閑話 思いのままに(アッシュ編)
黒いコートと女性用乗馬服姿で、背に流した黒い髪をなびかせながら馬を駆る様子は、たしかに見覚えのあるものだった。
馬は新御領主の愛馬だったし、その後ろをついてくるのは御領主の護衛をしているはずの兄、イアルだった。六つも離れているおかげで、あまり一緒に何かをしたことはないが、腐っても兄である。アッシュが見間違えるはずがなかった。
「ただいま!」
そう叫んで飛び降りて、エイダ小母さんに駆け寄る女性の姿に、アッシュは息を呑んだ。艶やかで華やかで瑞々しくてほんのりとした色気のある極上の美人だった。見ているだけで、どきどきと心拍数が上がってくる。ほっそりとした長い手足と、ふんわりとした胸と腰がコートの上からでもわかる。それはどこからどう見ても、やはり女性だった。
目から入ってくる情報と、頭の中の記憶が重ならず、思わず呟く。
「詰め物?」
「それをご本人の前で口にしたら、おまえを崖から突き落とす」
斜め前にいる父が、低く冷たく囁いた。
「言いません。誓います」
自分だって同じようなことを考えていたから瞬時にアッシュの呟きを理解したのだろう父が、肉親の情にほだされて実行できなかったとしても、領内の女たちによって確実に実行されるに決まっている。アッシュはそんな愚かな死に方をしたくなかった。
だけど、それにしたって、おかしい。五ヶ月くらい前まで、ソラン様はたしかに男にしか見えなかった。闘技訓練では並み居る領内の男たちを叩きのめしていたし、だいたい、祭りと言えば、ダンスのためにソラン様の前に女性たちの長蛇の列ができたのだ。領内の女性を総浚いして独り占め、それがソラン様だった。猪を木の棒で一撃で殴り殺し、ナイフ一本で豪快にさばき、火で炙った肉汁したたるそれを大口開けて食いちぎっては、うまいと言って笑う。
ソラン様はあくまでも誰よりも男前な次期様であって、アッシュは胸の膨らみはおろか、腰のくびれも見たことなどなかった。それが急にできるなど、おかしいことこの上なかった。
それに、仕草がなんとなく違う。普通に普通の女性のようだった。大地を踏みしめ、堂々と立ちはだかっていた面影はない。なんていうのか、楚々としている。
「影武者?」
そんな話を聞いたことはなかったが、もしかしたら用意されていたのかもしれない。
「墓穴を掘るのはやめなさい」
再度父から戒めを受けた。
そんな風に戸惑っているうちに、騎馬の一団がやってきて、そのうちの一人がソラン様の傍らまで歩み寄ってきた。恐らくソラン様と婚約なさったという王太子だろう。父が彼を憚って跪くのを真似して、アッシュたちも跪いた。
兄と同じくらい背の高い偉丈夫だった。顔は整ってはいたが厳しく、それ以上に存在自体が非常に威圧的だった。他を圧する威厳が空気の色さえ変えるようだった。アッシュは自然と自分の背筋が伸びるのを感じた。
これが我が国の王太子か、と感じ入った。目を伏せるのも忘れて見惚れ、素直に、すごい、と、ただそれだけを思った。
その王太子が、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。あっと目を奪われ、どきりとする。なぜか、ソラン様の女装を見たときより胸が高鳴ってしかたなくなった。
王太子はソラン様の背に手をやり、笑みを深めた。ソラン様ははにかんで微笑み、自然に寄り添った。
はにかむ? アッシュは自分の感想に自分でつっこんだ。嘘だ。あのソラン様がはにかむなんて、有り得ない。そんな繊細さが、ソラン様にあったなんて。
ソラン様が紹介を始めた。初めは父。次にエイダ小母さん。王太子は膝をついて小母さんの手をとり、若くして死んだ息子さんのことで親しく声をかけていた。
王族だの王太子だのといえば、もっと偉そうにしている遠い人たちだと思っていたのに、ちゃんと血の通った温かい人なんだと思った。ますます興味がわいて、自分も! 自分も! 早く紹介して! と期待していたのに、父とエイダ小母さんを紹介しただけで、弔いの崖へと行ってしまった。
