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ルティンには専属の護衛がついている。父は南部の大領主で主神を奉じる大神官、母は三十年ほど前にあった大乱で戦功をあげた聖騎士、姉は王妃で、彼自身も王直属の情報局で高い地位を得ている。故に当然ではあったのだが、この駐屯地で一番偉いハリー・ファング将軍と同等の警護を受けているのは破格のことだった。
それというのも、ルティンはその美貌のせいで、異常な頻度で刃傷沙汰に巻き込まれるからだった。幼い頃は何度も攫われそうになったし、多少大きくなった頃は、どこぞの貴婦人に閨に引っ張り込まれたこともある。それくらいなら可愛い方で、問題は女だけでなく男の劣情も煽るらしいということだった。そうなってくると拉致、監禁という強硬手段が主になる。それでも、そういった輩はまだ余裕がある方で、当面の命の保障があるだけマシだった。本当に恐ろしいのは金も権力も無い思い詰めた人間で、面識も無い人間に、突然、「一緒に死んでくれ!」と刃物を持って胸元に飛び込んでこられるような目に遭うのも、度々だった。
ルティンも次期領主として幼い頃から武芸全般を叩き込まれている。姉や王子たちの乳母であるマリー・ランバートクラスの使い手でさえなければ、小柄な女性相手に後れを取ったりはしない。が、職業柄軍との接触が多く、誘惑しているつもりは無くても、時々彼らを引っ掛けてしまうことがある。軍人と言えば生え抜きの職業軍人ばかりになった国軍所属の者は、誰もが相当の技量を持っていて、そんな者に命を狙われれば、いかにルティンであっても荷が重かった。
そんな中で白羽の矢が立ったのがフェリアス・ハイデッカーだった。彼はルティンの顔に何の感慨も抱かない数少ない人間の一人である。それは当たり前かもしれなかった。初対面からお互いに、いけ好かない奴、という共通認識を持っている。そんな相手に、たとえどんなに顔が良かろうと、惚れるわけがない。
が、二人のそっけなくも無情な遣り取りは、ルティンにおもねる態度の者が多い中で、人の好い姉にはまともな友情を育んでいるように見えたのだろう。姉の鶴の一声で、ハイデッカーはルティン専属とされた。それ以来、彼はルティンの天災のような痴情のもつれを処理する破目に陥ったのだった。
ハイデッカー本人は裏方仕事よりも王妃陛下のような華々しい戦功を挙げることを切望しているが、ルティンが見るに、細かいことに良く気がつき、秘密裏に処理する能力に長けている彼は諜報向きだった。故に、ルティン共々情報局に籍を置き、要人の秘密裏な警護なども担当している。
そんな二人の騒ぎは日常茶飯事だったが、今回は刃物を振り回したのがまずかったようだ。軍内での喧嘩は御法度である。そんなわけで、ハリー・ファング将軍に呼び出されたのだった。
右手を心臓の上に置き礼をすると、将軍は人払いをしてから執務机に両肘をついて指を組み、その上に顎を載せて軽く息をついた。海軍将軍に就く前は、王が生まれた時に与えられたキエラ領の領主代行を務めていた人物で、海賊の血を引いているという風貌は海の男らしく頑健だった。しかし彼は恐妻家である。ルティンは彼を見る度に、人間は顔ではわからないものだとの思いを深くするのだった。
「二人とも、向き合え」
静かで奇妙な命令に、二人は体を強張らせた。が、それを面には出さずに従う。逆らえば命令違反で投獄か、最悪処刑である。
「握手をしろ」
ルティンは首筋から背中にかけて、嫌悪にざわりと鳥肌が立った。恐らくハイデッカーもそうだろう。数拍の躊躇いの後に、どちらからともなく手を出し、握り合った。
「私に続いて復唱しろ。『もう喧嘩をしません。お互いを尊重しあい、仲良くすることを誓います』」
まるっきり幼児の喧嘩の仲裁だった。人払いしてあったのは、せめてもの情けだろう。屈辱に、お互い睨み殺しそうな目つきで相手を見据えて復唱した。
「よし、こちらを向け」
意地でも表情を変えず、二人は相手の手を振り払いたい衝動も押さえつけて、何気ない仕草で将軍へと体を向けた。その様は妙に揃っており、本人達は気付いていなかったが、似た者同士なのを非常に良く示していた。
「私の手を煩わすな。次は無い。わかったら、行っていい」
ルティンたちは揃って頭を下げ、踵を返して自分が先に出ようとしたために戸口で肩をぶつけ合った。一触即発のところを後ろから発せられた苛立たしげな溜息に我に返って、結局安全を確保する役目のハイデッカーが目で権利を主張したのを受け、ルティンは先を譲った。
心の中にある暗黒色をしたノートにハイデッカーの名と罪状を新たに書き足し、この仕返しは必ず一つ残らず果たすことを、改めて強く心に誓ったのだった。
ハイデッカーに張り付かれて士官室にいるのなどまっぴらだったルティンは、与えられた机の中から海図とエランサ大陸図、及び様々なエーランディアの情報の写しを取り出し、自室に引き上げようとした。役付きというのはこういう時はありがたい。狭いながらも一人部屋のベッドの上で、ゆっくりと考え事ができる。
しかし、海図に手を伸ばしたところで、物見櫓の半鐘が鳴るのが聞こえた。続けざまに鳴らす敵襲の合図とは違う。二度続けて打ち鳴らし、一拍おくのは、危険度の少ない不測の事態だ。海に向かった明り取りの窓を大きく開け放し、ルティンは外を確かめた。ハイデッカーが横に並んだ。小高い丘の上の指令部の二階からは港が一望できた。哨戒船が戻ったようだ。小型の船を曳航しているように見える。将軍がドア一つで繋がった執務室から現れ、ルティンとハイデッカーを呼んだ。ルティンより目が利くハイデッカーが答える。
