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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
閑話集 こぼれ話
122/149

閑話 ディーの休暇

「ディー、一人身が淋しいそうだな」


 用事を済ませて帰ってくると、殿下はソファに腰掛けて、ソラン様を膝の上に乗せておられた。はっきり言えば、背の高いソラン様では、胸元に寄りかからせて抱え込むなどという可愛いことはできない。ではどうするのかと言うと、両腕を自分の首に回させるのである。つまり、ソラン様から抱きつかせて、安定した体勢にするのだ。それはそれで、非常に目に毒な姿だった。

 ソラン様は恥ずかしがって、ずいぶんと抵抗しておられたが、殿下に諦めるとか折れるとか空気を読むとかいう選択肢はない。逆らうだけ無駄というものだ。この頃では休憩時間などお二人で過ごされる前提の時は、羞恥心に躊躇いつつも殿下の望むようにしておられる。今も、殿下の首元に顔を隠すようにしておられるが、耳から首筋から真っ赤である。どうも、恥ずかしいからというだけでなく、雰囲気的に、なにかされていたのだろうと思われた。


 俺の視線に気付いて、殿下はニヤリとしながらソラン様の頭に手をやり隠された。見るな、もったいない、減るだろう、と言うわけだ。だったら、人前では控えたらどうですか、と思わずにはいられない。こっちだって、見ようと思って見ているのではない。目の前で正々堂々とやられたら、誰だって目に入るに決まっている。気を利かせるべきなのは俺ではなく、殿下が控えるべきであるはずだ。

 女に興味がないと思っていたら、意中の女ができた途端これである。どうしてこの人には中庸というものがないのだろう。何事であれ、極端なことしかなさらない。本当に、王子でなければただの迷惑な人だと思わずにはいられない。

 ディーは努めて視線を落として、殿下に書類を提出した。


「こちらはこれで本決まりです。すぐに目を通していただけますか」


 殿下は書類を取られて、ソラン様にも見やすい場所に掲げられた。ソラン様もこうなると頭の切り替えは早い。隠していた顔を上げられて、二人で顔を並べて真剣な様子で読んでおられる。

 やがて読み終わると小声で言葉を交わされ、満足気に頷かれる。少しこちらに身を乗り出して、テーブルの上のペンを取られると、紙をソラン様に押さえさせて、署名をされた。


「早速取り掛かるように指示しろ。そうしたらおまえには十日の休暇をやる。実家に戻って片をつけてこい」


 ディーは書類を取ろうと手を伸ばした姿勢で止まった。


「はい?」

「休暇をくれてやると言っている。実家で有意義に使って来い。いっそ華々しくふられて散ってくるがいい」


 振られてだの、散ってだのという単語で、婚約者のことを言われていると、やっと気付く。


「どういう前提ですか。散るもなにも、あとは彼女が気に入った男を連れてくればいいだけで」

「それには次期の座を返上するのが必要だろう。とにかく、これから更に忙しくなるのに、面倒事にかかずらってる暇はない。今の内に身辺を整理しろ」

「いえ、特に必要ありません。ご迷惑は決して掛けませんよ」

「良い心がけだと言いたいところだが、全然信用ならんな。迎えが来ているぞ」


 嫌な予感が膨らむ。殿下が、入れ、と別室に続く扉に声を掛けると、そこからシリンが現れた。

 金茶の柔らかそうな髪をふんわりと結い上げた姿は小柄で、優しげに見える垂れ気味の目尻といい、浮ついたところのない丁寧な所作といい、十人中七人の男は、恋人ではなく妻にしたい女として認識するだろう。


「お久しぶりです、ディー。お母様がお呼びになっておられます。どうか一度お帰り願えませんか」


 数年ぶりに会った従姉妹にして婚約者は、相変わらず冷めた瞳でディーを見て、お願いと言う名の命令を申し渡してきたのだった。




 馬車の中は沈黙が続いていた。二人でいて、会話が弾んだことなどない。黙って隣り合って座っているだけだ。それでも幼い頃は気詰まりではなかった。彼女の傍は無心に呆けられて、むしろ居心地が良かったものだった。それがいつからか間合いの読めない妙に緊張するものになった。

