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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
閑話 ルティンの恋

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 その男の顔を見たとき、アリエイラは不覚にも目が釘付けになってしまった。美しい卵形の輪郭の中に、なんとも絶妙な配置で、言い知れぬほど精巧な造形の目鼻口がある。その顔から目を逸らすことができず、視覚からもたらされる刺激に、脳髄が蕩けていく感覚がした。

 その男との間を他の人間が横切って強制的に目の前から遮られなければ、アリエイラは縛められているのを忘れて近付こうとしていたかもしれない。いかにも高官めいた人物に対し、この状況でその行動は命取りだったが、そんな基本的なことさえ忘れてしまうほど、その男は強烈、且つ鮮烈な容貌をしていた。

 エーランディア聖国では美しいことは神の祝福であり、眼福でもって人々に神の愛を広く与える奇跡の一つと言われている。そのために、本国や属国や植民地から多くの美女が献上され集められた聖王の後宮にも、これほどの美貌の持ち主はいなかった。


 もっともアリエイラから言わせれば、たとえ神が本当にいたとしても、本人にとっては災厄でしかないそれが祝福であるとは思えなかった。

 母はその美貌のために征服された属国から無理矢理連れて来られ、気まぐれで聖王に手を付けられた末に、アリエイラを生んだ。それでも、アリエイラが軍神ウルティアの特徴を持っていなければ、アリエイラ共々奴隷として一生を過ごしただろう。いっそその方が、まだ幸せだったかもしれない。母は奴隷から妃の末席に名を連ね、すべての自由を奪われて、最後には心を病んで死んだ。

 母は間違いなく美しかった。子供心にも、その美しさに見惚れたものだった。だが、母を不幸にしたはずのそれが、目の前の男には比べるべくも無い取るに足らないものだったのだと、愕然として悟らずにはおれなかった。


 その人を見るだけで、心が躍り、全身の血が滾る。敵船の中で両手両足を鎖で繋がれている状態で、しかも明日をも知れない身の上であってさえ、その美しさは、アリエイラに快楽をもたらす。そんな人間が現実に存在する奇跡。

 これこそが本物の、神の祝福。

 生まれて初めて、神の存在を感じた。どんなに血を吐くような思いで祈っても、願っても、今までその存在を感じ取ることはできなかったというのに。


 アリエイラは笑いたくなった。胸が苦しく、痛かった。そんな感情は、とうに擦り切れてなくなってしまったと思っていたのに。こんな気持ちを抱く自分も、こんな人間が存在することも、それを内包する世界も、すべてが不条理で馬鹿馬鹿しいことこの上なかった。

 アリエイラは、神を呪っていた。いや、神だけではない。世界を、国を、運命を、自分を。そう、神が与えたもうた天の下全てを。自分を含めて、滅茶苦茶に破壊してしまいたかったのだ。




 その男はアリエイラが捕われている船の指揮官室に入ってくると、扉の傍で立ったまま、長い間無表情にアリエイラと視線を合わせた。アリエイラの目は右が茶色で左が血の色をしている。ほとんど見えないそこには、ウルティアが宿っていると言われていた。


 軍神ウルティア。白い髪に紅の瞳をした戦神。アリエイラの髪もまた白い。右目の印が欠けているとはいえ、ウルティアの姿を映した赤子の誕生は、覇王たる聖王の御世では吉兆として受け取られ、奴隷の子供だったにも関わらず、姫として取り立てられた。

 その戦神の宿ると言われるアリエイラの瞳を、真っ直ぐに見返す者は稀だ。聖王と師であった男と一人の兄、それに直近の部下くらいであった。それ以外の者は、その瞳に映されるだけで命の危険があると思っている。視線を向ければ必ず俯き、なるべく体を縮ませて避けようとする姿は滑稽ですらあった。アリエイラは誰からもかしずかれながら、その実、自分が恐れられ、嫌悪されていると知っていた。


 男はふいっと視線を逸らし、部屋の中を見回した。そして、脇に寄せてあった椅子を一脚持ってきて、アリエイラの三メートルほど前に置いて腰掛けた。ゆったりとかまえ、ほんの少し口元をほころばせた。するとそれだけのことで、ふわっと柔らかい光があたりに満ちたように感じた。


