閑話 殿下という人は
殿下という人は、何もしない人だ。
医局にいる先生たちよりも、騎士様たちのほうが大きくて強そうだけど、その中でも特に大きくて、偉そうで、一番お顔が怖い。
ソラン様と時々やってきて、エレーナお姉さんと少しだけ話す。後はじっとソファに座って、局長先生とお話している。ソラン様の夫なんだって。
今日はソラン様のお手伝いで、薬草摘みに来た。王都というところに来てから、初めてのお出掛けだ。皆で朝早くに幌の付いた船に乗って、降りたところで今度は馬車に乗った。それから、がたごとがたごと揺られて、開けた窓から景色が動いていくのを見ていた。外はたくさんの緑だった。時々人もいたけれど、それよりお花と木と草でいっぱい。春っていうんだって。
馬車が止まって、ソラン様が、着いたぞ、と扉を開けてくれた。ソラン様は子供たちをひとりずつ抱っこして下ろしてくれた。ソラン様はとってもやさしくて大好きだ。みんな大好きだから、ソラン様の取り合いになる。そうすると悲しいお顔をなさるから、俺たち、順番を守るようになった。待ってれば、ソラン様はちゃんと全員抱っこしてくれるし遊んでくれる。
殿下にお付の騎士様たちが、木陰に敷物を敷いてクッションを並べると、殿下がやってきてそこに座った。ソラン様の侍女お姉さんたちは、その隣に敷物を敷いて、たくさんのバスケットを馬車から運び出していた。
俺たちはソラン様に連れられて、草の中にしゃがんで、ソラン様が摘んで持たせてくれた草と同じのを探した。一つ見つけると、ソラン様のところへ駆けて行って見せる。すると、良く見つけた、ありがとう、と言って笑う。とっても綺麗に笑う。そうすると嬉しくって、もっと笑ってほしくて、俺は頑張っていっぱい探した。
『俺、ソラン様、だいすき! ソラン様は俺のこと、すき?』
『うん、だいすき、エル』
『じゃあ、チュってして』
ソラン様は優しくほっぺたにチュってしてくれた。俺もお返しに、両方のほっぺたにしてあげた。
ソラン様のキスはすごいんだ。すごく幸せになって、悲しい気持ちがなくなる。お母さんたちもそうだと思う。ソラン様は眠る前にいつも訪ねてきてくれて、一人一人抱き締めておやすみのキスをしてくれる。そうすると、怖い夢を見ないで眠れる。見ても抱き締めてくれた腕を思い出す。あの腕が怖い男たちをやっつけてくれたから、もう安心だって思えるんだ。
俺たちはたっくさん働いて、いっぱいソラン様のお役にたった。騎士様たちは動かないけれど、俺たちが休んでいるときも、ずっと立って危険が無いか見張ってくれているのを知っている。それで、なにかあった時には、ソラン様と一緒に守ってくれるんだ。騎士様たちは、あの男たちとは違う。強くて、でもそれで威張り散らしたり、暴力をふるったり、女を泣かせたりしない、男の中の男なんだ。
殿下はその騎士様たちより偉いんだって。でも、殿下はいつもと同じ、じっと座っているだけだった。じいいいいいっと何時間でも座ってた。お母さんたちは、働かざるもの食うべからずよ、と言う。なのに殿下はおやつを一番に取り分けてもらって、しかも自分で食べないで、ソラン様に、あーん、としてもらっていた。赤ん坊じゃないのに。俺だって、もうそんなことはしてもらわないのに。殿下はちゃんとお返しにソラン様にも、あーんとしてあげていたし、自分が食べるよりたくさん、あーんとしてあげていたけれど。でも、ソラン様は真っ赤なお顔で、すごく困ってた。女をいじめちゃいけないんだ。特にソラン様は絶対!
