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暁にもう一度  作者: 伊簑木サイ
閑話集 古語り
113/149

閑話 封印

「まんま、まんま、んまんま、んんっ、まっ」


 ソランは輝く笑顔でリリアの頬をぺちぺちと叩いていた。まんま、はリリアのことだ。もっとも、離乳食もティエンもアーサーもイリスもイアルも馬も犬も、好きなものはなんでも『まんま』だった。

 リリアは微笑を浮かべてソランに視線を定め、小さなふくふくとした手を取って、自分の口に押し当てた。そのまま、まんまと同じ言葉を呟く。ソランは手がくすぐったいのだろう、甲高い悲鳴のような笑い声をあげて、手足をばたつかせた。


 ソランの体は、リリアに寄り添ったティエンが横から支えていた。彼女は普通の母親のようにソランをあやさない。抱き締めることすらしない。そんな当たり前のことが、できないのだ。

 一年以上の長きに渡って何度も女神の神威をその身に降ろした彼女は、精神を神力によって焼かれてしまった。戦が終わる頃には、自由で闊達だったころの面影はなく、ただ息をする人形のように成り果てていた。

 それでもティエンは諦めることなく彼女の世話をし続けた。食べ物を食べさせ、着替えさせ、体を洗ってやり、身篭って腹ばかり大きくなっていく彼女を気遣った。


 イリスは言わなかったが、神官であるティエンにはわかっていたのだろう。リリアが子を産むと同時に、女神の許に召されるのだと。

 リリアはそれを知っていた。それが彼女にくだされた神託だった。女神の神託はどれも無慈悲なものだった。イリスの降ろした神託によって戦が起こされ、多くの罪無き人々が死んだ。だが、娘の寿命を預言した時ほど辛いものはなかった。一族にとって、女神の巫女であることは誇りだ。女神の許に召されるのは祝福でもある。それでも、愛しい者との別れを惜しまずにはいられない。

 リリアは己の運命を誇り、喜びともしていたが、そうであればあるほど、ティエンとの恋を惜しんでいた。残していく恋人に、ただ真っ直ぐに愛を伝えていた。ティエンもまた、決して逃げず、彼女のすべてを受け止めようとしていた。

 だから、奇跡とは、起こるべくして起こるものなのだろう。


 あの日、ソランが生まれた日。ティエンは虫の息のリリアにソランを抱かせ、私たちの娘だよ、と囁いた。名を呼んでやってくれ、と。

 虚ろな目のリリアに、その声が届いているとは思えなかった。彼女は、もう何もわからず死んでいくのだと、誰もがそう思っていた。

 でも、リリアは、ソラン、と呟いた。最後の息で名を呼んだ。するとそれまでおとなしくリリアの胸の上でうつ伏せていたソランが、んぎゃぁ、と声を振り絞って泣きだした。握った拳を震わせ、体中を真っ赤にして、どの赤ん坊もそうであるように、全身全霊で何かに逆らい、必死で訴え始めた。

 誰もリリアからソランを取り上げ、あやそうとはしなかった。ソランの声がリリアを呼んでいるように聞こえた。

 ここにいて、ここにいて、どこにもいかないで。

 リリアはソランの泣き声の一つごとに、顔に赤みを取り戻していった。間遠だった呼吸も安定し、やがて後産も乗り越えて、健やかな眠りに落ちていった。

 それは奇跡の起きた瞬間だった。




 恐らく、リリアはあの瞬間に生まれなおしたのだろう。リリアとソランは鏡のようにして育っていった。ソランが一つ一つ成長していくにつれ、リリアの心もまた、急速に成長していった。誰とも合わなかった視線が合うようになり、ソランとなん語を交わすようになり、微笑むようになった。介助しなくても食事もできるようになったし、目に人間らしい色が見えるようになった。