『はじめまして。私はルティン・コランティア。あなたはアリエイラ・ユースティ二ア姫でいらっしゃいますね? それともウルティア将軍とお呼びした方がよろしいですか?』


 なめらかなエーランディア語だった。この船に拿捕された時も、船員から片言ながらエーランディア語で話し掛けられた。大陸で戦をしている時にも感じていたものを、はっきりと示され、彼を見てゆるんでいた心に、自嘲する毒々しい笑いがこみ上げてきた。

 彼らウィシュタリアは、こちらのことを良く調べ上げて知っているのだ。

 敵うはずが無い。魚を獲るにも獣を狩るにも、対象の特性に合わせた方法がある。それを知りもしないで、いかに勝てというのか。それだけではない。はるかに進んだ武器、高い士気と一糸乱れぬ規律、一騎当千の技量を持った兵たちに、属国や植民地から戦功を挙げれば土地と市民権を与えると甘い言葉で掻き集めてきた烏合の衆では、相手になるはずもなかったのだ。


 戦場の有様が思い浮かんだ。足の踏み場もなく散らばる死屍、鳴り響く号砲。それが終わると、初めに黒尽くめの騎馬隊が、続いて歩兵集団が、真紅の旗を翻して迫り来た。

 最早、戦ですらなかった。狩場に囲い込んだ獲物を仕留めるかのようだった。指揮系統はずたずたにされ、隊列を組むどころか、撤退もままならなかった。兵たちは、ただ半狂乱になって逃げ惑い、同士討ちさえ起こる始末だった。


 そんな戦を、本国が命じるままに何度となく繰り返した。敗戦の事実を民衆に隠し、本国が送りつけてくる新しい入植者を駆り立て、アリエイラが、ウルティアの名で、彼らを、何万人もを、死へと誘ってきたのだ。

 アリエイラなどという『人間』はいない。彼女は常に『軍神』だった。それ以外の何者でもなかった。


『ウルティア、と』

『では、ウルティア将軍、幾つかお伺いしたいのですが、お答えいただけますか?』

『私に答えられるものならば』


 ウィシュタリア軍は捕虜を厚く遇する。共に生き残った者の心配はないだろう。体さえ良くなれば、あれらは自分の身ぐらいは自分でどうにかできる。ならば、アリエイラに為さねばならぬことなどありはしなかった。そう。生きることすら。そう思い至って、唐突に愉快な気分になった。


『なぜ、あのような場所で漂流していたのですか?』

『聖王を殺して、追われたからだ』


 彼は穏やかに頷いた。


『酒樽の中の首は聖王のものなのですね』

『そうだ』


 それらは、この船に捕われた時に伝えた内容だった。

 アリエイラは聖王を殺した。生き残るつもりは無かったのだが、どういうわけか宮にいるはずがない兄が現れて助太刀に入り、挙句の果てに気絶させられ、気付いた時には攻撃を受けている船の中だった。ご丁寧に両手両足を縛られ、猿轡まで咬まされていた。手首の関節をはずして縄抜けをし、ようやく甲板に這い登った時には、直近の部下たちは櫂を握ったままほとんど死んでいて、数人が残っているきりだった。

 アリエイラは船についても海についても詳しくなかったが、恐ろしく速い海流に乗って流されていることだけはわかった。生き残った者の手当てをし、死んだ者たちをそのマントに包んで海に流し、漕ぎ手のいない船に乗って、ただただ流されてきた。このまま乾き死ぬか、飢え死ぬか、嵐に巻き込まれて溺れ死ぬかと思っていたが、哨戒中のウィシュタリア軍に拾われた。


『軍が反乱を起こしたのですね。あなたが先導したのですか?』

『そんなに大層なものではない。私個人が聖王を殺しただけだ』

『協力者はいなかったと?』


 アリエイラは少し考えてから答えた。


『少なくとも、協力を頼んだ者はいなかった。だが、私は逃された』


 小さな溜息が自然と零れた。

 あの日、アリエイラは戦況を報告しに、わざわざ本国まで出向いたのだった。命じられた戦地を離れ、しかも停戦を奏上すれば、いかに戦神と崇められている彼女でも、反逆者として聖王に処刑されるかもしれなかった。

 だから、唯一親しくしている兄バルトローに言付けたのだ。私に何かあった時は、私の部隊をよろしく頼む、と。

 反逆者の部下の末路など知れている。バルトローなら匿って、無駄に死なせないだろうと踏んで頼んだのに。置いてきたはずの部隊が丸々本国まで追ってきたばかりか、バルトローまで来ていた。