「エーランディアの小型船を拿捕したもようです」
「両名は事態の詳細を調べて直ちに報告せよ。捕虜の取調べも任せる。行け」
二人は短い了解の返事をして、司令部を飛び出した。
その船は小さな帆船だった。船首付近にエーランディア独特の魔除けのための鋭い目が描かれている。櫂は一段。細長い船体にして波の抵抗が少ないように設計された、かの国の高速艇だ。メインマストの横帆のいくつかは落ちてしまっていたし、もう一本の恐らく縦帆だったマストは半ばから折れてしまっていた。船体には無数の矢が射込まれ、また、上部に投石器でやられたと思しき損壊が幾つも見受けられた。
エーランディア聖国の軍艦は、通常二段の櫂を備えた大型帆船である。群島国家周辺の海域は風の吹き方も海流も不規則なのだそうだ。おかげで風だけに推進力を頼るわけにはいかないのだという。それでも彼らは海洋民族で、風を捉え、操船する術にも長けていた。もし蒸気機関が開発されなければ、ウィシュタリアに勝ち目はなかっただろう。
王は、当初、海軍を自国の沿岸部を守るためだけに使うつもりだった。だが、エランサの戦況を分析し、遠征は避けられないと、かなり早い段階で決断していた。そこで、エーランディアの船の特徴を丹念に調べさせ、それよりも大きい船を造らせた。大砲を載せるのが前提だったために、大型にするしかなかったというのもある。大砲も砲弾も重い。蒸気機関を動かすためには石炭も必要であり、それらすべてを載せるには、相応の大きさが必要だった。
海戦で、ウィシュタリア軍は横一列となって側面に設けられた砲身をすべて向け、接近戦を主とするエーランディア軍を充分に引寄せておき、その投石器の射程外から、飛距離のある大砲で船首を狙って撃ちぬいた。船首だと的は小さくなるが、代わりに命中した時は大きな被害を与えられる。大砲の威力は凄まじく、敵艦の船尾まで貫いたのだ。砲線を潜り抜けてやってきても、船高が違うために、彼らはウィシュタリア艦に乗り込むことはできなかった。こちらは唯一、推進をもたらす外輪が弱点だったが、鋼鉄の外装を施してあり、そう簡単に壊されることはなかった。
一方的な戦だった。エーランディア海軍がどれほどの規模かはわかっていなかったが、そんな戦いを二度も繰り返せば、少なくとも近海に大軍団がいるとは思えなかった。
姉は陸戦を進めながら、ダニエル・エーランディア元ウィシュクレア代表の存在を明かし、降伏を再三にわたって勧告していた。ファング将軍も同じく、拿捕した船に降伏を促す書状を持たせて解放した。条件は植民地の放棄と奴隷の解放、及び、植民地の『借地料』と奴隷への『賃金』だった。敢えて賠償金という表現は避けて相手の面子を守り、『聖戦』の必要がないことを説いたのだ。
エーランディア聖国の目的は、古に降された神託に従って、冥界に閉じ込められた神を救い出すためだと言われている。彼らにとってこれは聖戦なのだ。だから、国名の由来となっている神官の血筋であるエーランディアの末裔が、こちらの味方となっていると喧伝したのだった。エーランディアの血は王家ユースティニアの血よりも尊ばれているという。その昔、冥界の門を探しに行かない王に見切りをつけ、単身船に乗って探しに出た聖人とされているのだそうだ。その聖人は難破の挙句、マイリアノ大陸に流れ着き、子孫は商人となった。そうして現在、ダニエル・エーランディアは両陛下に忠誠を誓っている。
あちらに真偽を確かめる術がなかったとしても、エーランディアの名を出すことによって揺さぶりは掛けられるし、こちらの正当性を主張できる。
だが、反応は鈍かった。聖戦として始まった戦も、長期化して当初の理由を見失っているのだろう。戦は冥界の門ではなく、莫大な富をもたらした。それをそう簡単に放棄できるはずがない。
ウィシュタリアの目的は、エーランディアをエランサから撤退させることだ。エランサ人にしてみれば、エーランディアを根絶やしにするまで恨みが晴れないに違いないが、王と姉は憎しみの連鎖を最も危惧していた。
争った我らだけでなく、子供たちや孫たち、もっと先に生まれ来る者にまで、憎しみを植え付け戦わせる権利は、我らにはない。憎しみも、恨みも、痛みも、与えられた我らだけが背負うべきものであり、そんな愚かな妄執で未来を縛ることは、どうしても避けたいと思っているのだ。
しかし、エーランディアが退く気配は無く、このままでは植民地を取り戻すために、多くの犠牲をはらわなければならない。それは本当は簡単なことだ。こちらには圧倒的な火力と豊富な兵員がある。王の一声で、建物も人も同じようになぎ倒し、瓦礫の山にできるのだ。必要とあらば、王も姉もそれを躊躇いはしない。だがそうすれば、中にいるエーランディアの一般人だけでなく、エランサ人の奴隷たちも犠牲になる。エーランディアのみならず、エランサからも怨嗟の声があがるに違いない。
事態を好転させる一手が欲しい。この状況を打破するきっかけが。有利に事を運んでいるはずのウィシュタリアの、それが真情だった。
それには新しい情報がいる。僅かなものでもいい。何が事態の鍵になるかわからないのだから。ルティンはどんな手を使っても、あの船から最大限の情報を引き出すつもりだった。
我が親愛なる王妃と王が真に望む未来を、手繰り寄せるために。