閑話 マリーの憂鬱3
「マリー、そろそろ代わりましょう。今日はソラン様もなかなか起きていらっしゃらないし、あなたも休まないと」
日はずいぶん高く上がっていた。早起きのソランにしては珍しかったが、戦から帰ってきたのだから当然なのかもしれなかった。今日は午前に急ぎの用事もない。時間の許す限り好きなだけ眠らせておいてあげたかった。
「いいえ、今日はどうしてもソラン様のお世話をしたいの。やっと帰って来てくださったんですもの。嬉しくて、ぜんぜん眠くないのよ」
同僚のトリニティカは、夜番用の小部屋でソファに座るマリーの足元にしゃがんで、下から心配げに顔を覗き込んだ。
「でも、目の下が隈になっているわ。体は疲れているのよ」
「ええ、それでも、もう少しだけ。ソラン様が起きてきてお着替えなされたら、下がることにするわ」
マリーの熱心さにトリニティカは折れて、苦笑した。
「わかったわ。お願いだから、あまり無理はしないでね」
「ありがとう」
素直に頷いたマリーに、朝食を持ってきてあげるわね、と約束して彼女は部屋を出て行った。とたんに出そうになったあくびを噛み殺す。
昨夜は静かなものだった。覚悟していたような声も物音も聞こえなかった。聞こえたら聞こえたで、ものすごい責め苦だったにちがいないが、それでもどうしてもここにいたかったのだ。
きっと昨日はさすがのケダモノ王子も疲れていたのだろう。マリーだって疲れていた。だけどマリーは、カデナまで迎えに行って、その上一晩寝ていないだけだ。彼らはそれ以上のことを長期に渡ってしてきたのだから。
マリーはぼんやりとお腹をさすった。伊達に体は鍛えていない、私だってまだ大丈夫、と自分に言い聞かせるように考えた。
と、急に部屋の外が騒がしくなった。侍女たちがぱたぱたと走る音がして、トリニティカが慌てたように駆け込んできた。
「ソラン様のお部屋を暖めてご衣裳を用意しておくようにと、殿下からご連絡があったの」
マリーは、ざっと血の気が引いた。血相を変えて無言で立ち上がって、ソランの寝室に踏み込んだ。暖炉の火はほとんど消えており、部屋は冷え切っていた。なにより人の気配が少しもなく、がらんとしていた。
やられた、と思った。あの腹黒王子め、隣室に人が控えているのを知っていて、だからソランを自室に連れ込んだのだ。それで、
マリーは激しく頭を振って、考えたくもないのに勝手に頭の中を過ぎっていく想像を、追い払おうとした。激しい怒りが湧いてきて、眩暈がした。ふらりとよろけたマリーの体を、トリニティカが慌てて支えてくれた。
「大丈夫!?」
「大丈夫よ。それより、火を熾さないと。それから、そこの暖炉にお湯も掛けておきましょう。体を拭いたいと思われるかもしれないから」
自分で無意識に言っておいて、後から頭がその内容に追いつき、ショックのあまり吐き気がした。
「拭き布と盥と、あと、ドレスは飾りの少ないゆったりしたものを。今日はゆっくりと過ごされたいでしょうから」
「ええ、わかったわ。ちょっと、マリー、顔が真っ青よ。あなた、もう下がって?」
「いいえ」
マリーの頑なな様子に、トリニティカは怒った声をあげた。
「もう! だったら、ソラン様がいらっしゃったら呼んであげるから、それまで小部屋で横になっていなさい! それだけは譲れないわ!」
集まってきていた他の侍女たちも、口々にマリーを諌めた。マリーは彼女たちを見まわした。誰もが心配してくれ、そして、仕事に対する気概に溢れていた。
そう、マリー一人でソランを支えることはできない。ここにいる彼女たちは、全員がソランを裏から支えることに誇りを持っている、いわばマリーの同志たちだった。
そして、今のマリーは悔しいことに、とてもその仕事に見合う体調ではなかった。倦怠感と吐き気と眩暈で、立っているのがやっとだった。そんな体調の者がソランの傍に侍るのは許されない。全部、自分の体調管理がなっていないせいだった。
マリーはあまりの情けなさに落ち込みながら、無言で頷いたのだった。
いつの間にかうとうとしていたようだ。肩を揺すられて目を覚ました。
「大丈夫? ソラン様がいらしたわ」
マリーは体を起こして一つ息をした。ゆっくりと立ち上がってみる。頭の重さも気分の悪さも大分なくなっていた。
「少し眠ったらすっきりしたわ。ありがとう。行くわ」
心配顔から笑顔になったトリニティカに続いて、ソランの許へと急いだ。
ソランは夜着の上にガウンを着て、手に剣を提げ、暖炉の前に立っていた。
「おはようございます。遅れてすみません」
「いいえ、いいのよ。私こそ遅くなって」
ソランはそこで目を泳がせた。ベッドの方に視線がいったかと思うと、慌てたように手にしている剣へと落とした。
「剣はお預かりします」