 今日もどうせそうなるだろうからと馬で行こうとしたのだが、馬車に乗り込む彼女に無言の威圧をかけられて、一緒に乗る破目に陥った。

 彼女は万事に控え目でおとなしく、無駄口は叩かない淑女だが、言い換えれば非常に冷静で合理的な人でもある。故に顔付きは可愛らしいのに、性格はおよそ可愛気とは無縁で、実はむしろ視線一つで人を逆らえなくさせる人だった。それに気付いたとたん、頭の痛いことに、大抵の男たちは去っていくのだった。


「あー。えーと、それで、母上が俺をお呼びとはどういうことでしょうか」


 そんなわけで、彼女に話しかける時は俺も例に漏れず緊張して、おかしな具合に敬語が混ざり込んでしまう。


「そのままの意味です。お母様はディエンナ様をお呼びです」

「『ディエンナ』は貴女のはずですが?」

「ええ。『ディエンナ』は私です。それでも、『ディエンナ』はいつ帰ってくるの、とお聞きになられます。とても寂しげでいらっしゃいます」


 彼女が迎えに来るぐらいだ、母はかなり荒れているのだろう。


「そうでしたか。すみませんでした。家のことは放りっぱなしで。貴女には本当に感謝しています」


 俺の今生の母は精神を病んでいる。二歳で死んだ姉『ディエンナ』の死に堪え切れず、俺が生まれると、この子は『ディエンナ』だと言い張った。俺を『ディエンナ』として育てることで、母の精神は飛躍的に安定した。

 しかし、男の俺がいつまでも『ディエンナ』でいられるわけもない。無理がありすぎた。それに、『ディエンナ』を愛し忘れられないからこその執着だ。彼女にとって『ディエンナ』は唯一無二の存在であり、信じ込もうとしたからといって、他の誰かが身代わりになどなれるわけがなかった。

 やがて母は再び現実に耐えられなくなっていった。俺と『ディエンナ』との違いを見つけると、暴力を振るうようになった。そうして終いに、俺を殺そうとした。


 俺を、と言ったが、実のところ、『現実』を殺そうとしたのだろう。彼女にとって、俺は生まれてもいない子供だ。存在さえしていないのだから、俺を殺そうとなど思いもよらないだろう。

 だとしても、『現実』の俺は常に母によって命の危険にさらされるようになり、危惧した父は俺を王都へと送り出した。そして、母を安定させるために俺の代わりに連れてこられたのがシリンだった。


 シリンは母方の従姉妹だ。父は入り婿であるから、もしシリンが『ディエンナ』としてエフィルナン家を継いだとしても、親戚連中はうるさく言わない。俺も殿下の下で職を得ているし、領主にならなくても困りはしなかった。

 ただ、彼女と婚約という形を取っているのは、父に対する気遣いと、こうすることで彼女に望まない縁談がくるのを阻むためだった。全然関係のない彼女に面倒事を押し付けているという自覚はある。せめて伴侶くらいは彼女の望む人物を与えてやりたかった。

 最早逆立ちしても、『ディエンナ』には絶対になれない俺には、それくらいしか彼女にしてやれることがなかったのだ。




 領地は中部にあり、馬車で三日かかる。海まで続く大河サランの支流のうちで、王都に最も近い場所を押さえる要衝の地だ。ここより以北の船の進入は禁止されている。王都の北から攻め込まれるのを警戒してのことだ。どちらにしてもここより先は山がちで荷を積み上げるのに適当な場所もないし、船で遡るのにも向いた流れでもなかった。

 故に水運で王都に運ばれる品は、必ず領地を通ることになる。土地は異状に水捌けが良く、石がちで農作には向いていないが、その代わり運輸の中継地として莫大な利が上がる地であった。

 物も集まるが、人も集まり易い。彼女には王都で覇権を狙うようなギスギスした連中ではなく、こういったところで広く世間を見ている、まっとうな男を見つけて欲しいと思っていた。


「どう? 少しは気になる男は見つかった?」


 あまりの沈黙に耐えられなくなり、気軽さを装って尋ねてみる。ここのところずっと気掛かりだったことでもあった。

 ソラン様を見ているとシリンを思い出すことがある。キエラで海賊が姫君の許へ通うために崖に階段を刻んだという伝説を、ソラン様が杜撰だと評したのを聞いた時には大笑いしたものだが、恐らくシリンもそう言うだろうと思った。

 彼女は普通の男が相手をするには聡明すぎるのだ。だからエフィルナン家を預けるのになんの心配もないが、その彼女を包み込み守ってくれるような器の大きい男が、なかなか見つからないのだった。

