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アリエイラは、他の施設群より少し離れた眺めのいい高台にある、二階建ての小さな家に案内された。一階の玄関フロアと家の周りに警備にあたる兵がいたが、二度と鎖がかけられることは無く、二階にある部屋の中に入れば完全に一人になることができた。これがウィシュタリアの普通なのかもしれないが、ベッドも部屋も、エーランディアの常識からは兵舎としては上等な部類に入るものだった。
湯浴みをし、渡されたウィシュタリアの服を身につけた。軍服はどこも似たようなもので、シャツに上着に下はズボンだ。エーランディアでは組紐で留めるが、エランサやウィシュタリアではボタンと呼ばれるものを服に空けた穴に通す。コツがいったが、全部留め終わる頃には慣れてしまった。少し長かった手足の裾を折り曲げてから、浴室の外へ出た。
壁に寄りかかり待っていたらしいルティン・コランティアが体を起こし、上から下までざっと見て、明日にはもう少し合うものをご用意します、と言った。別に不自由はしていない、と伝えると、そうですか、とだけ答えて、にっこりと笑った。
アリエイラは固まった。日は暮れかかって辺りは薄暗い。なのにその笑顔は輝くようで、目にした瞬間、息が止まってしまったのだ。
ルティンは軽く首を傾げると、更に笑みを深めた。美しいを通り越して、神々しいとすらいえる微笑だった。神の恩寵とは凄まじいもので、ウィシュタリア軍に囲まれた時よりも、アリエイラの心臓は早鐘を打った。食事の用意ができています、どうぞこちらへ、と促されて、やっと視線が外れ、ほっと一息つく。アリエイラはぎこちなく足を踏み出し、彼の後についていった。
食堂に案内され、彼と向かい合わせに席につかされた。大皿に盛られた料理がテーブルの上に置かれており、取り皿やカップやカトラリーが無造作に詰め込まれた籠を渡された。
『どうぞ、お好きなのをお取りください』
毒が入っていないことを示すためなのだろう。勧められるままに料理を取り分け、手元以外は目に入らないようにして食事に専念することにした。
『お口に合いますか?』
ところが途中で話しかけられて、口の中のものを思わずごくりと丸呑みした。うっかりと目を上げてしまう。
軍隊育ちのアリエイラには、口に合うも合わないもない。食えるか食えないか、それだけだ。ウィシュタリアの味付けは物珍しくはあったが、不味くはなかった。むしろ美味いと言うべきだろう。
『ああ。美味しい』
『よかった。苦手なものはありますか?』
『特には』
『お好きなものは?』
『気遣いはいらない。じゅうぶん良くしてもらっている』
一通り味見したところで尋ねてきたということは、アリエイラが食べるのを観察していたのだろう。少しやりきれない思いになった。アリエイラの食事は女性として上品とは言いがたい。だいたい聖王の他の姫はこれほど食べたりしない。御付の者に小さく切り分けてもらい、口に運んでもらう。軍ではそんなことはしていられないから、僅かな時間で大口を開けてかきこむことになる。それにたくさん食べないと体ももたない。戦場で動けなくなれば、生死に関わるのだ、作法など鼻にも引っ掛けられなかった。しかし、こんな場所にやってくれば、ただの行儀の悪い女でしかなくなる。
それでも今日のアリエイラは通常よりかなり少なめに取り分けていた。たいして動いてもいないし、体がまだ本調子でない自覚もあって、ちゃんと食べきれる量を取ったつもりだったのだ。なのに彼の顔を前にしていると、腹の中が熱くなってきて、胸が一杯になり、食欲が失せてくる。残すのだけは、あまりにみっともない。残りは味もわからぬままに、もそもそと胃袋に詰め込んだ。
次からは、毒が盛られてもいいから一人で食べたいと、アリエイラは切に願った。
翌朝、起こしに来たルティンに新しい服を渡され、それに着替えて、また彼と食事を共にした。朝は太陽の位置が低い。そのおかげで東向きの食堂には光が満ち溢れていた。もちろん彼の顔も昨夜よりはっきりと見え、アリエイラは更に注意を払って少なめに取り分けた。
今更体力をつける必要もない。アリエイラの命はとうに終わっていたはずで、今は最後の責任を果たすために時期を待っているにすぎない。それまで見苦しくない程度に命を長らえさせれば、それでいいのだから。
『もういいのですか』
『ああ。じゅうぶんだ。馳走になった』
彼もフォークを置き、口を拭った。それだけの仕草なのに、目を惹きつける。昨日も感じたが、彼の動きは非常に洗練されていて美しい。彼をより美しく見せるそれは、一朝一夕に身に着くものではないはずだ。
