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ルティンは届いた物資の点検を終わらせ、各艦に砲弾と火薬の積み込みを命じると、司令部へと足を向けた。
海は見飽きていた。姉は、王に寄り添って波の寄せ返しを眺めていると時が経つのを忘れてしまう、と無自覚に惚気を垂れ流していたが、いつまでも寄り添っていたい相手がいるわけでもないルティンにとっては、退屈極まりないものだった。だだっ広く、終わりがない。変化もない。そして潮臭い。空気がべとべとする感じも嫌いだった。内陸育ちのルティンは、認めたくなかったが少々ホームシック気味で、草と土埃の匂いがたまらなく恋しかった。
とは言え、ウィシュタリアを発ってから、まだ四ヶ月。ルティンは情報の整理、戦術の補佐、物資の補給管理といった後方支援任務についている。戦況は二度の海戦を経て、ようやく最南端の植民地アルドシシリを攻略できるところまで漕ぎ着けたばかりだ。エーランディア聖国との戦は、これからが本番で、先は長い。
それでも、聞いた時には気の遠くなるような先の話だと思っていたあの時の王の誓いが、本当に現実になったのだ。ルティンの脳裏に、これまでの長かったような短い日々が過ぎっていった。
もうあれから十三、いや、十四年になる。ルティンは当時王太子であった王が姉と結婚する時に宣言したことを、今でも鮮明に覚えていた。
十年だ、と王は言った。十年で領主の権利である私兵制度を廃止し、国軍一つに纏め、国内の不穏勢力を一掃しなければならない、と。エーランディア聖国の侵攻に備えるのに、それ以上の猶予はない。だからどうかその命を私に預け、力を貸して欲しい、と。
そして、王は幾多の困難を克服して、本当にたったの十年でやってのけたのだった。
それだけではない。妹であるミルフェ姫を北方国家群の入り口に位置するエレイア王国に嫁がせ、それに同行させた『妃殿下の花園』(今では『王妃の花園』と呼ばれる)の『花』たちに、ハレイ山脈以北の国々の有力人物を篭絡させることによって国交を深めさせ、ついには属国化してしまった。
また即位と同時に、不死人が生まれなくなったために独立国である必要のなくなったウィシュミシアとウィシュクレアを併合して、マイリアノ大陸全てを掌握した。
それによって北方の国々から木材や金属類、北方にしかない珍しい物品が大量にもたらされ、それらを扱う技術も手にすることができた。
特にエレイアの金属加工技術とエディスの木工技術は、兵の装備や、王が創設した海軍の軍艦の建造におおいに役立った。
その見返りとして豊作が続くウィシュタリアからは穀物や別の分野の技術が輸出され、大陸全体に血が巡るように物品が行き渡って、各地を潤わせていた。人々は自由に交流し、様々な芸術が振興し始めている。今、王の掌中におさめられたマイリアノ大陸は、空前の繁栄を謳歌していた。
王はその一方でエランサに支援を行い、エーランディア聖国についての情報を集め、蒸気機関の軍船を開発し、海軍を整えた。
即位後すぐに、エランサ出身の子飼いの側近イドリック・サージェシカに兵を持たせてエランサに派遣し、本格的な出兵の下準備もさせている。つまり、海路と陸路の補給基地を確保させたのだ。
そうして九ヶ月前、内陸部のエーランディア勢力を追い払うために王妃である姉が大軍を率いて親征し、敵国を沿岸部に後退させたのを受けて、海軍の出兵となった。
エーランディアを退け、世界を安定させるのに、今以上の好機はない。民は王の行動に満足し、絶対の信頼を寄せている。おかげで王は巨万の富と強大な兵と権力を振るうことができる。
対するエーランディアは、ウィシュタリアからの十数年にわたるエランサへの支援がじわじわと効いてきて、新しい利益を獲得できない消耗戦に国力を落としてきていた。そう、まさに今、ここが、勝負所なのだった。