ソラン様の護衛として従って行く前に視線が合った兄が、バカだな、という目で溜息をついたのを見て、相変わらずの目の上のたんこぶぶりに、アッシュは首を掻き切る仕草をしてみせてやったのだった。
父たちは歓迎の準備のために領主館に戻ったが、アッシュたちは神殿に入った。そこには多くの人々がひしめいていた。足腰の悪い年寄りから、首の据わらない赤ん坊を抱えた母親までいる。領地にいる領民全員が揃っていた。呼ばれてもいないのに、ソラン様が婚約者を連れて帰ってくると聞いて、勝手に集まったのだ。アッシュたちは彼らに取り囲まれた。
「あの女性は本当にソラン様か?」
「仲良さそうにしてたのが王太子か?」
「どうなんだ」
「どうなってるんだ」
わあわあよってたかって言われて、あーっ、もうっ、とそれを振り払う。一瞬静まり返ったのをついて、一緒に出迎えに行ったのが、口々に感想を披露した。
「すごい美人だったけど、ソラン様だったような気がする。少なくとも馬はソラン様のだった」
「胸があったけど、たぶん、あの手綱さばきはソラン様だと思う」
「女みたいに寄り添っていたけど、声はソラン様だった」
そこでアッシュも続けた。
「王太子様はすごかった」
「ああ、そうそう。ソラン様が普通サイズの女性に見えた」
「あのソラン様が気のいいおとなしい馬みたいに懐いていたよな」
「平気でソラン様を女性扱いしていた」
どれも当たっているが、圧倒的に表現が足りなくて、アッシュは苛々と足踏みしつつ叫んだ。
「とにかく、すごかったんだよ!」
すると、皆に笑われた。
「そうかそうか。すごかったか」
「そりゃあ、楽しみだなあ」
親父どもに背中を叩かれ、いいようにあしらわれてしまう。
ああ、違う、違うんだ、とじたばたしていると。
「あっ、抱き締めてる」
祭壇の方から驚きの声があがった。一斉にそちらを見るが、前に人がいるので、窓の向こうが見えない。
「どうしたって!?」
入り口側にいた一人が大声で尋ねる。
「王太子がソラン様を引寄せた!」
「ソラン様はおとなしく抱かれてる!」
「ずっとそのまんまだ!」
「長いな!」
「あっ、なんかしたかもしれない!」
「なんかって、なんだ?!」
「チューだ、チュー!」
野太い親父の声でそんなことを言うので、どっと笑いが起きる。ほのぼのとした雰囲気があたりに広がった。
一部を除いて。
アッシュは、突然肩を叩かれ、体を割り込ませるようにしてやってきた同年代の女の子たちに詰問された。
「マリー姉さんは? 見当たらなかったけど?」
「ああ、いなかったな」
「じゃあ、遠ざけられているのかしら。あのマリー姉さんがついていて、ソラン様が男とどうこうなんて、考えられないじゃない!」
「ええっ? じゃあ、ソラン様、騙されているってこと?」
「あのマリーを退けるんだから、結構やり手よね」
「要注意だわ。よく見極めて、駄目なら早目に手を打たないと」
「最悪抹殺しないと」
「わたしたちのソランを取り戻さないと」
「そうよね。臭くて汚くてデリカシーのない大飯食らいの男になんて渡せないわよね」
なんだか怖い話になっている。アッシュは慌てた。
「いや、すごい人だから。なんか、すごい人だったから!」
「あんた、少しは勉強しなさいよ。表現力がソラン様並みよ」
ばっさりと退けられた。ちょっとショックを受ける。ソラン様に何かを習おうと思っても、ガッとやって、とか、そこでえいってやるんだ、とか、要領を得ない説明しかしてもらえない。
「えー? 俺、あんなに酷くないし……」
その力ない反論は、彼女たちに黙殺された。
神殿の前を馬で行く一行に、領民たちは神殿の中から手を振った。曇りも歪みもない大きい水晶製の窓は、まるでないかのように透明で、多少建物の中が暗くても、外からの光で手を振っているのくらいは見分けがつく。
それを見たソラン様は、ぎょっとした表情になった。それを目ざとく見つけた王太子様が気軽に手を振り返してくる。そのまま自ら先に立って扉の方へとやってきた。扉近くにいた者が開け放ち、ようこそいらっしゃいました、と大声で挨拶して招き入れた。