一見優男風だが、常に隙が無く、腰の剣も飾りではないようだ。つまり上流階級の育ちなのだろう。彼ほどの外見でこれだけの教養を身につけていると、祖国エーランディアならば上級奴隷である可能性もあるが、ウィシュタリアには奴隷制度はないと聞いている。
それに彼の雰囲気は柔らかい。こんな胡散臭い相手にでも、随分と丁寧だ。ウィシュタリアが捕虜に寛大だというのを差し引いても、恐らくよい家柄の生まれなのだと思われた。きっと、人間として真っ当な人物に真っ当に育てられたのだろう。
『では、腹ごなしに庭に出てみませんか。この家は庭からの眺めを楽しむために建てられたのです。絶景ですよ。どうですか?』
建物というより小屋といっていい簡素な造りだが、こちらでは貴族の別荘はこんなものなのだろうか。そんな目的のためだけに建てられるとすれば、庶民の家ではありえないだろう。よくわからなくて、アリエイラは内心首を傾げた。エーランディアの貴族階級の邸宅は多くの奴隷を使うために、とても広い。主一家だけでなく、奴隷たちの暮らすスペースも必要だからだ。それは別荘であっても変わらなかった。
アリエイラは途方に暮れた気分になった。自分の常識の通用しない場所にいるのだと、急に思い知らされたのだった。
戦場から時々本国に呼び戻され、聖王宮に伺候する時もそんな感じだったが、これはその比ではなかった。まるで別世界だ。アリエイラは、戦場の向こうに、こんな世界があるとは思っていなかった。無意識に、戦場しかないと思っていた。
ああ、違う。彼女は思い当たって自嘲に似た思いにとらわれた。自分のこれまでの認識は正しかった。なぜなら『ウルティア』が赴くことによって、どんな土地も必ずそこは戦場となったのだから。アリエイラには戦場しか見出だせるわけがなかったのだ。
なんてことだろう。アリエイラが憎み恨み蔑んで滅ぼしたいと願っていた世界は、世界のほんの一部でしかなかったのだ。それもアリエイラがウルティアとして、歪め貶めた姿でしかなかった。
胸が苦しくなった。世界は本当は穏やかで美しいのかもしれなかった。目の前の、彼のように。
彼が席を立ってやってきた。昨日と同じように、傍に片膝をついて顔を下から覗き込んでくる。その表情は気遣いに溢れていた。
『どこか具合の悪いところでも?』
『いや』
アリエイラもその瞳を覗きこみながら答えた。彼の瞳の色は茶色だった。特筆するほど美しい色ではなかった。けれどそれは優しい心に染み入るような色だった。だからか、胸が騒ぐこともなく、すんなりと言葉が出てきた。
『私も、外を見たいと思ったところだ』
彼は、アリエイラの表情を見定めるように注視すると、安心したように破顔した。
それにつられて無表情な彼女が、ほんの少し口元を弛めたことを、ルティン以外は誰も、本人さえ気付かなかったのだった。
庭は緑に溢れた場所だった。両側は背の高い木々に囲まれ、足元にも草花が植えられていた。恐らく左手が港になるのだろうが、それは木々に邪魔されて見えなかった。小さな柵の向こうは降りるのに少々覚悟のいるような崖で、おかげで見晴らしが非常に良かった。そこには、彼が言うとおりに、美しい、どこまでも青い世界が広がっていた。
晴れやかに突き抜けた空の青と、深くなっていく海の青は、同じ青なのに一線を引いて絶対に交じり合わない。そこには見事に何も無かった。なのに、何もかもが詰まっているように感じられる光景だった。
『あなたにとっては、海は親しいものなのでしょうね』
彼は海を見たまま言った。
『いや。私は幼いうちに内陸の植民地に連れてこられて、海には詳しくない』
『そうなのですか?』
彼は驚いたように振り向いた。
『エーランディア人は海の民だと思っていました』
『全員がそうではない』
『では、あの海流を選んだのはあなたではないのですか』
『ああ。目が覚めたら船の中に転がされていたのだ』
彼は真剣な表情になって、アリエイラに請うてきた。
『どういった経緯だったのか、教えていただけますか?』
アリエイラが頷くと、彼は庭の隅にあるベンチへと彼女を導いた。二人は海の良く見えるそこへ、隣り合って腰掛けた。
エーランディア聖国は末期的な状態である、とアリエイラは思う。バルトローも同じ見解だ。だが他の者たちは違うらしい。他の植民地の総督も将軍たちも、本国の者たちも、エランサを足がかりにウィシュタリアを征服せよと叫ぶ。
我らを創造したもうたセレンティーア神の御心に添うために。
大陸にあるという冥界の門を探し出し、そこに閉じ込められた神をお救い申し上げるために。
我ら人はそのために生きねばならぬ。神なくして人の繁栄はありえぬ。お救い申し上げたその暁には、神は必ずや我らに慈悲と祝福を与えてくださるだろう。その時、我らは今度こそ、神と共に楽園に生きることができるだろう。