ルティンは見るともなしに、遠く離れている姉がいると思しき方に顔を向けた。良く晴れた空に視線を彷徨わす。日に何度も繰り返す仕草だった。姉が心配だった。無茶が服を着て歩いているような姉であるが、今回の無謀ぶりはきわめつけだった。彼女はそろそろ臨月を迎えているはずだった。
ルティンは苛立たしさと儘ならなさに、一つ大きく息をついた。
船団がここに到着した日、姉は港まで出迎えに来てくれていたのだった。いつもは黒尽くめの鎧に王のシンボルカラーである緋色のマント姿のはずの姉が、赤いゆったりとしたドレス姿で、王から授けられた宝剣を腰に下げずに片手に持ち、足元を気にするようにゆっくりと歩いていた。
王はほぼ船を飛び降りるようにして姉に駆け寄って、人目も憚らず抱き締めた。それから延々と二人はキスを繰り返した。船端に兵が鈴なりになろうと、姉の後ろにエランサ王ラショウ・エンレイがいようと、おかまいなしで。途中で筆頭補佐官のディー・エフィルナンが声を掛けても止まらなかったほどだ。
いつもならあれだけディープなのをやらかせば姉の鉄拳制裁が王の顎か鳩尾に決まるのだが、キスが終わっても姉は王の首に齧りつくようにして縋って、王はご機嫌で姉を両腕に抱え上げたままエランサ王と挨拶を交わしていた。
姉は妊娠していた。姉夫妻は結婚十四年目にして、未だ新婚と呼ばれているが、だからといって、やって良い事と悪い事がある。
さすがに腹が大きくなってきたので戦闘には参加していないとは言っていたが、そんなのは当たり前で、問題はそれ以前にある。なのにあのクソ義兄は予想していたかのように満足気に、その子のおかげでおまえの無茶を心配しなくてすむと、姉に笑いかけたのだ。
怒りのあまり蒼褪めたルティンを見て、子を授かるのは女神の思し召ししだいだ、などと嘯いていたが、あれは絶対にわざとに違いない。なんて危険なことをするのかと怒り心頭に達しながらも、そうでもなければあの姉に自重を促すことはできないだろうとも理解できてしまうのが、どうしようもなく物凄く腹立たしかった。
この状況で、妊娠したからといって姉が王城に篭っているとは考えられなかった。だいたい、一人目の出産の時にあまりに大事にされすぎて、体力も剣の腕も落ちてしまったことを反省し、それ以降は出産の当日まで素振りを日課にするような人だ。懐妊を隠してでも戦場に立っただろう。王はそれをわかっていて、姉の行動を自由にさせる代わりに、枷をかけたのだろう。
それでも質が悪すぎる。他にいくらでも方法はあっただろうに、こうしたのは、案外ただ単に、あの色惚け阿呆がヘタをうっただけなのかもしれなかった。
当初、海軍を指揮する予定だった王は、ハリー・ファング海軍将軍に全権を委ね、姉の代わりに陸軍を指揮するべく内陸へ入った。姉は王の傍を離れず、戦地に留まっている。誰も身重の姉を戦地から遠ざけようとはしない。むしろ、留めるために他の何をおいても手を尽くしているはずだ。
なぜなら、姉は幸運の女神だから。王の偉業は、彼女の助力なくしては為し得なかったと誰もが知っている。彼女はどれほどの窮地であっても、必ず運を招き寄せる。突破口を切り開いてみせる。
だからこそ、王妃である姉自らが親征しなければならなかったのだ。これだけの大遠征は成否いかんによって国運を傾ける。絶対に失敗は許されなかった。
姉が『失われた神』の生まれ変わりだと知っている者の中には、『世界』が彼女の『欠片』であるせいだと、物知り顔で納得する者もいる。ルティンはそれを聞くたび、怒りを覚える。それがなんだというのかと思う。本当に、奴らはいったい姉や義兄の何を見ているのか。
姉は優しい女性だ。家族を愛し、友人、同僚、領民、国民を愛し、いつでもその幸福を願っている。女性として守られ、もっと安穏な生活をしていていいはずの人だ。
