を見ながら、アリエイラは、感じたこともないほど心が穏やかに静まり返るのを感じていた。神の、ではなく、彼の示してくれた無償の優しさが祝福となって、彼女の心を包み込むように照らしていた。

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