閑話 思いのままに
どこがどう目印なのかわからぬほどの深い森を抜け、馬の手綱を牽かなければ登れぬような斜面を登り、獣道とも言えない道なき道を辿って、突然開けた視界は圧巻だった。
新芽の柔らかな緑に包まれた大地が豊かにうねり、林や森、家々や牧場が点在しているのが見えた。そしてその向こう、眼前いっぱいに、雪を頂いたハレイ山脈がそそりたっていた。
アティスはその峻厳な様に言葉を失って立ち尽くした。ひどく自分がちっぽけなものに感じられた。
「殿下?」
「違う」
声をかけられて、はっと我に返る。というより、その呼び名にむっとしたのだ。自分を『殿下』などと他人行儀に呼んだソランは、誤魔化すように目を逸らして家々を指差した。
「あれが領主館です。もうすぐですよ」
「ちょっとこっちへ来い」
ソランは渋々といった様子でやってきた。先に馬を降りて待つと、しかたなさそうに彼女も降りて目の前に立つ。
「わかっています。すみません。間違えました。アティス様」
上目遣いで先手を打って謝ってくる。その仕草は男心をくすぐるのに充分だったが、どこか、面倒だ、という思惑が透けて見えていた。たかが呼び方一つで、と思っているのがよくわかる。
普通、恋人なら特別に許された呼び名を喜ぶものではないのか。どうもソランはその辺の情緒が欠落している。時々、騎士見習いに入ったばかりの子供を相手にしているような気になる時がある。いや、あいつらの方が、よっぽど色気づいているだろう。女性が傍にいれば、張り切ってみせたりするくらいの可愛げがあるのだから。
アティスは溜息をこぼした。
このままでは、ディーの言うとおり、生涯の呼び名は『殿下』から『陛下』に変わるだけになってしまうだろう。
『そうでなければ、いいところ、お父様、とか、お祖父様、でしょうかねえ』
いい気味そうに言っていたのを思い出し、よけいに腹が立った。
たかが呼び名だ。相手が誰だかわかればいい。それは承知していたが、されど呼び名なのだった。ソランが『アティス』と口にのせる度、どこか面映そうにするのが、たまらなくイイ感じなのだった。
そこで、一計を案じてみる。
「どうしてそう、他人行儀なのだ。私はそれほどおまえにとって気を許せない人間か?」
「違います!」
どうしてそんなことを言うのだ、とばかりに悲しそうな顔をする。それを見て、瞬時に後悔した。怒らせるつもりだったのだ。少し前のソランなら、そんな言い方は卑怯です、とでも言って、眦を吊り上げただろうに。
「すまない」
手を伸ばして、うなだれているソランの頭を撫ぜる。
「まだ、言い馴れなくて。それで」
「うん。わかってる。私が言い過ぎた」
まったく、どうしてこれほど可愛いのだろうか。思わず抱き寄せようとしたら、なぜか、胸に手をついて突っぱねられた。恥らってうろたえた顔をしている。
「ソラン?」
「だめ。駄目です。気配は読めませんけど、絶対に誰かがどこかで見張っているはずなんです」
「それが?」
見張っているとは、領地の境の見張りのことだろうか。ソランでさえ気配が読めないとは、さすがジェナシスの領民である。凄腕だと感心した。
「それが、じゃないです! お願いですから、人前で抱き締めたり、く、口付けたりは絶対に控えてください」
「いやだ」
出発前にもぐずぐず言っていたが、まったく意味がわからない。
「常識的に考えてください、恥ずかしいでしょう!」
「なぜ? わたしたちが愛し合っているのは、恥ずかしいことか?」
ソランは真っ赤になって絶句し、涙目になった。あまりの可愛らしさに、さっきの続きで抱き寄せようとするのに、今にも泣きそうにして必死になって突っぱねている。
「ソラン。私は寸暇も惜しい。一瞬でも多くおまえと甘い時を分かちあいたいのだ。おまえは違うのか?」
「お願いです。時と場所を選んでください」
「選んでいる暇はない」
ソランの領地に婚約の報告に行くと決まって以来、こんな会話を何度繰り返しただろう。堂々巡りで、少しも歩み寄れないのはなぜか。時々、ソランとはそういうことがある。どうにも話が通じないのだ。それはべつに不快ではなかった。ものすごく、不思議だ、という気分にはなるが。
「どうやらお迎えが来るようですよ」