 何事もソツのない彼女だから、多少小物でもうまく飼い慣らすとは思うが、それでは幸せとは程遠い関係になるだろう。

 俺の問い掛けに、ずっと前の壁ばかりを見ていた彼女がこちらに顔を向けた。そこには特に何の表情も浮かんでいなかった。


「気にしてくださってありがとうございます。残念ながら、ずっとお母様につきっきりでしたので、ディーの望むような結果は得られていませんが」


 皮肉のようだが、けっしてそうではない。彼女は皮肉を言うくらいなら、真正面からばっさり切りつけるタイプだ。単に事実を簡潔に説明してくれたのだ。が、それに深い罪悪感を覚える。


「ああ。そうですよね。すみません。本当に」


 頭を下げた。下げたまま上げられなかった。彼女は私より年上だ。このままでは嫁ぎ遅れてしまう。もう遅いと言えば遅く、放っておけば、俺と結婚するしかなくなる。

 このままではいけない。これ以上、彼女の人生を無駄に費やさせてはいけない。ずっとそれについては時が解決してくれるだろうと逃げていたが、ここが潮時なのかもしれない。いいかげん、俺が自分の手で幕を引かなければならないのだろう。それが、朴念仁のはずの殿下にさえわかることだったのだと気付き、更に苦い気持ちになった。


「戻ったら、父と相談し、必ず事態を変えます。約束します」


 頭を下げたままさらに一度深く下げ、それから顔を上げ、誠意を込めて彼女を見た。彼女は軽く頷いた。


「貴方はやると言ったらやる人ですもの」


 そう言うと、目を伏せる。その表情が、どきりとするほど憂いを秘めて見えた。


「私は疑ってなどおりません」


 そしてまた前を向いてしまった。話は終わりということなのだろう。俺が申し訳ないと思えば思うほど、彼女はそんな必要はないと拒絶する。冷たい態度だが、優しい人なのだ。

 俺も前を向いた。忙しく頭を働かす。もう、窓の外を気まずく覗いて時間を潰している暇はなくなっていた。




 日が暮れる前にエフィルナン家の別邸に着いた。王都との連絡を密に取れるように、宿場には別邸があるか、御用達の宿が決められている。

 彼女の手を取って馬車から降ろし、屋敷へと導く。

 乗り慣れない馬車に長時間乗ったからだろう、肩が凝り、腰が重たかった。彼女を見ると静々と歩いているが、俺と同じでないわけがない。こんな状態で屋敷に入ってソファに座るのはごめんだった。ふと思いつき、出迎えに出ている別邸の使用人たちに手を振り、大声で伝えた。


「出迎えご苦労! 少し散歩してくるよ!」


 そしてそのまま玄関前を通り過ぎ、屋敷に添って歩いていく。滞在するためではなく一晩休むだけのものだから、ちょっと大きな農家と大きさ的には変わらない。優雅な庭もなく、ただ、馬小屋と馬車や荷車を収納しておくことができる大きな倉庫があるだけだ。

 それとは反対の方向に回り込むと、井戸や洗い場やハーブの植えられた裏庭に出る。それも突っ切っていくと、まばらな林があり、草原やら小さな丘やらがうねうねと広がっていた。町からは少し離れているから、喧騒も聞こえない。暮れていく空に巣に帰る小鳥が集団で羽ばたいていった。

 空を見上げたのなど、どのくらいぶりだろう。彼女の手を握ったまま足を止めて、ゆっくりと流れていく雲を眺めた。無心に、美しく空が色を変えていく様を見ていた。

 繋いだ手が揺れ、彼女が震えたのだと気付いた。それで我に返る。手を放し、上着を脱いで彼女の背に掛けようとすると、断られた。


「私は大丈夫です。貴方は大切な身です。体を冷してはなりません」

「シリン、従兄弟として忠告するよ。男のやせ我慢には気付かない振りをして、喜んで受け取るんだよ。そうすれば、男は単純だから、もっと君に夢中になる」

「そんな相手はいませんもの」


 そう言う彼女に再度上着を示してみせると、彼女は目を伏せ、おとなしく受け入れてくれた。小柄な彼女に俺の上着はかなり大きく、たっぷりと膝まで覆い隠す。なんだか彼女が幼く見えた。