それが聖国の覇道の理由だった。五十年も昔の話だ。手始めに一番近い島国を攻め落とし、そこの王族を皆殺しにしてから聖王が公布したのがはじめだ。
それ以来、逆らう者には容赦の無い残虐非道ぶりと、聖戦を掲げる聖王の前に、近隣諸国は次々と併呑されていった。
そして三十年前、群島諸国を統一したエーランディアはエランサ大陸に侵攻した。その頃の聖国軍は破竹の勢いだったという。戦を仕掛ければ勝ち、次々と沿岸都市を征服していったと。その土地を奪い、資源を手に入れ、人民を奴隷として、それらの新しい富を本に、更に内陸部へと勢力を伸ばした。
アリエイラが戦場に出された十歳の頃も、同じだったのだろう。本陣に据えられ周りを守られ、指示すらすることなく戦だという光景を眺めていただけだった。揃いの鎧を着た、頼もしく見えた聖国の兵たちが、家々を焼き、男を殺し、女を犯す、獣に変わり果てる姿を。
あんなものは、戦などではない。あれはただの略奪だ。それを誰もが聖戦だという。神のためだという。神が命じたのだと。
嘘だと思った。誰かが嘘をついていると思った。みんな騙されていると。だから育ててくれた師に相談した。師は、そう思うのなら、あなたが自分で犯人を見つけるのだ、と言った。見つけたら、あなたの権限で裁けばよい、と。あなたはウルティア将軍なのだから。
けれど、裁けるわけもなかったのだ。師はそれをわかっていて、アリエイラ自身に真実を悟らせようとしたのだろう。嘘をついていたのは、全員だった。いや、嘘をつくというのは妥当ではないかもしれない。彼らは、自らに信じ込ませていたのだ。そうでなければ、あんな狂気の地で生き残れるはずもなかったのだ。
それでも、アリエイラは獣になりたくなかった。あんな醜いものに、なりたくなかった。戦神であるアリエイラは彼らから逃げられなかった。戦からも。自分がいつか彼らと同じになってしまうのが、恐ろしくてたまらなかった。
だから、アリエイラは兵を裁いた。己の意に従わぬ者を次々殺した。だが、そうして創り上げた部隊はやがて精鋭と呼ばれるようになり、移民希望の者たちの憧れの一つとなった。略奪はさせてもらえなくても戦果は公平に分配される、そしてどこよりも生還率の高い部隊として。もちろん、己しだいで略奪の富が増えるような他の部隊も、腕に覚えのある者には人気があったのだが。
アリエイラは何年も略奪の先頭に立ち、エランサ大陸の民を虐げた。アリエイラ自身は決して奴隷を自分の傍に置かなかった。邸宅も築かなかった。富も溜め込まなかった。人々はそんな彼女を更に神として崇めた。聖戦のためだけに生きているように見えたからだろう。アリエイラはそんな清廉な人物ではなかった。ただ、獣になることを恐れただけだった。
誰よりもアリエイラ自身が、己が神でないことを知っていた。だからこそ、せめて獣にはなりたくなかったのだ。
やがて戦は次第に停滞しはじめた。奪い放題だった地は、エランサ軍によって阻まれるようになった。決定的だったのは七年前、現王ラショウ・エンレイが王位に就いてからだろう。勝ちよりも負け戦の方が多くなるようになった。
大敗を喫した後、己の部下に追われて聖国まで逃げ帰り、泣きついた息子に聖王は激怒して、彼の首を即座に跳ね飛ばした。冥界で神に裁かれるがよい、と言い放って。
神の御為に生きよ。神の御為に死んだ者は、神託の成就とともに、必ず神と共に甦り、神の国で未来永劫暮らせるだろう。
聖王の言葉は、神の言葉として国民に伝わった。
しかし、新しい富を手に入れることのできない戦は消耗だけをもたらした。人々の不満も。聖国内では内乱が頻発し、新兵の徴発も難しくなってきている。このままでは植民地は本国から切り離され、順に取り崩されていくだろう。
植民地の人間は群島に帰ることを許されていない。それは、神に逆らうことに等しいからだ。逃げ道のない彼らは、遠からず大陸の端で滅ぼされるしかない。そして、植民地という聖戦の足がかりを失えば、名目を失った聖国自体も瓦解することになるだろう。
今なら、まだ間に合う。植民地を放棄し、奴隷を解放し、賠償金を払ったとしても、こちらからの和解の条件として、冥界の門を探す許可を求めれば。ウィシュタリアは、わざわざ聖人『エーランディア』を押し立ててきている。それを無碍にされる恐れは少ないはずだった。
だが聖王は、愚かな、と笑った。やはりおまえは、右目の欠けた、なりそこないだ、と。
アリエイラはそれを聞いて、聖王の剣を奪い、彼を殺した。居合わせた者も殺した。進言が聞き入れられなければ、そうするつもりではあった。でも、その瞬間にアリエイラの心を占めたのは憎しみだった。あるいは、絶望と呼ぶべきものだったのかもしれない。
その時、確かに、アリエイラはあれほど恐れた獣になったのだった。