ディーの報告を聞いたとたん、ソランは鮮やかにアティスの手を振りきり、飛び退っていた。惚れ惚れとする身のこなしだった。
「とにかく! ここは、私の領地です! ア、アティス、様、は、自重願います!」
そのソランの様子に、これ以上の深追いは獲物を逃すだけだろうと感じて、とりあえず頷く。
「わかった。私の常識の範囲内で」
「ないものを約束しても」
ぽろりと呟いたディーを睨みつける。よけいなことを言いおって。それに私は常識的だ。
そうしている間に、ソランは己の目元を拳でぐいっと拭い、逃げるようにして馬に飛び乗って、迎えに出てきた者たちの方へ駆けていってしまった。その後を、イアルが追いかける。アティスはディー以下総勢五人の護衛を引き連れ、ゆっくりとそちらへと向かった。
アティスたちが追いつくと、ソランと抱き合っていた年配の女性は腕をといて下がり、他の者たちと共に跪いた。
ソランは大きな喜びを抑えて、照れたような顔をしていた。ここに帰ってきたのが、よほど嬉しいのだろう。アティスは穏やかに笑んで、ソランの背に手を当ててその脇に立った。領民たちを見まわす。
真ん中にいる俯きがちにしている壮年の男は落ち着いた面持ちだったが、それ以外の若い男四人は目を伏せることもせず、おもにソランに目が釘付けだった。
「えーと。領民を紹介いたします。これが領主代行のギルバート・ランバート」
「もしかして、イアルのか」
「はい、父でございます。お初にお目にかかります。愚息がお世話になっております」
一人だけ落ち着いていた男は、優雅に腰を折ってみせた。どことなく仕草がイアルに似ている。
「いや、あれの働きには満足している」
「ありがたきお言葉にございます。お役にたっているようで安心致しました」
ソランは次に、先ほど抱き合っていた婦人を示して言った。
「彼女はエイダ・グラシテ。婦人会の会長で領主館の家事一切を取り仕切ってくれています」
その名に、どうして彼女を見た時から懐かしく感じるのかわかって、アティスは我知らず彼女に歩み寄った。彼女の顔を良く確かめたくて、膝をついて視線を合わせる。
「エメットのご母堂か」
「はい」
微かに悲しみを湛えた、しかし気丈な微笑を浮かべて彼女は頷いた。それが、幼い頃に失った兄のように慕っていた護衛の面影と重なり、心の奥に押し込めたはずの悲しみが疼いて、彼女に縋りつくようにして、その手を両手でとっていた。
「すまなかった。あなたには、辛い思いをさせた」
頭の隅では、王太子として相応しくないことをしていると、わかっていた。それでも、自分を守って死んでいった彼の母を前にして、平静ではいられなかった。まるで幼い頃へ気持ちが戻ってしまったようだった。心を尽くして、彼への感謝と悼みを伝えたかった。
「いいえ。いいえ。貴方様のお姿を拝見して、我が子ながら息子を誇りに思う気持ちでいっぱいになりました。貴方様の盾となれましたこと、息子も本望であったでございましょう」
エメットが死んだ時、誰もが同じ事を言った。今は『エメット婦人』と名乗る、婚約者であったジェニファーも。 けれどそれは、気休めにしか聞こえなかった。愛する女性がいて、彼女との未来の夢を語っていた彼が、道半ばで逝ったのだ。心を残さなかったわけがない。
それが辛く、恐ろしかった。彼の命を奪ってしまった罪悪感に苛まれた。それがアティスを命懸けで守ってくれた彼への侮辱になると理解しつつ、自分さえいなければと、どれほど考えてきたことか。
アティスには、未来など見えなかった。先にあるものを思えば、己の命など願えなかった。死に場所を探して、死ぬ時を待って。そんな身の上に次々と積み重なっていく命を恐ろしくも、うとましくも、愛しくも思いながら、そんな生き方しかできない自分を厭うていた。
ずっと。ソランに出会うまで。
ああ、けれど。今は彼女の言葉が心に沁みる。
エメットが盾になるに足る人間に、アティスがなれていると彼女が言ってくれるのなら、誰がそう言ってくれるよりも信じられる。きっと、自分がそうであることこそが、彼への最高の手向けになる。アティスにとってそれは、何よりも誇らしく、嬉しいことだった。
「ありがとう、グラシテ夫人」