「大丈夫だよ。君は魅力的だ。世の男どもはまだ君がいるのを知らないだけだ。その証拠に、知っていたら平穏な顔なんてしていられないさ。君の気を惹きたくて、やきもきするはずだ」

「お気持ちは嬉しいのですが、でも、少しも信憑性がありません」

「え、どうして?」


 彼女はゆるゆると横に頭を振った。


「貴方が私に夢中ではないからです」


 思考が止まった。胸が痛くなった。夢中になって困るのは貴女でしょうに、知らずに真っ直ぐに人の心を傷つける。

 それでも、おどけて笑って見せた。それは殿下の傍に居て身に着いた習い性だった。大抵のことは笑い飛ばせば、対応する気力が湧いてくる。


「何を言ってるの。俺はいつでも君に夢中だよ。どうしてわからないかなあ、従姉妹殿は」


 彼女が顔を上げ、真っ直ぐに俺を見た。


「それは、私があなたに夢中だからですわ」


 それは俺が初めて聞いた、彼女の痛烈な皮肉だった。




 どうやら俺は、彼女を激怒させたらしい。それから後の二日は必要事項以外口を利かなかった。なんともいえない話しかけにくい雰囲気があって、さすがの俺でも話しかけられなかったのだ。

 まあ、今さらである。むしろ今まで彼女が良く我慢してくれたものだとすら思う。俺は関係を改善することを諦めて、受け入れることにした。

 領主館に着くと、父と挨拶を交わすのもそこそこに母の許へと案内された。実は一年ほど前から体が弱り、寝たきりになっていたのだと告げられた。


「おまえに教えても、心を痛めるだけだろうと思ってな。すまなかった」


 父は実直な人だ。堅実な策を採る人でもある。情に厚くもある。それを先代、つまり俺の祖父に見出されて母と結婚した。派手な人ではない。野心もない。でも、この人の息子と生まれられたことは、俺にとって誇りだ。


 俺はシリンの手を取って父の後に続き母の部屋に入った。俺は母の前では『ディエンナ』の婚約者を装うことが多い。そうでなければ、領主夫人である母に近付くことはできなかった。

 ベッドの脇で父が穏やかに呼びかけると、母は目を覚ました。俺たちの姿を認め、優しく笑う。


「ああ、ディエンナ、よく顔を見せて」


 シリンをエスコートして進み、ベッドに近付いたところで、俺は邪魔をしないように脇に控えた。その俺の目の前に、細い腕がさし出される。


「お帰りなさい、ディエンナ」


 俺は控え目に視線を上げた。母はたしかに俺を見ていた。目が合うと、嬉しそうに微笑んだ。


「ディエンナ?」


 俺には返事ができなかった。母は時に正気に見えることがある。が、それは大抵狡猾に俺を試しているのだ。俺が本物のディエンナかどうか。幼い日に、はい、と答えて蝋燭立てで殴られた時の痛みが甦る。

 傷は今も頭に残る。掻き分けるとそこが禿げている。でも、そんなのはどうでもよかった。この肉体は一時与えられたものに過ぎない。いずれは土に返るものだ。それに痛みは傷が治れば治まる。本当に痛かったのは、心だった。


 俺は母を慕っている。

 子を亡くした女の痛みは、繰り返す生の中で俺も味わったものだったし、忘れることも慣れることもできず、心を狂わせるほど子を愛する彼女は、本当に愛情深い人なのだろう。だけど、彼女を慕うのはそんな理由ではなかった。それはただ、俺が彼女の子供だからだった。

 不思議だが、何度生まれても、何度酷い目に遭っても、それでも生まれれば親を愛さずにはいられない。人はそういうふうにできているらしい。それが自分にとっていい親か悪い親かなど関係ない。ただひたすらに愛してしまうのだ。

 たとえ成長するにしたがって憎もうが嫌おうが、その根底には本能的に刷り込まれた愛情がある。だからこそ憎しみも嫌悪も生まれるのだ。そうでなければ無関心になれるだろうに。その方がずっと楽であろうに。


 俺には父がつけてくれた名があった。でも、俺は口が利けるようになると、ディエンナがいいと言ったのだった。そう呼ばれたいのだと。

 母が愛しさと優しさを込めて呼ぶ名が好きだった。本当に幼い頃のひととき、俺はディエンナと呼ばれながら、母に深く愛されていた。それが変わってしまっても、俺がディエンナであるかぎり、それを受け取る資格があるように感じていた。憎しみでも拒絶でも良かった。俺の存在が母を傷つけるとわかっていても、母と繋がっていたかった。