だから、俺は殿下の前に行って言ってやった。
『殿下! 大きくなったら、ちゃんと自分の分は自分で食べなきゃいけないんだぞ! 俺は自分でこぼさずきれいに食べられる! それに俺は働き者だし、女をいじめたり泣かせたり困らせたりしないし、だから殿下より俺の方がソラン様にふさわしい! 大きくなったら、俺がソラン様を嫁にもらうからな!』
『エル!』
お母さんが悲鳴みたいな声で名前を呼んだ。
『お母さんはだまってて! 俺、今、殿下にお説教してるところだから!』
『エル、エル、無礼な真似はやめなさいっ』
殿下が黙ったまま、すっと手を上げた。するとあたりが、しんと静かになった。殿下はじいっと俺を見ていた。俺は息を大きく吸い込んで、拳をぎゅっと握った。そうしてないと、腰から下がへなへなってなっちゃいそうなほど、怖かった。殿下のほうが強いって、思った。俺なんか、殿下がちょっと動くだけですぐ殺されちゃうって。
あの男たちがしたみたいに、俺も殺されちゃうって。
『名前は、なんだ。エルは愛称だろう』
殿下が声を出した途端、俺は全身で震えた。逃げることもできなかった。体が動かなかった。自分の速い息の音だけが耳でごうごうと聞こえた。
ソラン様が横から俺の名を教えた。
『エルドシーラ・オルタスです』
『エルドシーラ・オルタス、おまえの勇気は認めるが、ソランは嫁にやれん。ソランは私のものだ。なにしろソランは、世界で一番私を愛しているからな。私から離れられんのだ』
殿下は落ち着いた声でゆっくりと真面目腐って言った。俺はぱちぱちと瞬きした。今の声は怖くなかった。お顔は相変わらずだけど、良く見るとあんまり怖くないような気がする。背筋がまたふるふるっとしたけど、それで大きく息が吸い込めた。
そしたら殿下は、にやりと笑った。それを見て、俺はむかっとした。今、絶対、バカにした! それで俺は怖さも忘れて、殿下にがつんと教えてやった。
『ソラン様は俺のこと大好きって言った! 好きよりいっぱい好きだって! ほっぺたにもチュってしてくれるし、俺だって愛されてるぞ!』
『ほほう、そうか』
殿下はにやにやーんとして、大きな手でソラン様を引寄せると胸元に頭を抱え込んだ。ソラン様はおとなしく頭を撫で撫でされていたけれど、首まで真っ赤だった。
いかにも自分のものって見せ付けるみたいなそれに、俺はむかむかあっとした。俺は地団駄踏んで、殿下に指を突きつけた。
『ソラン様が困ってるだろう! 勝手に触るな!』
殿下はくくっと笑った。それだけでなく、俺を見たままソラン様の頭のてっぺんに、チュっとした。
『困ってるだと? 喜んでいる、の間違いだ。おまえなんぞ、およびではない。私たちは愛し合ってるのだからな。そういうのを横恋慕というのだぞ』
ヨコレンボがなにかはわからなかったけど、なんか不名誉なことだというのはわかった。
『大人だからって、難しい言葉を使うな! 卑怯だぞ!』
『卑怯なものか。私はソランを幸せにするために、たくさん勉強したのだ』
『お、俺だって、頑張ってるぞ!』
『そうか、では、まだ足りぬのだな。それに私はソランのために剣の腕も磨いたぞ』
『俺だって、やるつもりだ!』
『ほう。その言葉に嘘偽りはないか?』
『嘘なんか言わない!』
『ならば、大きくなったら騎士になるか? おまえの努力しだいではソランの傍に置いてやってもいいぞ』
俺が騎士様になって、ソラン様を守る? 強くなって、怖い男たちをやっつけられるようになって? ついでに殿下もやっつけちゃえば、ソラン様も困らない。
『のぞむところだ! 俺は男の中の男になって、ソラン様を守る!』
『よし、いい返事だ。明日から剣の訓練ができるように手配してやろう。励めよ』
殿下は体を起こして、ソラン様を片腕で抱き寄せたまま、俺の頭に片手をポンとをのせ、ぐらぐらと揺するようにして髪をかき混ぜた。近くで合った瞳が楽しそうで、親しげで、俺もなんだか口の端がぴくぴくして笑っちゃった。
それから俺は、殿下の前に座って、一緒におやつを食べた。それで、男たるモノ、いかに女を大事にせねばならんか、教えてやったのだった。
というのは、恐ろしく恥ずかしい、物知らずなクソガキだった頃の所業だ。ああ、消せるものなら消してしまいたい。どんだけ向こう見ずだったんだ、当時の俺。