アティスは心からの感謝を込めて、彼女に囁きかけた。
故郷にエメットの遺体が引き取られたことは知っていた。だから、彼の墓に参りたいと言うと、揃って彼らは微妙な顔をした。
「我が領地に個人の墓というものはないのです」
ソランが考えあぐねながら言うのに、先を促すように頷いて見せた。ソランは神殿だろうと思われる建物からハレイ山脈に向かって指を動かしながら指し示した。
「あの向こうに、大地に深い亀裂があって、亡骸はすべてそこから、女神マイラの許へ返すために、投げ入れるのです」
とっさに思ったのは、自分にはソランの遺体を投げ入れるなど、絶対にできないということだった。次に、冥界の女神を奉ずる彼らにとっては、そうすることが死者への最高の弔いになるのだろうということだった。そうでなければ、愛しい人を、たとえ死んでいたとしても、崖に投げ入れるなどできないだろう。
元々たくさんの小国家を統合したのがウィシュタリアの始まりだ。各地に根ざす風習も様々だ。それは、良いとか悪いとか、洗練されているとか野蛮だとか、そういうことでは括れない。アティスにとっては、受け入れがたいものであったとしても。
「そうか。ならば、そこに行きたい」
「わかりました。では、皆は戻りなさい。私がご案内します」
再び騎乗し、丘を下っていく。それはハレイ山脈に向かっているようにも感じられた。ここから見る山々の姿は霊威に溢れ、自然に頭を垂れたくなるのだった。
ソランは急に何もないところで止まって馬を降りた。アティスもそれにならって降りて、彼女が待つ所まで行き、一緒に歩いた。数メートルも行くと、前方の大地が二重になって見えるのに気付いた。少し盛り上がっていてわかりにくかったが、どうやら、こちら側の縁と幾許か離れた場所にもう一つの縁があるらしい。つまり、その間が裂け目だった。
「ここです」
唐突に何の脈絡もなく切れて落ち込んだ狭い大地の切れ目を覗き込んで、ぞっとした。底の見えない断崖絶壁がどこまでも続いていた。たしかに、冥界の女神の許まで行けそうであった。この下に、死者の国があっても驚かなかった。
ふと、捧げる花を持ってこなかったと後悔したが、この季節は、まだ丈の低い地に根ざした花しか咲いてないとも、あたりを見まわ回して気付いた。ただ、日の光を宿したタンポポだけが空洞の茎を精一杯伸ばして上へ上へと咲いていた。
エメットは、もう生まれ変わったのだろうか。それとも、まだ女神の許で傷を癒しているのだろうか。どちらにしても、冥界にも最早彼と呼べる者はいないのだろう。
そうとわかっていても、アティスは膝をついて黄色い花を摘んだ。ソランも意図を悟って共に摘んだ。片手を一杯にしてから裂け目の突端に立ち、生気に溢れたそれを二人で投げ入れた。花は下から吹き上げる風に揺れながら、思ったよりもゆっくりと落ちていった。
それを見送りながら、アティスは自然とソランと手を繋いでいた。
自分はこの愛しい手によって、この大地に繋ぎとめられているのだと、強く感じた。もう、一人で気ままに死ぬことはできない。たくさんのものを背負い、生きていかなければならなくなった。
でもそれは、昔に想像していたよりも、重いものではなかった。むしろ繋ぎとめられたことによって、遥か彼方まで道が開け、そして彼はそこを、思いのままに歩いていくことができるのだった。
「今日の一日が与えられたことに感謝いたします」
ソランが空いた片手を胸に置き、うやうやしく呟いた。
それを聞いて、胸を占める思いが感謝であると知った。誰へとも何にともつかない、強いて言えば、自分を取り巻く世界に、とでも言うしかない思い。
アティスは苦しいほどの思いにソランの手を引いて、その指先に口付けた。そして、そこへ息を吹きかけるようにして同じ祈りを捧げた。
「今日の一日が与えられたことに感謝いたします」
裂け目から風が吹き上がり、深い地の底で風が唸る音が辺りに響き渡った。それは、彼には物言わぬはずの大地があげた祝福の声に聞こえた。
生きなさい。生きなさい。思いのままに、生きなさい。
いずれ、大地に還るその時まで。
「感謝いたします」
アティスはソランの指に唇を触れさせながら、もう一度心から感謝を捧げたのだった。