「ディエンナ?」


 母の表情が翳った。俺が答えても答えなくても彼女を傷つけるなら、これ以上躊躇う理由はなかった。


「はい、お母様」


 彼女は微笑んで、もっとと俺へと手を振った。それへ手を伸ばすと、力なく指を握った。冷たく細く生気のない手だった。

 ああ、この人は近い内に死ぬのだと知った。数限りなく見てきた死の影がそこに確かに見えていた。

 母は小声で子守唄を歌いだした。赤ん坊の頃、たしかにこんな風に俺の指を握って、彼女は歌ってくれたのだった。


   小鳥は羽根を休め、花も眠る。

   星々はさんざめき、月は夜空へ漕ぎ出す。

   おやすみ、私のかわいい子。

   明日も愛しいあなたのために、お日様は昇る。


 歌い終わる頃、彼女は疲れきって、眠りへと滑り込んでいった。ベッドの上へと彼女の手が落ちる。その手を思わず追って屈んだ時、雫がぽたぽたと落ちて、俺は自分が泣いているのに気付いた。

 彼女の愛情が優しくて痛くてしかたなかった。




 そうして母はとろとろと眠り、時々目を覚ましては微笑んで、二日後に女神の御許へ旅立った。

 もう、地上にも、そして冥界にも、母はいない。女神の腕に抱かれて、辛かった今生の痛みも、きっと癒されたことだろう。未来永劫母に会えないのは、酷く淋しく悲しく辛く、胸が苦しくて痛かった。

 けれど、世界があるかぎり、母だった魂は幾度でもこの世に生まれてくる。

 だから、より良き明日を招きよせたいと思わずにはいられない。死んでは生まれくる、愛した彼らとの未来のために。俺の出来る限りの力で。

 彼らとまたいつか、幸せな出会いができるように。




 その夜、俺は庭にシリンを呼んだ。今後のことを話し合わなければならなかった。休暇の半分が終わってしまっていた。俺には殿下の下でやらなければならないことがある。領地には長くてもあと三日しかいられなかった。