 リリアは、もう大丈夫だろう。いつまで許されているのかはわからないが、すぐに女神の御許に呼ばれることはない。

 預言は覆された。有り得べからざることが起こった。どうしてなのかと考えた時、ソランの仕業なのだとしか言いようがなかった。


 女神が仰っていた、世界はソランの欠片、の本当の意味を皆が思い知った。ソランが世界の欠片なのではない。ソランは世界を支える神力の核を魂に持つのだから。

 それは恐ろしいことであった。彼女が本気で願えば、世界は理を変える。


 体が丈夫ではなくとも長く生き、ソランを導く役目を負うはずだったイリスの体が急に弱っていったのは、たぶんそういうことなのだろう。リリアとイリスの命運が取り替えられたとまでは言わない。けれど、リリアが生きることにより、同じ女神の巫女たるイリスの運命も変わってしまったのだろう。

 イリスはそれに感謝している。娘を失うことに比べたら、どれほどありがたいことか。夫のアーサーには大きな悲しみを与えてしまうけれど、彼はイリスの気持ちを理解してくれている。ただ、彼にとっては娘も妻もどちらが大切か選びようがないというだけで。


 今回はきっとこれで良かった。いや、この程度で済んでよかったと言うべきなのだろう。これがもし、大きな権力を握る人物の命を左右していたら、混乱はこの程度ではすまなかったかもしれない。それに、変わるのは人の命運だけではないだろう。もしかしたら、ソランは世界の事象自体を変えることができるのかもしれなかった。

 それは、人の身には過ぎたこと。ソランが人として生きるのなら、決してしてはいけないことだろう。たった一人の人間の願いが何でも叶ってしまう世界など、いずれ歪んで破綻するに違いない。




 だから、ソランには願うことを戒めさせた。ただあるがままの現状を、いつでも感謝させることを教え込んだ。

 祭壇の前に立ち、共に並んで跪き、幼いソランに繰り返し諭した。


「ここは女神にお願いをする場所ではないのよ。女神はいつでも私たちを見守り、必要なものを与えてくださっています。それ以上を望むのは傲慢です。女神には、ただ感謝を捧げるのですよ」


 その教えは、しっかりとソランの中に根付いてくれた。イリスが死にゆこうとしている今も、ソランは決して彼女の延命を願いはしない。彼女を惜しみ、最後の瞬間まで寄り添おうとしてくれてはいても。


 ソランが二歳を過ぎた頃、ティエンはリリアが第二子を身篭ったのを期に、ソランをイリスとアーサーに託すことを選んだ。リリアは日常生活に支障のないほどまで回復していた。彼は南部の豊かな地を拝領していたが、そちらもまわりがきな臭くなりはじめた頃でもあった。そこで、ソランが育った時を睨んで、王都で足場を固めておきたいということだった。

 彼もリリアも口にはしなかったが、イリスの容態を慮ってのことでもあったのだろう。リリアが回復したように、ソランと深く関わることによって、彼女の体調も回復に向かうかもしれなかった。そして何より、彼女には巫女としてソランに伝えなければならないことがたくさんあった。女神は役目のある者を連れ去りはしない。彼女にソランを預けることで、彼らは役目を与えようとしたのだ。

 そうして得られた時間はとても幸せなものだった。預言が成就したとか待ち望んだ者が生まれたとかいうことではなく、かわいい孫の成長を見守り、生きられたことが。


「おばあさま、お水はいる?」


 ソランが水筒を持って駆け込んできた。


「ええ、飲みたいわ」


 彼女が頷くと、掛け布をめくり、体を起こすのを手伝う。このところ急に背が伸びてきて、ずいぶん力も増し、軽々と痩せ衰えた体を支えて、背の後ろにクッションをあてがった。