 おかげで、アリエイラ一人が死ねばすむ話だったのが、そのたった一人を逃すために、一部隊が全滅してしまった。上官の命令を無視した挙句の愚行だった。アリエイラを生かす必要などまったくなかったものを。


 なぜなら、あの時、アリエイラは世界を滅ぼすつもりだったのだから。

 あの時。聖王に手をかけた時。馬鹿馬鹿しいことに、世界が終わると本気で信じていた。天は落ち、地は割れ、海は干上がり、世界はバラバラに砕け散ると。だから、聖王の体から流れ出た血は死ぬに足りており、のみならず、確かに急所を抉ったはずだったのに、世界が終わらないことに、心底戸惑った。やはり聖王は特別で、殺し足りないのかと考えたほどだ。そして、完全に殺すために、首を切り落としてみたのだった。

 愚かしいことだった。

 アリエイラは、聖王がただの人間であると知っているつもりだった。アリエイラが軍神などではないように、彼もまた神の代弁者などではないと。ところが、その実、あの醜く心も体も肥大した老人を、心の奥底では神と同一視していたのだ。人間を殺して、世界が滅びるわけがない。なのに、無意識にアリエイラはそう信じていた。聖国の多くの国民がそうであるように、彼女もまた、例外ではなかったのだ。

 彼女は神を殺して、世界を壊し、自分も含めてすべてを終わらせるつもりだった。成功するわけもない妄想だったが、そんなことを望んだ人間を、命を捨ててまで生かす必要などなかったのだ。


 部下たちは状況を読めないどうしようもない愚か者たちばかりだった。しかも腹立たしいことに、死者が相手では、怒りのままに殴り飛ばすこともできない。

 馬鹿者どもが。強く、強く、心の中で罵る。

 胸の内が大きくうねり、歯を食いしばった。船底で目覚めた時から、胸の奥のどこかが引き攣ったように感じてしかたがなかった。アリエイラは、こみあげる何かを堪えて、息を止めた。

 男が立つのが目の端に映り、はっとして物思いから醒めた。彼は近付いてきて、アリエイラのすぐ傍で膝をつき、下から彼女を見上げた。


『大丈夫ですか。無理をさせてしまったようですね』


 憔悴しきっているところを拾われたとはいえ、もう3日も安静にしていた。体力はだいぶ戻ったと思っていたのだが、どうやら情けないことに気力が続かず、意識が散漫になりがちなようだ。アリエイラは黙って彼を見返した。至近距離でその美貌にあてられて、咄嗟に声が出なかったのだ。


『あと一つだけ、お答えいただけますか』


 真摯な瞳だった。アリエイラにおもねろうという素振りも、脅そうとする素振りもなかった。ただ人として、向かい合った者に、真剣に向き合おうとしているのがわかった。


『あなたを逃したのは誰ですか』


 それを答えれば、エーランディアに深刻な不利をもたらすのは、将軍たるアリエイラにはわかっていた。バルトローはアルドシシリより少し北部にある最大の植民地イルチスの総督だ。彼がエーランディアを本当に裏切ったのかはわからない。アリエイラにすべてを押し付け、聖王亡き後の聖国を掌握しようとしているだけかもしれなかった。だが、少なくとも名将と呼ばれる彼の不在が知られれば、ウィシュタリアの戦略も変わるに違いない。恐らく、いっきに南部の植民地の制圧に乗り出すのではないか。

 それでよかった。聖国の崩壊。それがアリエイラの望みだった。


『バルトロー・ユースティ二アだ』


 冷静に答えると、男は確かめるようにアリエイラに目を留め続けた。やがて、微かな笑みと共に、礼を言われた。


『ありがとうございます』


 そして彼は後ろを振り返り、ウィシュタリア語で何事かを命じた。護衛の一人がやってきて、すぐに鎖の鍵をはずされた。


『お疲れでしょう。陸に部屋を用意します。怪我人もそちらへ運びましょう』


 にこりと返事を促すように微笑みかけられて、アリエイラは頷いた。


『では、後ほど』


 彼は再び立ち上がると、胸に手を当て、頭を下げてから出て行った。それは見惚れるほど優雅な美しい動作だった。だから、どうやらそれがウィシュタリアの礼儀作法の一つなのだと、アリエイラは知ることができたのだった。

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