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ルティンが建物を出て行くと、アリエイラは与えられた部屋へと戻った。先ほどの庭と建物内ならどこにいてもいいと言われていたが、そんな気分にはなれなかった。
部屋にいても何もすることはない。朝に空気を入れ替えるために開け放していった窓から外を見ると、そこからも海がよく見えた。アリエイラは小さな書き物机についていた椅子を持ってきて、窓際に置いた。そしてそこに座って、遠く水平線から波が寄せてくる様を、無心に眺め続けた。
青く澄み切った空と海は次第に色を変えていく。どんなに目を凝らしても、変化の瞬間を捉えることはできないのに、いつのまにかすべての色が深く濃くなっていった。
やがて日は赤く輝き、熟れて燃えながら、海の果てよりもっと遠いどこかに落ちて沈んでいった。世界を一面に染めるダイナミックな光景に、ただただ息すら詰めて見入る。空っぽになった頭と体の中には、世界を満たしていると同じものが充満しているだけだった。
しかし、唐突に響いた何の変哲もないノックの音が、一瞬にして夢想を破った。頭の中からも体の中からも世界の欠片は消え去り、そこには元のようにアリエイラ自身しか残っていなかった。
扉の向こうから、食事の用意ができたと告げられた。ひどく気だるく億劫だったが、アリエイラは返事をした。椅子から立ち上がり、窓を閉める。もうしばらく生きていなければならない。そのためには食事が必要だった。
アリエイラは死ぬ前に、己がしたことの始末をつけなければならなかった。どんな殺され方をしようが、苦しみを与えられようが、甘んじて受けるつもりだった。それでいくらかでもアリエイラが与えた災厄が人々から減じられるのなら、むしろありがたいくらいだった。
きっと、アリエイラには死して尚、安息は与えられないだろう。なにしろあちらには、彼女が殺した人間が大勢行っているのだから。
たぶん、今が束の間の休息なのだ。
アリエイラは部屋を横切り、扉を開けた。そこには美しい彼が立っていた。彼が手を差し出す。アリエイラはその上に手をのせた。彼はその手をふわりと握って歩き出す。
アリエイラは導かれるままに、彼についていった。
『退屈でしたでしょう』
『いいや。いい部屋を与えてくれた。ここは本当に眺めがいい。見飽きることがない』
『そうでしたか。それは何よりです』
向かいに座り微笑む彼を見る。最初の頃のように、心臓が早鐘を打って息が止まることはなくなった。かわりに、彼の微笑と同じに優しく温かいものが胸の内に広がり、凍えた指先が急に温められたときのように、鈍い痛みがじわりと湧き出す。
それにしても神の祝福というのは、無頓着なものだと思わずにはいられない。相手がどんな人物であっても平等に効果を発揮するのだから。聖王と同じかそれ以上の罪を犯してきたアリエイラにも大盤振る舞いするとは、真に神らしい采配だと思われた。
神はよほど人に興味がないのだろう。あるいは、価値観が人とはかけ離れているに違いない。アリエイラはそう推測していた。今までの長いとは言えないが短いとも言えない人生の中で、神が正義を行ったことはなかった。悪を正しもしなかった。そうでないなら、どうして何十年にもわたって、神の名の下に何万、否、何十万の人間を、虐げ、虐げさせ、殺し、殺させてきたというのか。
そんな神に従い、望む通りにしたとして、いったいどんな祝福が得られるというのだろう。与えられた者を不幸にしたり、誰彼かまわずに発揮される美貌から類推するに、人が望むようなものは得られはしないだろう。むしろ、下手をすれば、扱いに困って大きな災厄にしかならないのではないか。
ふと、疑問がわく。
『エーランディアの血筋は冥界の門に辿り着けたのだろうか?』
彼は微笑を消し、アリエイラを見たまま、考えあぐねる顔をした。暫くして、答えをくれる。
『いいえ。ですが、もう、冥界にはあなた方の探している神はいらっしゃいません』
妙にきっぱりと言うそれに、彼女は反発心を覚えた。
『なぜそれほどはっきりと言えるのだ。神に会ったとでもいうのか』
それに彼は困ったように苦笑して横に首を振った。
『いいえ。神に会ったことはありません。ですが、私の母の一族は代々冥界の門を守ってきました』
アリエイラは目を丸くした。まさか、本当に大陸に冥界の門があるとは思わなかった。あの預言は伝説でしかないと疑っていたのだ。
『では、もうずっと昔に、神は助け出されたと?』
『いいえ。神は失われたのです』
『失われた?』
アリエイラの声は自分でも思ってもみないほど弱々しくかすれた。
聖王の掲げた聖戦の理由を信じてなどいなかった。聖王が神や神の遣いではないように、アリエイラも戦神などではなかったから。それでも、聖王を神だと無意識に信じていたように、神が今も冥界にいると、心のどこかでは信じていたのかもしれなかった。
『セルレネレス、ああ、失礼、セレンティーアでしたね、そちらでは。その神託が降った後、未曾有の災害が起こったと伝えられているはずです。そのために、神託に従うことができなかったと』
一見関係のないことを彼は口にしたが、はぐらかす色は無く、アリエイラは素直に頷いた。
『そのとおりだが』
『それは世界が崩壊を起こしたために引き起こされたものです。崩れていく世界を繋ぎとめるために、神は神力をすべて解放し、失われました』
『では、セレンティーアは、もういないというのか?』