マリーは剣を受け取って、ソランを囲む輪から邪魔にならないように少し離れた。着替えを手伝って、あの男の残り香をうっかり見つけたくなかった。
ソランはガウンも夜着も脱いで下着だけとなった。そこで後ろにまわっていた侍女が、静かに声を掛けた。
「お待ちください。月のもののようです。すぐに着替えを持ってまいりますので」
「え? そんなはずないわ」
ソランは意外そうに言って、それから何かに気付いた顔をすると、見る間に真っ赤になった。顔や耳だけでなく、首筋まで。それから顔を両手で覆い、勢い良くしゃがみこんだ。
「一人にして!」
「ソラン様、申し訳ございません、何か粗相を」
「違うの! ただ一人になりたいの。お願い、一人にして」
ほとんど涙声だった。その異常な様子に、誰もがおろおろとする。ソランはいつも毅然として強くて美しくて優しい。感情的になることなど、決してなかった。まして、彼女が人前でこんなに弱弱しい姿をさらすなど考えられなかった。それに、月のものでないなら、その血はいったい誰のものだというのだろう。
ほとんど同時にその場に居合わせた全員が同じ考えに行き着いたのだろう。思わずお互いに顔を見合わせ、己の考えと同じものを他の者の中に見出そうとした。
「まさか」
一人が呟いた。そう。そんなはずはない。キエラに行く前からソランたちは毎日同衾していて、キエラでも同室で寝ていたと聞いた。
でも、そういえば一番初めにソランの寝室から殿下が現れた日に、シーツにそれらしき印はなかった。破瓜で出血しなかったり少量だったりする女性はいる。そういうことなのだろうと納得していたのだが、そうではなかったとしたら。
マリーは目を見開いて、引き攣った息を必死でした。
だって、あの腹黒で傲岸不遜で鬼畜でケダモノな男が、二ヶ月以上も据え膳に手を付けなかったなんて、そんなこと、有り得るわけがない。
ばっかじゃなかろうか、というくらい、ソランにべったべったのあの男が。蕩けそうに笑って抱き締めて人目も憚らずに口付けるあの男が。ソランをただ抱き締めて眠っていただけだというの!?
「嘘でしょう?」
呟いてマリーはよろけた。
だって、だって、だから、私、早く乳母にならなきゃって。そうじゃなかったら、あんなに急いだりしなかった。そしたら、キエラにもソランについて行けて一緒にいられたし、今だってこんなことになったりしていなかったのに。
騙された、と頭を殴られたみたいに強烈に感じた。あの男と、そして、イアルの顔が頭にちらついてしかたなかった。
目の前が真っ暗になってくる。
男なんて! 男なんて!
マリーは悔しくて、悲しくて、憤ろしくて、真っ黒い気炎が胸の中で吹き上がるのを感じた。そしてその暗闇に飲み込まれて、それ以上なにもわからなくなったのだった。
ふうっと意識が浮上して、ぽかりと目を覚ました。
「ああ、よかった、マリー。具合はどうだ?」
イアルがマリーの頭を撫でながら、酷く心配した顔で聞いた。
「どうして」
殿下の館でイアルとマリーに与えられた部屋だった。なんとなく記憶があやふやで、囁くように聞き返すと、イアルはもっと心配したように眉を寄せた。
「ソランの部屋で倒れたんだ」
「ソラン?」
鸚鵡返しに呟くと、さっきあったことが頭の中に閃いた。飛び起きて、ベッドの上で立ちくらみを起こす。額を押さえて俯いて、それでも鋭く言い放った。
「あんたなんか、大っ嫌い! 離婚よ! 出て行って!」
「何を突然」
「嘘つき! 騙したくせに!」
あまりの悔しさに、口惜しいことに涙が滲んでくる。
「何の話だ」
困惑した声に怒りがあおられ、顔を上げて睨みつけた。
「知ってたんでしょう、殿下がソランに手を出していないって」
「ああ。話しただろう? 戦の前だからって」
「聞いてない!」
「君は戦の前に子種を残すのは男の義務だって言った」
はっとする。それは言った記憶があった。そう口にした時、この男の子を欲しいと、なぜか思った。この男の何かをこの世に留めたいと。そうしなければ、後悔すると。
彼は、いつも私が途方に暮れたときに傍にいる。追い払ってもまとわりつく。どんなに逃げてもいつの間にか私を捕まえている。だから、私を一人にしないと思っていたのに。安心できたのに。
「嘘つき」
幸せにするなんて、嘘だ。
この男は駄目だ。いつも私を置いていく。それでいつかきっと、帰って来ない。
そんなのは耐えられなかった。二度も味わえば、充分だった。これ以上あんな思いをするのはごめんだった。
「顔も見たくない。出てってよ」
勝手に湧いて出た涙が、ぼろぼろ零れ落ちた。
「マリー」
頭を抱え込まれる。つっぱねようと思ったのに、懐かしい匂いを吸い込んだとたん、体から力が抜けた。胸の奥が痺れて、熱くなる。
「やだぁ」