明るい日の光を背負ってゆっくりと入ってくる姿は優雅でありながら力に満ちていて、無性に格好よかった。王太子様の歩みに合わせて、自然と皆が膝をつく。アッシュもそうしながらも興奮して、たまらず指笛を吹いた。とたんに近くにいた小父さんに、失礼だろ! と、ゴツンと一発殴られた。
王太子様がこちらに顔を向けられた。すると光が横顔に当たって、表情が良く見えるようになった。怒っている様子はなかった。どちらかというと、面白がっているようだった。
「さっきいた者だな。名は?」
「アッシュ・ランバートです!」
「イアルの親族か」
「弟です!」
「覚えておこう」
「ありがとうございます!」
歓喜に小躍りして、隣にいた仲間の首に片腕を回して、がたがたと揺さぶった。じっとしていられなかったのだ。
それから王太子様は後ろを振り返って、ソラン、と御領主を呼んだ。紹介してくれんのか、とからかうように言う。扉の外で躊躇していたソラン様は、唇を引き結んで、がっがっがっがっと足音荒く入ってくると、王太子様の横に並んだ。王太子様はこの上なく楽しそうにし、それをちらりと見上げたソラン様は、それまでの勢いはどこにいったのか、頼りなげな顔をされた。薄ぼんやりと暗いからよくわからないけれど、もしかしたら、真っ赤になっているのかもしれなかった。見ているこっちまで恥ずかしくなるような恥じ入りようだった。その姿は、信じられないことに、普通の女の子そのものだった。ソラン様は胸元で両手をぎりぎりと握り合わせて、息を吸い込んだ。
「こちらはアティス王太子殿下でいらっしゃいます。わ、私は、この方と、婚約、しました」
ぎくしゃくと言葉を紡ぐ。数拍、迷うような時間があって、ますます居たたまれないという顔をしながら、
「春の大祭に結婚します」
ソラン様が言い切った瞬間、しん、と静寂が落ちた。それから、わっと歓声があがった。おめでとうございます、の声が飛び交う。
王太子様は微笑んで、固まっているソラン様の腰に手をやってさりげなく抱き寄せ、こめかみにキスをした。それを見て、さらに歓声が大きくなった。今度は指笛を吹いても誰も怒らなかった。それどころか、床まで踏み鳴らして祝福を示した。
神殿内は、大騒ぎになったのだった。
それから、お二人を祭壇の前まで皆で押し出して、冥界に続く穴を案内した。皆、ソラン様の歌が聞きたかったのだ。初めは戸惑っていたソラン様も、床にある入り口が開けられると神官の顔になり、いつものように見事な歌を歌ってくれた。
ソラン様の歌を聞くと、喜びで心も体もいっぱいになって、生まれ変わったような気がする。女神や家族や仲間に、感謝してもしきれないような気持ちになる。ありがとう、て、叫んでまわりたい気持ちに。
歌の余韻が鎮まると、ソラン様は、ジェナシスは領地を挙げて王太子様の御世を支えることを宣言した。
それは、どんなに姿が変わっても、確かにソラン様だった。
凛として立つ、ジェナシスの民の導。
アッシュは熱い確かな決意が湧いて体の隅々まで満ちるのを感じた。
ソラン様、俺たちは喜んであなたの盾となり剣となる。世界を救ってくれた失われた神を守るのが、ジェナシスの民の誓い。だけどそんなのは関係ないくらい、俺たちはソラン様のいる今に生まれて一緒に生きられることが嬉しいんだ。その、他の誰でもないソラン様が望んでくれるなら、俺たちはいくらでもあなたの信頼に応える。それが俺たちの喜びであり、誇りだから。
あなたの思い描く未来が、俺たちの生きるべき道。だから、あなたが思いのままに行けるように、俺たちは道を切り拓くよ。命を懸けて。
当たり前のことだから、今更、面と向かっては言わないけれど。
アッシュは祭壇の前に寄り添い立つ二人を見て、失われた神と英雄の君の話を思い出した。彼らは命を賭して世界を救った。でも、この方たちは、きっとあの神話以上の未来に導いてくれるに違いない。そして俺たちも一緒に神話になるんだ。
アッシュはわくわくしてうずうずして嬉しくて楽しみでしかたなくなった。胸の中で歓喜が渦を巻いてたまらなかった。そこで、お二人が神殿を出た後、仲間たちと一緒に野原に飛び出して、馬鹿騒ぎをした。そうして親父たちにどやされるまで、騒ぎまくったのだった。