 それから、井戸で汲んできたばかりの冷たい水を、コップに移してさし出した。


「とても美味しかったわ。ありがとう、ソラン」


 ソランは嬉しげに笑った。


「少し話しても大丈夫?」

「ええ。今日は体調がいいのよ」


 ソランは床に直に座り、左脇をベッドに寄りかからせて、誇らしげに話しはじめた。どうやらマリーと二人で組み手でイアルを打ち負かせてきたらしい。最後にマリーがイアルの股間に蹴りを入れて倒した、の(くだり)で、イリスは思わず口を挿んだ。


「かわいそうに。二人がかりで攻めた上にそんなことをしたなんて。あまり酷いことはしないのよ」

「負けたイアルが悪いんだよ。負けるくらいなら逃げろって、おじいさまは言うもの。それに、一人で勝てないなら、勝てる人数を揃えろって」

「逃げられないようにしたんでしょうに」

「うん。やるからには徹底的にやらないと反撃されるから。勝てば官軍なんだよ」


 イリスは曖昧に笑って溜息をついた。いかにもアーサーの教えそうなことだ。このままだとソランは尊敬されるような人物にはなれないだろう。ただし、非常に頼りにされる人物にはなるだろうが。

 ソランは、領地の外のことを何も知らない。この国の歴史も、しきたりも、何一つ教えられていない。彼女によけいな偏見を持たせたくなかったからだ。ただ、生き残る術と女神への信仰だけをしっかりと伝えた。あとは、彼女が自分の目で見て判断すればいい。たとえ宝剣の主であろうと、その心に適わないのならば、命を懸ける必要などないのだから。


「あなたもいつか」


 恋をするのだろうか、誰かと。もしかしたら、あの宝剣の主と。リリアとティエンのように、イリスとアーサーのように、苦難の時こそ、お互いの手を決して離さないような恋を。

 イリスはそんな気配を微塵も見出せないソランの表情に、笑いがこみ上げて言葉を途切れさせた。もう、初恋くらいしていてもいい年頃なのに、中身はむしろ、同じ年頃の男の子たちより幼い。色気のいの字も出てこない有様だ。


「いつか、なに?」

「一人でもイアルに勝てるようになるのかしら?」

「わかんない。なるようには努力するけれど」


 ソランが一番興味がありそうな話題を振ると、彼女は拗ねた顔をした。頭一つ分以上大きいイアルには、まだまだ一人では歯向かえないのだろう。あまりの力の差に、どうやったらできるのか想像すらつかないようだ。

 たしかにそんな相手に一人で挑むのは無謀だ。そして、勝てないなら逃げ出すことも重要だ。愚にもつかない誇りなど必要ない。生きていれば良い時も悪いときもある。でも、少なくとも生きていなければ、良い時を迎えられはしない。生き残ることにこそ、意味があるのだ。


 イリスは微笑んでソランの頭を撫ぜた。慰めと激励を込めて。ソランもイリスを見上げて、にこりと笑う。青い瞳が生き生きとした輝きを増した。

 アーサーがソランを探している声が窓の外から聞こえた。ソランはぱっと立ち上がって、窓から半身を乗り出した。


「ここ! すぐに行く!」


 そして振り返ると、ごめんね、おばあさま、これから川の見回りに行くんだ、と言いながら、丁寧な所作で布団の中に横たわらせてくれた。あ、でも、イアルは馬に乗れないかな? と、首を傾げ、呟いている。


「もしそうだったら、イアルにはここに来るように伝えて? お話し相手になってもらうから」

「うん、わかった。じゃあ、行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね。ソラン、窓から出ないの。ちゃんと扉から出て行きなさい」


 扉とは反対方向の窓へと足を向けたソランを窘める。放っておけば、ここは二階だというのに、窓の手すりにぶら下がっておいて、残りの高さを身軽に飛び降りてしまう。


「はあい」


 肩を竦めておどけた表情をして手を振ると、ばたばたと走り出ていった。

 イリスは少し疲れて、横たわったまま長く深い息を吐いた。それでも心はソランの躍動がそのまま宿ったように温かく、満たされていた。

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