マリーはしゃくりあげた。なんでこんなに弱くなってしまうのだ。男なんて、大嫌いなのに。臭いし、暑苦しいし、男だってだけで偉そうで、いつまでもガキっぽくて、スカートめくったり、人の胸をじろじろ見たり、失礼で、デリカシーがなくて、大飯食らいで、自分勝手で、私のことまで守ってなんて頼んでもないのに、夫面して勝手に決めて。
「離婚するぅ」
ぐすぐすと訴える。
「しない」
「あんたなんか大っ嫌いなのよっ」
「どうして?」
「勝手に決めるから」
「なにを?」
少しもうろたえたりしないで冷静に聞き返してくるイアルに、きいっと頭にくる。頭を振って抱え込まれている手を弛めさせて顔を上げようとするのに、もっと強く肩ごと抱きすくめられる。マリーは腹立たしさに、イアルの背に腕をまわして拳を叩き付けた。
「置いていったくせに!」
言った途端、感情が高ぶって、たくさんの涙が出てきた。
「当たり前だ。君を戦には連れて行けない」
キエラに行く前と同じことを同じ口調で言い聞かされる。
「私だってジェナシスの女だものぉ。戦えるものぉ」
もっと強い調子で言いたいのに、涙が邪魔をして、駄々をこねているようにしか言えなかった。
「うん。知ってる。それでも、俺が嫌なんだ」
涙が壊れたみたいに出てくる。マリーは鼻をすすり上げて、言葉にできない何かを拳に込めて、何度もイアルの背を叩いた。
「なあ、俺に言うことはない?」
声はどこまでも優しくて、抱き締める体は逞しくて温かくて、うっかりここは安心な場所なのだと思ってしまいそうになる。いつまであるかわからない場所なのに。
「お腹を触ってばかりいるだろ。それって」
その言葉に、マリーは恐怖を感じて息をひゅっと吸い込んで止めた。だから会いたくなかった。傍に行けば、見抜かれてしまうのではと恐れていた。イアルはいつも良くマリーを見ているから。
力いっぱいイアルから離れようとする。
「マリー」
「いやっ、いやっ、あんたなんか、嫌い、離婚」
「しない! マリー、落ち着いて、危ないから」
「大丈夫だもの。放してよ!」
「マリー、落ち着いてくれ」
「放してっ」
悲鳴のように叫んだ。なのに反対にしっかり抱え込まれて、急に視界が反転した。体が倒れる感覚に身を強張らせる。次の瞬間には背中が柔らかくベッドに受け止められても、速い鼓動に喘いで、呆然と天井を眺めているしかなかった。
怖かった。怖くて堪らなかった。ベッドから落ちたかと思った。不用意に尻餅でもついていたら、そしたら、取り返しがつかないことになっていたかもしれなかった。
イアルはマリーを押し倒して体重を掛けないように羽交い絞めにしていたが、マリーにはもう暴れる気力は残っていなかった。
「マリー。俺たちはこれからも君を置いていく。何度でもそうする。でも、謝らない。それだけは譲れないから。我慢してもらうしかない」
恐怖に止まっていた涙が、それを聞いてまた出てきた。
「ねえ、マリー。それは君を守って傷つけたくないからだけど、君に俺たちが帰る場所を守ってもらいたいからでもあるんだ。この子も、そうだよ」
イアルが顔を上げ、マリーの顔を上から覗き込んだ。
「いるんだろ? ここに」
マリーは震える唇を引き結んで、涙に歪んで揺れるイアルの顔を黙って見つめた。
「黙ってるのは、また置いていかれるのが嫌だから?」
鼻を啜って、しゃくりあげて。
「それは大丈夫だと思う。この状態のマリーをソランから離したら、毎日心配して、きっとマリーの許まで訪ねて行こうとする。だったら、目の届くところに置いておけという話になるはずだ。俺もこれ以上単身赴任みたいなのはご免だし」
瞬きしたら涙が全部零れ落ちて、イアルの穏やかな笑みが見えた。胸の中に、何かがこみ上げる。
「本当?」
「ああ。必ず、そうさせる」
信じていい気がして、いや、信じてしまって、こみ上げた何かに押されるままに、マリーは自分からイアルに抱きついた。イアルはマリーを抱き締め直して、離さないままゆっくりと体を横にして、ベッドに横たわった。
「まだ、誰にも言ってないのか?」
マリーは頷いた。
「俺が一番か」
嬉しそうに笑う。
「じゃあ、後で、一緒にソランや殿下に相談をしに行こう」
そう言って、マリーの頭のてっぺんにキスをした。マリーはイアルの体にまわした腕に力を込めて、すがりついた。
そうしてイアルの体温を確かめる。心が体が満たされていく。それまでの不安が嘘のように消えて、代わりに切なくなった。
「イアル」
「なに?」
名を呼びたくなっただけだった。少し考えて、まだ言ってなかった言葉を続けた。
「おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
マリーは、溜息のような笑い声を漏らした。その言葉が聞けたことが、なんだか無性に嬉しかった。
そして、この人と私は生きていくのだと、素直に思えたのだった。