「俺は次期の座を返上しようと思う。貴女にこの領地を継いでもらいたい」


 単刀直入に言った。彼女相手にまどろっこしい策を弄する気はなかった。愚直でも誠心誠意を尽くしたかった。

 シリンは暫く黙っていたが、やがてぽつりと言った。


「一つだけ教えていただけますか。嘘偽りなく答えていただけるなら、お引き受けいたします」

「俺に答えられることなら、必ず本当のことを答えよう」

「では」


 そう言ったきり、また黙り込み、自らを鼓舞するように両手を胸元に当て大きく息をすると、彼女にしては早口で、一息に言葉を吐き出した。


「アティス様を愛しておられるのですね?」

「はい?」


 妙な具合に声が裏返った。なんだ、今のは。空耳か。聞き間違えか。どんな言葉ならそんな聞き間違えになるのだろう。俺は本気で考え込んだが見当もつかなかった。


「すみませんが、もう一度言ってもらえますか?」

「で、ですから、アティス様を、あ、愛しておられるのかと」

「はぁ?」


 全身総毛立った。あまりの気持ち悪さに、俺は足踏みをして両手で自分の腕をさすった。


「んなわけありますかっ」


 思わず怒鳴っていた。そそけ立つ頭を掻き毟った。


「うわっ、気持ち悪いっ。ぎゃーっ、気持ち悪いっ」


 握り拳を振って、嫌な妄想を追い払う。


「シリンッ、どっからそんな質問を捻り出してきたんだっ!?」


 シリンはぽかんと口を開けていた。俺の問い掛けに我に返って、珍しくあたふたと答えだす。


「え、あの、だって、お迎えにいらしたキーツ様が」

「お迎え? お迎えって、いつの?」

「六年前の陸橋にご出陣なさった時の」

「ああ、あいつだったけ?」


 忘れもしない、俺が彼女にプロポーズした日だった。そういえばあいつが呼びに来た。


「それで、奴が何を言ったの?」

「ディーは殿下が大好きだからなあ、と。あ、愛しちゃってるもんねえ、と」


 その節回しは、たしかに奴そっくりだった。その瞬間、頭の中で何かが切れて、自分が逆上するのがわかった。


「それを本気にしたわけ? あの軽口大王の戯言を、プロポーズした婚約者の言葉よりも!?」

「だ、だって、ご帰還なさっても、こちらに連絡はなかったですし」

「戦後処理で飛び回ってたんだよ」

「そ、その後もなしのつぶてで」

「暗殺事件が立て続けにあったんだよ」


 全部、守秘義務のおかげで何も伝えられなかったけれど。


「アティス様にかかりきりで」

「あ。ああ、そうだねえ」


 俺はその指摘に同じテンションで急に地面にめり込んだ。たしかに、婚約者を放り出して、というか、正確には母と脈のない思い人から逃げていたわけだが、それから逃避するように、あの横暴上司に命をかけていた。それは否定できない。まったく、俺は何をしていたのやら。情けない。

 それでも、ずっと胸に秘めていた不満をこぼす。


「シリンも、首飾り、してなかったよね」


 色々な片がついて、殿下がまたぞろ演習癖を再開した時に、こっち方面を進言して、途中で軍を抜け出して彼女に会いにきたことがあったのだ。だけど、彼女は求婚の証の首飾りをしていなかった。

 他では何を証とするのか知らないが、エフィルナン家では首に掛けるものにする。指を切り落とせば指輪は返せるが、首は一度掛ければ切る訳にはいかないからだ。求婚を受け入れてそれを掛けてくれたならば、どうか生涯寄り添ってほしいという、一種の験担ぎなのだった。


「貴方の迷惑になると思って」


 いかにもそうだろう。彼女ならそう答えるだろうと思ったとおりの答えが返った。


「それに、他の男を探せって、言ったじゃないですか」


 言った。格好よく身を引いたつもりだった。その上、シリンに興味がないのだと示すために、犬でも猫でも花でも蜥蜴でも男でも賛美して口説いた。女だけは賛美にとどめ、不釣合いな俺はあなたの幸せを陰ながら祈っていますとごまかした。賛美自体は本気だったが、そうやって馬鹿な男を演じていた。彼女のためと言い訳しながら。今にして思えば、いったいどこが彼女のためだったのか。ああ、認めよう。俺はただのヘタレだった。それでも、弁解だけはする。俺の真実を彼女に知って欲しいから。


「貴女の迷惑になると思ったんだ」


 沈黙が落ちた。馬鹿馬鹿しさと腹立ちと切なさと、それらを全部吹き飛ばす期待に、すぐには言葉が出てこなかった。


「あー。えーと」


 とりあえず、彼女の前で跪いてみた。手も取ってみる。彼女は逃げない。それどころか、俺の言葉を待っているようだった。


「結婚してください、シリン」


 六年前と同じプロポーズをする。彼女の手にわずかに力が入った。この前はここで邪魔が入ったのだった。


「喜んで」


 かすれた声だったが、はっきりと聞こえた。体を突き抜けていく歓喜に、思わず立ち上がって彼女を抱き締める。

 恋は何度もした。男にも、女にも。一度の生に何人ものこともあったし、一人だったこともあった。それでも恋に慣れるということはなく、いつでも初めてと同じく惑わされ、心囚われる。

 出会う愛しい人は、どの人も唯一無二の人だから。俺が前世の俺とは違うように、今生でしか会えない、(ただ)一人の人だから。

 シリンも、この世界がもたらしてくれた奇跡だ。

 この、美しさと驚きに満ち溢れた世界が。


「愛してる、シリン」


 彼女の頬に涙が光った。


「それが聞きたかったの」


 涙に震えた拗ねた声だった。


「じゃあ、毎晩伝えるよ」

「それは駄目」

「え、どうして?」

「挨拶と同じになってしまうのは嫌」


 愛情を示すのは合理的ではいけないらしい。たしかに、それでは味気ない。


「じゃあ、キスしたくなった時は?」


 彼女は小首を傾げて考え込んだ。


「ええ、それならいいわ」

「では、シリン、愛してるよ」

「ディー」


 彼女は何事か言おうとしたけれど、かまわずにそっと唇を重ねて、軽くついばんでから離れた。


「後ろの茂みに殿下の付けてくれた優秀な護衛がいるからね、今はこれで我慢」

「私もそれを言おうと思ったんです」


 彼女は俺の胸元に頬を寄せ、苦笑気味に呟いた。

 俺は彼女を抱き締めて、この世に生み出してくれた父と母と、そして世界に、深い感謝を捧げた。

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