夜、アッシュは領主館に居残って、兄の仕事が引けるのを待った。父からマリー義姉さんのことを聞いたからだった。
それで王太子様がマリー義姉さんをソラン様から遠ざけたんじゃないことがわかって、無実の罪が晴れた。むしろ、一番傍に置いてくれているらしい。さすが王太子様はソラン様が一番喜ぶことをわかっていると評判になった。怖い相談をしていた女どもも、それで黙らざるを得なかったようで、アッシュは胸をとりあえず撫で下ろしたのだった。
階下に下りてきた兄はアッシュを見つけると、なんだ、いたのか、と、そっけなく言った。それにちょっとむっとしたけれど、アッシュは他の護衛の人たちに挨拶するのに忙しくて、怒りは持続しなかった。護衛さんたちはにこやかに軽く頷いて、応接室の方へ行った。それを見送ってから、残った兄の方へと向き直った。
「マリー義姉さん、子供ができたんだって? おめでとう」
「ああ。ありがとう」
「いつ頃生まれるの?」
「夏の終わり頃だ」
「へえ。そっか」
それ以上会話が続かなかった。あんまり一緒にいたことがないから、共通の話題がないのだ。というか、実を言うと、ものすごく不思議だった。
「それ、本当に兄さんの子?」
「どういう意味だ」
兄の顔色が変わった。怒気が吹き出ている。アッシュは焦った。
「違う! そうじゃなくて、だって、あのマリー義姉さんだよ、ソラン様の子供だって言われた方が、納得するじゃん、そうだろ!?」
「ソラン様は女だ」
「ああ、うん、そうだったみたいだけど。五ヶ月前まで男だったような」
「バカか、おまえは。性別が変わる人間がいるか」
「そうなんだけど! だって、急に胸とか腰のくびれとかできてるし」
兄は、深い溜息をついた。このバカ、手のつけようがない、と顔に黒々と書いてあった。いつもならはらわたが煮えくり返るくらい腹が立つところだったけど、アッシュは辺りを見回すのに必死で、それどころではなかった。今のは失言だった。女どもに聞かれていたら、抹殺されるに違いない。ジェナシスの女はそれだけの技量を持っている。冗談ではすまなかった。
「近くに気配はない。目に頼るんじゃない」
兄が説教をたれる。
「わかっているよ、そんなの」
兄はまた溜息をついた。
「あのな、アッシュ、頼むからもう少ししっかりしてくれ。ソラン様は話さなかったけど、状況は逼迫しているんだ。おまえたちの手がいる。だけどそれでおまえたちの一人でも失ったら、ソラン様がどれほど嘆くかわかっているだろう。これ以上心労を増やすような真似はするな」
「だから、わかってるよ、そんなの! あんただって、ソラン様を心配させたくせに!」
言ってから後悔した。卑怯なことを言ったと思った。兄はソラン様をかばって、瀕死の重傷を負ったのだ。きっとそれを不甲斐無いと一番思っているのは兄にちがいない。だけど兄は冷静にきりかえしてきた。
「そうだ。だからおまえは絶対するな」
アッシュはやましい思いを抱えて、ふてくされて頷いた。
「それから、もう今夜は誰も二階には上がるなよ」
「え? う、うん」
突然関係ないことを言われて、戸惑う。
「えっと。どうして?」
「ガキの耳には毒な声が聞こえるといけないから」
「ええっと、それって、どういう?」
兄は、今日会ってから初めて笑った。
「ソラン様の胸と腰に今頃気付くようじゃあ、おまえの春もまだまだだな」
さて、寝るか、と背を向けられる。悔しいけれどすっかり大人な兄の背に向かって、苛立ちをぶつける。
「だから、どーゆー意味だよ!」
兄はちょっと振り向いて、また笑った。
「やっぱり、親族でおまえが一番ソラン様に似ているな」
「えっ、ほんと?」
「言っとくけど、褒めてないから」
とっさに喜んだのに、すぐに突き落とされる。
ソラン様に似ていて、褒めていない? ええ?
「だから、どーゆー意味だってーっ!?」
アッシュは兄の背に突進していって飛びついた。兄は笑い声をあげて、アッシュを受け止めてくれた。