王は用意周到な人で、幾重にも備えて準備をし、着々と物事を推し進めていく。だが、世界を一変させていく事業は今でこそ偉業と呼ばれこそすれ、当時は軋轢ばかりを生み出した。幾多の暗殺未遂と内乱を、姉は自ら剣をとり、矢面に立って王を支えてきた。今も遠征に身を投じている。王の剣となり盾となることを姉は喜びとしているけれど、敵であっても味方であっても流された血を悼み、深く嘆いていることをルティンは知っている。姉が招き寄せる幸運は、必ずしも姉に幸福ばかりを与えはしない。むしろ、大きな痛みを常に与えているのだ。
それでも姉に悲壮感はない。恐らく、苦労を苦労とも思っていない。いつでも軽やかで、たじろぐことなく未来を見据えている。ルティンは姉ほど強く優しく美しい女性を知らなかった。
物心ついてからずっと、いや、記憶に無くてもきっと、生まれて彼女に出会ってから、ルティンは姉に魅せられ続けているのだった。
「コランティア、なにを考えている」
斜め後ろを歩くフェリアス・ハイデッカー護衛隊長が、さも嫌そうに声を掛けてきた。
「我が麗しの王妃陛下のことを」
「身ぎれいも良し悪しだと言っただろう。自分から不穏の種を蒔くのはいいかげんやめろ。そんな物言いをするから、勘繰られるんだ」
「王妃陛下以上の女性を連れてきてから、そういうことは言われたいものだな」
ルティンは平気な顔で嘯いた。ルティンたち姉弟の仲が良いのは有名だ。時に近親相姦を疑われるが、下種は一匹残らず処分してきたおかげで、最近では不愉快な思いをすることはめっきり減っている。
なにかと小うるさいハイデッカーは同い年で、姉に紹介されたのは奴がまだ騎士見習いの14の時だった。以来、何かというとこうやって組まされる。主に姉の誤解によるもので、彼女は二人を無二の親友同士だと思っているのだった。大きな誤解だった。この世に奴ほどいけ好かない男はいない。
「くだらない用で話しかけないで、警護に専念してもらいたいのだが」
「してるから声をかけたんだろうが。憂い顔で遠くを見るな。色気駄々漏れで溜息つくな。できたら仮面でも被ってくれと再三言ってるだろう」
ルティンは壮絶に艶やかな流し目をハイデッカーにくれ、ますます嫌そうにしたのを認めて、足を止めて向き直った。最上級の笑顔で微笑んでみせてやる。彼が顔を引き攣らせたのを見て、ルティンはさらに笑みを深くした。
居合わせた者たちは、ルティンの周囲に、ぱあっと花が咲き乱れ、花びらが舞散ったかのような錯覚を覚えた。あまりの美しさに息を止めて見入る。彼は美しい青年だった。二十代も半ばを越えているのに、恐らく女装してもまったく違和感が無い。柔らかに波打つ薄茶の髪を首の後ろで無造作に括ってあるだけだったが、立った襟からのぞくうなじが妙に色っぽかった。
ハイデッカーは素早い動作で剣を抜き、ひゅん、とルティンの前の空を切り裂いた。その勢いのまま、がっと大地に切っ先を突き立てる。
「てめえ、その顔、切り刻んでやろうか」
警護対象のルティンを威嚇しているが、その実、一挙に剣呑な雰囲気に持ち込んで、部下たちの目を覚まさせようとしているのだ。
「人の親切を仇で返すとは、見下げ果てた阿呆だな」
面の皮一枚ごときで狂う人間など、いざという時役立つか怪しい。ルティンにしてみれば、自分の顔を使って判断材料を一つ提供してやっているだけだ。
「ふざけんな。俺が何人の部下を失ったと思っている」
「おまえの監督不行き届きのせいだろう。指導力不足だな」
けろりとして言い返してやると、今度は本気で怒ったようだ。目に殺気が宿る。真実を言い当てすぎたようだ。それに、奴にも面子というものがある。奴は説教くさくて鬱陶しいが、なけなしの面子を叩き落して靴底で踏み躙ってやったほうが世間のためだというようなクズではない。ここは一旦、退くべきだろう。
「まあ、落ち込むな。少数精鋭、結構なことじゃないか」
「その元凶が、しゃあしゃあと言うな!!!!」
ハイデッカーは剣を振り上げて怒鳴り散らし、危険を感じた奴の部下たちは後ろから一斉に飛びついて、奴の興奮が治まるまで、愉快な騒動を繰り広げたのだった。