陛下が動かなかったのは当たり前だ。そしたらまわりの者は休むこともできなくなる。当時、あの方が特に大きく見えたのも、俺たちを怖がらせないために、厳つくない者をわざわざ選んで護衛に連れてきていたからだ。人前でも関係なくあれだけソラン様を独り占めしようとする方が、口さえ挿まず距離を置いておられたのも、俺たちにソラン様が必要だとわかっておられたから。
一見無表情で無愛想な陛下のお気遣い、それに寛大なお取り計らいには、返す返すも感謝してもしきれない。たとえ子供だといっても、あの暴言では殺されたって文句は言えなかったはずなのだ。
「エル。エルドシーラ・オルタス、当時の誓いを覚えているか?」
陛下の前で膝を折り、王妃陛下の護衛業務就任の挨拶と今までの後見のお礼を申し上げると、そうお声をかけてこられた。
「もちろんでございます。我が生涯をかけて果たすべき誓いにございます」
「そうか。あの生意気なクソガキがよくぞここまで育ったものだ」
陛下はくつくつと笑われた。ああああ、やっぱりクソガキと思っていらっしゃたんですね。いいかげん忘れてくださればよいものを~。
「おまえの一家言は今でも私の座右の銘だぞ。男とは女を幸せにしてこそ一人前、だったな?」
「申し訳ございませんでした」
頭を床につきそうなほど下げる。お願いです。もうこれ以上は勘弁してください……。
あれからけっこうすぐに、俺は理解した。陛下以上の男はそうはいないということを。政治の手腕もそうだが、なにより結婚十一年目にして未だ新婚と囁かれているほどの愛妻家だ。そのへんはもう、張り合えないというのか、張り合いたくないというのか、ちょっと微妙なところだが、ソラン様がお幸せなのは間違いなかった。
「謝ることはない。おまえを得られたことは、我らにとって本当に幸運だった。これからも励めよ」
「は。必ずや命を懸けて。お誓いいたします」
ソラン様は当然だが、今の俺は陛下にも命を捧げている。男としてこの人に信頼される以上の喜びはない。
「うむ。おまえの命、しかと貰い受けた」
陛下の受け入れてくださる深いお声が、体に染み渡っていくようだった。
陛下という人は。
どんな時も動じず、未来を見定めて、決して挫けないこの人は
この国の光。
ただ一人の、俺の王。
当時の真相
「ソラン様、ソラン様」
ディーが近寄ってきて小声で呼びかけた。
「なんですか?」
「そろそろ休憩にいたしましょう。それで、今日ここに連れてきてくださった上に、殿下、すごくおとなしかったじゃないですか。ソラン様の邪魔もせず、今もいい子であそこで座っておられますでしょう」
まだ男を怖がるエレーナたちのために、幌付きの船を用意し、馬車の手配をし、人払いまでさせ、その上、離れたところからこちらに気付かれないように、たくさんの護衛を配置してある。それらの手配はすべて殿下がしたのだった。
「だから、少々ご機嫌取り、あ、いえ、お礼をしておくべきだと思うのですが、いかがですか」
わざと言い間違えておいて、にっこりとプレッシャーをかける。ディーは、さすが殿下命の側近中の側近であった。
「お礼、ですか?」
嫌な予感に、ソランは警戒して聞き返した。
「ああ、たいしたことではなくていいのですよ。ただ、ちょっと、軽食をいただく時に、あーん、としてさしあげれば」
「は?」
「だから、こう、ソラン様手ずからお口に運んで差し上げれば。それでもう、今日は一日ご機嫌ですよ」
「えっと、これから、ここで、ですか? 夕食の時では」
「駄目ですね。ここでやることに意味があるのですよ。これできっと次回も快く連れてきてくださいますよ」
「そんな餌付けのようなことはしなくても」
「あっはっは。そんな人聞きの悪い。お礼ですよ、お礼」
ソランは胡乱な目でディーを見た。彼は時々、殿下とソランの仲にちょっかいを出して楽しんでいる節がある。
「どんな仲でも御礼をするのは人として筋というものです。それはさておき、きっと殿下はとても喜んでくださいますよ。それは請合います」
ソランとて、今日のことには感謝していた。女性たちの表情が明るい。子供たちのはしゃぎっぷりも微笑ましい。殿下にお礼をしたいと思わないわけではなかったのだ。
そんな些細なことで殿下が喜んでくださるなら、恥ずかしいのを我慢する価値はあるかもしれなかった。
「わかりました。できるようであれば、やってみます」
ソランは未だ覚悟が決まらぬ顔で、それでも頷いたのだった。
そして、食べさせる方が100倍くらい恥ずかしく、食べさせられる方が100倍くらいいたたまれないものだということを、後悔と共に思い知ったのだった。