アリエイラの質問に、彼は驚いた様子で口を噤んだ。それから、何かに納得したように苦笑をこぼした。
『いいえ、セレンティーアではなく、冥界に自ら閉じこもっていた神が失われたのです』
『なぜその神が? それに、閉じこもったとはどういうことだ? なぜあなたはそれほど詳しく確信を持って言い切ることができる。それらはただの伝説の類なのではないか』
次々疑問をぶつけると、彼は視線を手元に落とし、持っていたナイフとフォークを皿の隅に置いた。
『私の祖母は冥界の女神の巫女でした。これは女神の神託によって明かされた話です。信じる信じないは、あなたの自由ですが』
彼は最後に目を上げ、曖昧に笑って肩を竦めた。夢物語だと一蹴されてもしかたがないと思っているのが伝わってきた。アリエイラは軽く何度か頷いた。
『それは全部聞いてから判断する。それでは駄目か? 信じていなければ話してはもらえないか?』
正直に告げたアリエイラに、彼は面白そうに微笑んだ。
『かまいませんよ。遠い昔の話です。過ぎ去ったことです。本当でも嘘でも今に係わりのない話です。そう承知おきくだされば』
その昔話に振り回され、エーランディアは侵略戦争をしてきた。だが、彼は皮肉を言っているのではなく、恐らく忠告なのだろう。
『わかった』
彼はテーブルの上に両肘をのせ、指を組んだ。身を乗り出し、そこへ顎を触れさせる。アリエイラも握ったままだったスプーンを皿の上に置いた。
『何千年も昔、失われた神はセレンティーアと諍い、冥界に引きこもりました。セレンティーアはかの神を冥界から誘い出すために、かの神が司り、守護していた地上を、即ちこの世界を砕こうとしたのです』
『セレンティーアに逆らったのならば、その神は罪を犯したのか』
『いいえ。守護する地上に安寧をもたらそうとしただけです』
『それがなぜ諍いの本となるのだ』
彼は軽く溜息をついた。
『失われた神は人間の男に加護を与え、地上に平和をもたらそうとしました。そして、その男と恋に落ちたのです。セレンティーアはそれが気に入らなかったのです。だからその男を殺しました。セレンティーアこそがかの神を妻にしたいと思っていたからです』
アリエイラは眉根を寄せて口を開いた。が、言葉が出てこなかった。それでは、ただの嫉妬ではないか。それで世界を砕こうとし、その時降した神託が今も混乱を起こしていると?
そんなことの、ために?
嘘だと、或いは、御伽噺だとはねのけてしまいたかった。あまりに馬鹿馬鹿しすぎた。だが、聖王を殺したアリエイラにこんな話を聞かせて、彼にどんな得があるというのだ。
エーランディアの、ひいてはアリエイラのしてきたすべてが無駄だったというそれは、確かに救いようの無い思いを助長する。でも、彼がそうしてアリエイラの心を傷つけようと望んだと言うには、彼の瞳は気遣いに溢れていた。
『その証拠はないのか』
アリエイラは尋ねるともなしに呟いた。それがあれば、もっと早くに平和裏に戦を終わらせられたはずだ。でも声にした時点で、鋭敏な彼女には答えがわかっていた。人の目にはっきりと示せるほどのものがあれば、ウィシュタリア王妃自らが出てこなければならないほどの戦にはならなかったはずなのだ。
遠くに見えた王妃の姿が脳裏に浮かぶ。小高い丘の上で、聞いたことも無い轟音を発し鉄球を吐き出す兵器と、黒い甲冑の騎士たちに守られ、一際大きい真紅の旗の下にいた人物。瓦礫と死体の山を築き、内陸の植民地を次々と陥落させた、死の神の遣いと恐れられる女。
しかし、彼女は冷酷ではあったが残虐ではなかった。エーランディアでもエランサでも、逃げ惑う敵兵は最後の一兵まで殲滅する。だが、ウィシュタリア軍は戦が終われば敵味方の区別無く怪我人を介抱し、死者は丁重に埋葬するという。捕虜も無体に扱われることはないとも。実際に、最早戦のできない体になった者が何度も植民地に送り届けられた。もっとも、その事実を隠すために、彼らはすぐに同国人によって殺されたのだが。
エーランディアでは、エランサ人とウィシュタリア人は、大人だけでなく生まれたばかりの赤ん坊まで罪人だと認識されている。神の神託に従わないどころかそれを阻む大罪人というわけだ。その罪人が慈悲を持ち合わせているなど、民衆に知られるわけにはいかなかった。
部下に殺させる命令を下しながら、いっそウィシュタリアが殺してくれていればと何度思ったことか。 強者のみが示すことのできる寛容を、慈悲を、それを見せ付けるあの王妃を、アリエイラは妬み憎んでいた。
それでも、あの女が示す温情とでもいうべきものを見つける度に、奇妙な哀れみも覚えていた。そんなまともな神経であの戦場に立ち、指揮するとはどんな心境であろうと。
あそこで人でいるのは難しい。だからアリエイラは情を捨て、戦神を装った。兵たちは獣になった。あの女がいつまで人でいられるのか。あれほどの死屍の山を築いた張本人が。
アリエイラはそこで、あの女がこの事実を知っていたのだと、今更ながら気付いた。この戦が救いようも無くくだらないものだということを。
だからこそあの女は戦うのだろうか。どれほどその手を血に染めても。この無意味な戦を止めるために。そう、神のごとき慈悲でもって。
正義を行う神となるのならば、きっと気分のいいものだろう。
アリエイラの中に黒い感情が湧き立った。
この戦はアリエイラたちの始めたことだ。あの女はむしろ被害者だ。それはわかっていた。わかっていても、それでも、アリエイラはウィシュタリア王妃を憎まずにはいられなかった。
アリエイラの望むすべてを行う、かの王妃を。




